「良心と言葉」(2017年7月30日週報巻頭言)

「あったもの」を「ない」と言い、「あった出来事」を「なかった」と言っているのではないか。言葉こそ命の言論の府において、言葉に対する疑いと疑惑が尽きない、むなしさを思う昨今です。

さて、今年はマルティンルターから始まった、宗教改革から500年目の記念の年。
贖宥状(免罪符)という、金で罪の赦しを売るという、聖書の指針に反することを平気で行うまでになってしまった教会の権威に対し、ルターは「95か条の提題」によって問いかけたのでした。その結果、ヴォルムス国会に呼び出され、自説を取り消すように迫られたルターは、こう言ったのです。


「聖書の証言と明白の根拠をもって服せしめられないかぎり、私は、私が挙げた聖句に服しつづけます。私の良心は神のことばにとらえられています。なぜなら私は、教皇公会議も信じないからです。それらはしばしば誤りを犯し、互いに矛盾していることは明白だからです。私は取り消すことはできませんし、取り消すつもりもありません。良心に反したことをするのは、確実なことでも、得策なことでもないからです。(※)
神よ、わたしを助けたまえ。アーメン。」(「マルティン・ルター」徳善義和より)


「良心に反したことをする(語る)のは、確実なことでも、得策でもない・・」
国会という場で言葉を語る人々に、このルターの言葉は、今も問い続けています。

(※のところで、「私はここに立ちます」とルターが言った説もある)