「イエスの名が引き起こすこと」(2017年7月30日 花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

使徒言行録5:12-42

 学校が夏休みに入りました、旅に出たり、ふるさとに帰省(きせい)なさったりしておられる方もおられますね。

 先週派遣式をしたFくんは、今頃旭川の教会で礼拝をしているでしょう。

 今日は、東福岡教会のK先生ご家族が、休暇で帰省されて、礼拝に参加してくださっていますけれども、休暇ですから「メッセージ」をお願いできなくて、残念ですねぇ。

 今日の夕礼拝は、今年4月に福岡に送り出した、T神学生が、顔を出してくださいます。午前中は、川崎教会でメッセージの奉仕。そして明日、福岡に帰るまえに、ふるさとの教会に寄ってくださる、というわけです。

 会いたい方はどうぞ夕礼拝に来てくださいね。

 先々週から、風邪をこじらせて入院しておられたHさんですが、回復なさって、明日退院されます。お祈りを感謝します。

 入院中、面会はご遠慮くださいということでしたけれども、「牧師はいいよ」と言っていただいたので、なんどかお訪ねして、すこしお話した後に、「じゃあ、今日のお薬ですよ」といって、み言葉を読んで、お祈りして帰ります。

 神様に愛されている。その神の愛の言葉を聞いて、信じて祈ること。

 これは、どんな薬にもまして、人の心を励まし、勇気を与え、人の中から癒しの力を引き出していく、「魂の薬」なのだと、わたしはそう信じる牧師なのです。

 福音書の中に、12年もの間病んでいた女性が、主イエスの衣に触れさえすれば、いやしていただけるのだと、神学とか「正しい教理」とか、そんなものを飛び越えて、ただただ、「主イエスにすがる信仰」を通して、主イエスから癒やしの力が彼女の中に流れ、癒やされました、という出来事が記されていますでしょう。

そして主イエスは、この女性にいわれたわけです。
「あなたの信仰があなたを救ったのだ。安心していきなさい」と。

 この主イエスの、救いの宣言を聞くことがさえできたなら、もう大丈夫。きっと、勇気をだして生きていける。

 たとえ、また病むことがあるとしても、祈っても、よくならないことがあったとしても、「わたしの願いよりも、主よ、あなたの御心のままに」と、委ねる人となれるでしょう。

 主イエスを信じる信仰が、あなたを救った。あなたは救われている。安心していきなさい。

この神の子、救い主、イエス・キリストの口から放たれた、「命の言葉」

この「命の言葉」を、自分自身への言葉として、今日、聞くことが出来た人は幸いです。

 教会は、この主イエスという「命の言葉」。

十字架に死に、人の罪を贖い、
復活なさって今も生きておられる、

主イエスの「命の言葉」「福音」を、語りつづける仲間。共同体です。

 教会には、主イエスの霊が、聖霊が与えられているからです。約2000年前のエルサレムの教会も、そして今、この花小金井にある教会も、同じ聖霊が降り、宿り、働かれて、

主イエスのよき業を、表しつづけていく、キリストの体。


 さきほど朗読された、最初のエルサレム教会の姿、使徒たちが行っていたこと。

それは、まさに主イエスが、しておられたことです。

病む人々、汚れた霊に悩まされていた人々を癒し、「命の言葉」を語っては、人々を束縛から解放なさっておられた主イエス

その主イエスの霊。聖霊は今、教会の中で、使徒たちのなかで、働いておられる。

この驚きの報告を、使徒言行録を書いたルカは、ここに記すのです。

これを書いたルカは、精一杯、最初の教会の出来事を、文字にして、物語っていますが、当然ながら、文字にはならないこともあるわけです。

「音楽」を文字にして表現できないように、一度きりの、生きて動いている出来事のすべてを、文字にして伝えることはできない。

体の細胞を顕微鏡で観察するのも、どうしても、生きているその現場から取り出してきて、薄く切って、光を当てないと、顕微鏡では観察できないそうです。

でもそうやって、顕微鏡で見て、観察している細胞は、自分が生きている現場から、切り離された状態じゃないですか。

ある意味、死んでいるわけです。その細胞を観察して、分かった気になっているけれども、それは、「生きていた現場にあった細胞」を、見ているわけではないのと、似ているのです。

こうしてルカが文字にして記した、最初の教会の姿、使徒の働きも、ルカは精一杯文字にするけれども、生きて動いている教会のすべてを、文字にすることなどできない。

聖霊という、神の命によって動かされていた、教会のダイナミズムは、文字にはならない。

だから、ルカは、「聖霊によって」とか「聖霊に満たされて、教会はこういう奇跡をしたんですというわけです。

この「聖霊の働き」というものは、文字とか、文字で行う神学では、説明できないことです。

体験とか、祈りを通して、わかるしかない、命の事柄です。

聖霊の体験といっても、それは「ご利益」のことではないのです。

そうではなく、「今も生きておられる主イエスの引き起こす、出来事」のことです。

確かに主イエスは、ここにおられる。働いておられる。

それは、文字をこえて、私たちが日々体験する「出会い」や「出来事」のなかで体験すること、いや、すでにしていることなのです。

教会の中で、確かに今も生きておられる主イエスの「出来事」を、体験し、その体験を、自分の言葉で語る。それが「証」です。

そして、この使徒言行録を書いたルカも、まさにそれをしているのです。使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが、民衆の間で行われた。これは、確かに主イエスが働いている証し。聖霊の証なのだと。

でも、その「出来事」を、民衆は称賛しながらも、だからといって、仲間になろうとしない人もいたし、反対に、その「出来事」によって、主イエスを信じた人々も沢山いたのだと。

そして、この使徒たちを通して行われた、見えない主イエスの命が、

引き起こされた「出来事」が、次々と「出来事」を生み出したのだと。

それは、ユダヤの権威者たちが、使徒たちのしたことに対して、ねたみに燃えたということで、起こりました。

まさに、主イエスの時と同じです。多くの民衆を癒やされた主イエスを、ユダヤの権威者たちは、ねたみ、恐れ、捕らえようとした。

同じことが、使徒たちのうえにも起こった。彼らのなかに、主イエスがおられ、主イエスが出来事を引き起こしているからです。

使徒たちは捕らえられ、牢屋にいれられますが、夜中に主の天使が牢の戸を開けて、助けだし、こう告げます。

「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と。

「命の言葉」を告げなさい。

死んだ言葉でも、固定されてしまった「文字」などでもなく、

人を生かし、救い、いきて働く、命の言葉を、

神殿の境内にたって、民衆に残らず告げよ。

神殿という、当時のユダヤの、権威と秩序の象徴である場所で、

神を崇めているようでいながら、実は、権威者たちが、自分の立場を守るために、律法を利用し、宗教を利用し、民衆を苦しめていた、

その悪い時代の象徴となってしまった、神殿のその境内に立って、

人々を縛りつけ自由を奪う、律法の「文字」ではなく、

「命の言葉」を、主イエスの言葉を、福音を告げよ。

この主の使いのメッセージは、すべての時代の教会が聞くべき言葉でしょう。

使徒たちは、このメッセージに応えて、本当に神殿の境内で、福音を語り出した。彼らはおろおろしていない。怖じけてもいない。

むしろ、ユダヤの権威者たちのほうが、「どうなることかと、使徒たちのことで思い惑っ」ている。権威者たちのほうが、恐れ、おろおろしている姿は、滑稽ですらあります。

そして、恐れを感じている人間が、必ずし始めることを、彼らもしていきます。圧迫であり、迫害です。

大祭司は使徒たちを尋問します。
28節
「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じて置いたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」

大祭司。それは、神に最も近い立場とされた、ユダヤの最高の権威者。トップ。その大祭司に向かって、ペトロと使徒たちはこう言い放った。

「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と。

これと同じ「出来事」が、約1500年後のドイツで、一人の修道僧によって引き起こされたことを、わたしたちは知っています。

マルティン・ルターから始まった宗教改革から、今年は500年目。

その当時、教会が腐敗し、神の救いを金で売るという、「免罪符」。いまは「贖宥状」と言いますけれども、修道士たちが民衆に向かって、「金が箱の中でチャリンと音を立てるやいなや、煉獄で苦しむお前たちの親の魂は、たちまち天国に召し上げられる」などと説教していた時代。

 金を得るためには、聖書にないことをさえ説く宗教家たち、そしてそれを支えるローマカトリック教会システム全体に向けて、

人は律法の行いで義とされない。
神の救いは、キリストの十字架によってのみ与えられると、聖書は語っているのではないかと、有名な『95個条の提題』、問いを投げかけた

そのルターの問いは、法王の怒りに触れ、破門状をつきつけられてしまう。しかしその破門状を公衆の面前で焼き捨てたルターを、

ドイツ皇帝は、ウォルムスの国会に喚び出さし、訊問する。

今で言えば、国会の証人喚問と、最高裁判所の裁判を合わせたような場に、ルターは呼び出され、

ここに書かれていることを、すべて撤回するかと問われ、

ルターは、その場では答えず、24時間の猶予を求め、次の日に再開された国会の場で、こう言ったのです。

「私の良心は神と神の言葉にしばられているのです。わたしは何も取り消すことができないし、また取り消そうとも思いません。なぜならわたしが良心にそむいて行動することは危険ですし、また正しくないからです。(私はここに立っている。私はこのほかの何事もなすことができない)神よ、わたしを助けたまえ。アーメン。」

 ルターが言った「ここ」とは、場所のことではありません。「聖書の上に」「神の言葉の上に」ということでしょう。

この500年前に起こった「出来事」もまた、主イエスの名によって引き起こされた、「出来事」。神の物語。


ペトロが、「人間に従うよりも、神に従わなくてはならない」と言ったのも、

ルターが「我、ここに立つ。神よ、我を助け給え」と言ったのも、

ただの自分の思い込みや意見を、神に従うとか、神の言葉に立つのだと、いっているだけなのでしょうか?

どうしたら、わたしたちは、ペトロの語る言葉を、ルターの語る言葉を、人間から出たものではなく、神から出たものだと、知ることができるのでしょうか?

そのヒントが、今日の長い物語の最後に記された、律法の教師、ガマリエルの言葉の中にあります。

ガマリエルは言いました。
「あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間からでたものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者になるかもしれないのだ」と(38節〜39節)

1世紀のユダヤには、沢山の革命家が現れては消えていった。
「テウダ」という男「ガリラヤのユダ」という男が、民衆を扇動して反乱を起こしたが、みんな滅びてしまったじゃないか。

 神からでたものなら、人間は滅ぼすことなどできないはず。だからほおっておけばいい。このガマリエルの言葉は真理です。

主イエスも、こう言われたことがありました。
「よい木はよい実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。・・・あなたがたはその実で彼らを見分ける」と

そういわれて、「命の言葉」を語られた主イエスを、ユダヤの権威者たちは、ねたみ、恐れ、ローマの手を借りて、十字架につけた。

ナザレの田舎の、一人の男を滅ぼすことなど、たいしたことではなかったのです。追従者たちも、みんなバラバラになってしまった。

「テウダ」とか「ガリラヤのユダ」と同じように、あの「イエス」も滅んでしまったはずだったのです。

しかし今、あの滅ぼしたはずのイエスと、同じことをしている人々が現れた。

そして、彼らはこういっているのです。

神は、あなたがたが殺したイエスを復活させられたのです。
神はあなた方を悔い改めさせ、その罪を赦すため・・・

裁くためではなく、赦すために、
このお方、主イエスを導き手とし、救い主としたのだと。


わたしたちは、この「出来事」の証人なのだと。だから、語らないわけにはいかないのだと。

このメッセージが、人から出たものなのか、つまり教会の作り話なのか、それとも、本当に神から出たものなのか、

それは人間がいくら分析してみたところで、わからない。

ただ、「出来事」を通して、「実ってくるもの」を通して、やがて明らかになる。

 繰り返し繰り返し、その時代の権威者から、迫害されても滅びず、むしろ増え広がっていった教会のことや、

沢山の失敗を繰り返しながらも、教会を通して語られた「福音」によって、沢山の実りがこの世界にもたらされてきた、約2000年の歴史をみるときに、

この「福音」が、

単なる人間が作りだした話なのか、

それとも、本当に、神から出た救いなのか、

わたしたちは、知っているのです。だからこそ今、わたしたちはここに集い、イエスの名によって、神を礼拝しているのです。


ペテロやほかの使徒たちは、イエスの名によって話してはならないと命じられ、鞭打たれます。そのことさえ、彼らは、「イエスの名のために辱めを受けるほどのものにされた」と喜んでいる。

なにが彼らをそうさせたのでしょうか。彼らの中で生きて働いている、その「何か」を、聖霊の働きを、人はとらえて説明などできません。

聖霊は風のように思いのままに吹き、その時代、時代のなかで、信じる人々のなかで、働かれるのです。


 最後に、村上宣道という牧師さんが書いた、この使徒言行録の解説のなかにあった証を紹介して、メッセージを終わりにします。

使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどのものにされたことを喜びながら、最高法院から出て行ったと書かれている。

 平和で自由な今日の日本では、このような当局の弾圧はまずおこらない。だが、戦時中にはこれに近いことが実際にあった。私の父は牧師であったが、戦時中に検挙されて留置された。父の牧会していた教会は解散させられ、集会は禁じられた。当時わたしたちは青森市にいたが、母はリンゴの袋はりなどして、留守の家庭を支えていた。私はその母の苦労を間近に見て育ったが、子ども心にも不思議だったのは、いつも母の口から賛美があふれ、いつも母がにこにこしていることだった。母はよく「お父さんは、イエスさまのために苦しめられて、きっと喜んでいるよ」と話していた。時代が時代だけに、わたしも学校で「スパイの子」とののしられたり、石を投げつけられたりすることがしばしばあった。だがそんな時でも私は母と、「きょうもイエスさまのためにひどい目に遭ったよ。でも、天国でのご褒美がまたたまったね」などと言っていた。父は病弱だったせいもあってか数ヶ月で出所できたが、近くで伝道していた牧師が獄死したという知らせを聞かされたときの厳粛な思いを忘れることが出来ない」


 今、この日本で、福音を語ったからといって、わたしたちを牢にいれる人はいません。わたしたちは自由です。自由にイエスを信じ、イエスの名によって語ることができるのです。

 しかし本当にそうでしょうか。

今、この時代に、福音を語るなと、わたしたち自身が、自分を牢に閉じ込めてはいないでしょうか。

自分で自分の心を、牢に閉じ込めて、自分が本当に信じていることを、証を、語れなくしてしまってはいないでしょうか。

 イエスの名によって語るなと、牢に捕らえられたペトロたちを、牢から外に連れ出し、解放した天使は、言いました。

「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民に告げなさい」と

今日、この礼拝の中で聖霊は、わたしたちをも、心の牢から解き放ち、

いって、この命の言葉を、神の愛を、語りなさいと、言われるのです。