「聖霊が降ると力を受ける」(2017年5月21日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

使徒言行録1:1ー11

 今日も、始めてこの教会に来てくださった方がおられるでしょうか。
 違う人生の日々を生きてきた私たちの時間が、今日、この場所で一つに重なりました。

 同じ主なる神に招かれて、主イエスキリストにおいて、共に天を見上る、この貴重な一時間。わたしたちは一つとされています。

 この、一つとなって礼拝する民を生み出すために、主イエスは十字架に命を捨てて、互いを隔てていた「罪」を贖ってくださいました。

この神の愛の実りが、この礼拝です。

ここに集うわたしたちひとりひとり。神の愛、主イエスの十字架と復活の実りです。

わたしたちは、「福音」の実りとして、ここで礼拝している。感謝です。

 ところで、先週は、母の日でした。先週、礼拝に出席された方は覚えておられると思いますけれども、男性グループが、小さなお花を50株用意して、女性の方々に、お配りしましたね。それでも、10数株、残ったのです。

 まあ例年それくらい残るので、残ったものは、教会の外にテーブルを出して、通りがかりの人々にお裾分けをするのです。

「福音」のメッセージを書いた葉書と一緒に、花を袋に入れてですね、「教会から母の日のプレゼントです。どうぞお持ちください」と置いておいたら、通る人通る人、「いいんですかぁ」と、いいながら、持って行くんです。あっという間に、30分ほどで10数株が、なくなってしまいました。

恐るべし、お花の魅力という話です。

よく、教会の仲間を話をしていると、最近、なかなか教会に人が来ないとか、高齢化して、困っているという話を聞きますけれども、入り口から会堂まで、お花をならべておいて、気がついたら道行く人が、会堂に入っていたという、伝道はいかがでしょうか。

 でも、そもそも「お花」の魅力に、「福音」の魅力は負けてしまうのでしょうか。今日、飾られているお花も、実に美しいですけれども、だからこそ、このお花に負けないように、「福音」をちゃんと語らないといけないと、思わされます。

「花は」来週には散ってしまうかもしれない。でも、「草は枯れ、花はしぼむ。しかし主の言葉は、神の言葉は永遠に変わることがない。というこの「福音」の魅力は、時代も文化も越えて、すべての人に届く、美しい神の花なのです。

 ここに集う私たちは、そのことを知っているからこそ、今、ここで礼拝しています。

「福音」は、時代を超え文化を越え、人を救う、素晴らしい宝なのです。

そして、この「福音」の香りは、この香りを体験した人から、教会から香ってきます。

花は、蜂を探しに行かなくても、待っていれば香りに誘われて、蜂はやってくる。わたしたち一人一人から、「福音」の花の香りさえ放たれたなら、人々はその香りに惹かれてやってくるでしょう。


今、ますます閉塞感を感じる時代にあって、疑いや恐れ、緊張、ストレスが高まるばかりの世の中で、

むしろこの神が放つ美しい香り。「福音」の香りが際立つでしょう。


それは、道端に咲いている花が、たとえ人に踏みつけられたとしても、むしろ、踏みつけられたからこそ、蜜の香りが、周りに広がっていくことになるように、

主イエスキリストの十字架の苦しみも、そして、主イエスを信じる人々の苦しみさえも、神はすべてを「福音」の香りに変えてくださる。

「復活」

神は、驚くべきことに、十字架に死んだ主イエスを、「復活」させられ、今にいたるまで、この世界を救う「福音」の香りを放ちつづけています。


主イエスは今、生きておられます。だからこそ、わたしたちは今、その香りに寄せられて、今日もここに集いました。


この「福音」の美しい花を知ったなら、この花を、「福音」の喜びを、独り占めにしていたら、心が痛むではないですか。


だから、ちょっと勇気を出して、身近な人に「ちょっと、教会にいってみない」と声をかけたくなるでしょう。

「ほんと、だまされたと思って、行ってみない」と。・・別に、だましたりなどしませんけど。

「あなたも神さまに愛されているんだから。とにかく行ってみないって、この「福音」の香りをお伝えしたい。


今週から読み始める「使徒言行録」は、そんな「福音」を伝えずにはいられないと、出て行った最初の教会の物語です。

 復活したイエスさまが、天に昇って、目には見えない、神の霊、「聖霊」として、弟子達のなかに宿っていく。


そして教会が生まれ、教会を通し、イエス様が、聖霊が働いて下さったのだと、様々な「証言」や「言い伝え」を集めて、

「ルカ」という人が編集して、一つの物語にしたのが、この「使徒言行録」


実は、わたしたちは4月まで2年間。この礼拝でルカによる福音書を読んできましたが、その「ルカ」書いた第一巻が「ルカによる福音書

そして第二巻がこの「使徒言行録」

つまり、これは続編なのです。

先ほど朗読された、一番最初、1節にこうありましたね。

テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天にあげられた日までのすべてのことについて書き記しました」この第一巻とは、「ルカによる福音書」のこと。

テオフィロ「さま」と敬語になっていますが、他の訳では「テオフィロ殿」となっています。おそらく当時のローマの高官だったんじゃないか。そういう偉い立場でありながら、クリスチャンになったのは、どういう出来事があったのだろうと、想像が膨らみますけれども、よく分からない。もちろん、テオフィロ一人がクリスチャンで生活していたのではなく、当然、一緒に礼拝する教会があったはずですから、テオフォロの教会の人々に、ルカは書いていると、推察できます。


この時はおそらく、イエスさまが十字架についてから、約50年ほどたっていたようです。約50年くらい経って、ローマにまで教会が出来た。そこまで教会が当時の世界に広まっていったその奇跡的な出来事を、ルカは物語にまとめる必要を感じたから、これを書いたのでしょう。それはおそらく、テオフィロの教会を励まそうとしたんじゃないか。


実は、この花小金井教会も、最初の主日集会が始まってから、50年の月日が経っているのです。ちなみに第一回目の礼拝の日は、私の1才の誕生日だったのですけれども、まあ、どうでもいいんですが、そういうわけで、花小金井教会は、わたしと一つ違いの50歳。教会組織は69年なので、再来年に50年のお祝いですけれども、いずれにしろ、50年くらいなら、まだ教会の最初の頃のことを知っている方は、沢山おられるわけです。

 今日は、ここにこの花小金井キリスト教会の教会組織10周年記念誌を持ってきました。
見えますか。この表紙。「手作り感満載」でしょう。

 ワープロなんかなかった40年前のものですから、そういう意味で整ってはいないのですけれども、今読んでみると、実に熱い信仰の熱気というものが伝わってくるのです。

沢山の人々の、証が載っていますし、10年間の年表が記されていって、実に沢山の出来事が起こったことが分かります。沢山の人々、子ども達、運動会でフォークダンスまでしている写真が載っていました。

巻頭言では、2代目牧師の川井先生が「成長させてくださるのは神」というメッセージを書いておられて、聖霊によって教会は成長してきたのだと、書かれている。アーメンだと思いました。

もうそろそろ、わたしたちも、ルカのように、花小金井教会版の、「使徒言行録」が書けるんじゃないですか。様々な証言、証、伝承などの資料を、取捨選択して、聖霊によって導かれてきた、教会の物語が、使徒言行録、花小金井教会の物語、が書けるでしょう。

そして、わたしたちは、そういう、神さまに導かれた物語。聖霊に導かれた物語を、なんどでも読むことを必要としているのです。テオフィロの教会が「使徒言行録」を必要としたように、わたしたちも、歴史のすべての教会は、確かに神が、聖霊が、教会の中で働き、教会を通して働き、教会を越えて働いてくださったし、これからも、働いてくださるのだということを、信じて、希望していくために、「使徒言行録」を、今日もわたしたちは読み続けていくのです。

さて、「使徒言行録」が物語る、神の物語を短くたどってみましょう。

1章3節
「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国についてはなされた」

エスの苦難。それは、十字架の死です。しかし、主イエスは生きておられ、40日の間、弟子達に現れ、弟子達と一緒に食事さえなさった。

そしてその食事の席で、弟子たちに対し、「約束のものをまて」といわれる。つまり「聖霊」を待てといわれる。

弟子たちの上に、「聖霊」が与えられる時が来るから。そのことを「聖霊によってバプテスマを受ける」と、主イエスは言われます。

 ところが、使徒たちは集まり、イエスさまに訴える。「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時ですか」と。

彼らは、ちょっと「とんちんかん」な問いをしてしまう。なにが「とんちんかん」なのかといえば、弟子たちは、復活したイエスさまに出会ったことが、これでハッピーエンドだとおもった。これで終わりだと思った。神の国が完成すると思った。しかし、実はそうではなく、復活は終わりではなく、むしろ新しい始まりだったのだ。ここから、神の国の完成。救いの完成に向かって、福音がこの世界に広がっていく、やがて、天の父が、ご自分の権威をもって定めた、「神の時」が来た時に、主イエスがこの地に帰られ、すべてを完成する。新しい天と地が実現する。その壮大な神の救いのストーリーの終わりではなく、第2幕の始まりだったのだ。

ここから、主イエスが十字架と復活によって成し遂げた、「福音」が、全世界へと宣べ伝えられていくことになる。その素晴らしくも、価値のある働きのために、教会のなかに主イエスは宿り、教会を通して、働くという、神の歴史の第2幕が今や始まったのだ。

弟子たちが、終わったと思ったところから、実は始まり、今に至るまで、この神の救いの第2幕は、続いているのです。

復活の主イエスが、雲に覆われ、弟子達の目から見えなくなったその時から、

やがて、同じ有様で、この地上に来てくださる、その時まで、神の救いの物語は終わらない。
目には見えずとも、生きて働かれる主イエスの霊が、「聖霊」が、信じる人々の中で、活き活きと働き、「福音」の香りが放たれていく、新しい物語は、今日も続いている。

ルカは8節で、その神の物語の広がりを、こう宣言します。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」

この地の果てのなかに、この日本も、花小金井も含まれているのです。そして、未だこの「福音」の香りが届いていない、わたしたちのすぐそばに生きる人々もまた、地の果てのなかに含まれている。

この使徒言行録は、ローマに「福音」が届くところで終わります。ルカはそこまでしか知らないからです。人は一つの時代しかいきられません。まさか彼は、自分の書いたものが2000年も経ってから、この遠い日本に生きるわたしたちを励まし、力づけることになるとは夢にも思わなかったことでしょう。

そもそも「使徒言行録」に出てくる、最初の頃の教会で、今も同じ姿で残っている教会は、ないのです。教会は、神ではないので、永遠に存在することはないでしょう。

 教会は、そして、クリスチャンひとりひとりは、神の霊が働かれる器なのです。器はやがて壊れます。しかし、神の霊は、聖霊は、時代を超え、文化を越え、信じる人々を通して、働き続ける。

この花小金井教会につどう私たちも、器は弱く、限界があり、目に見えるところでは、いろいろと痛んでいるように見えるとしても、

器のなかに秘められている、宝は何一つ変わらない。

使徒パウロは、こう言いました。

「・・・わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神の者であって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」(2コリ4:7)

また
「わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、私たちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」(2コリ4:16)

そして
「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではない、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存在するからです」(2コリ4:17ー)

 わたしたちは、神の霊、聖霊が宿る器です。器は衰え、古びても、器の中身はいつまでも変わることなく、活き活きと生きて働かれる、神の霊。聖霊に満ちているのです。

 つい、目に見える「器」を見つめてしまって、古くなったとか、弱くなったとか、限界だらけだと、落ち込んでしまうわたしたちに、そして、きっとテオフィロの教会の人々に必要なのは、この「使徒言行録」の物語。

「教会」という器に与えられている、本当の魅力は何なのか、力はなんなのか、その「福音」の本質を、ご一緒に再発見していきたい。

テオフィロの教会が、この「使徒言行録」を読んで励まされたように、わたしたちも励まされ、刷新されたい。

今年は宗教改革から500年。ルターたち、宗教改革者達のあのすさまじい改革のエネルギーは、別に、新しい教えを発見したからではなく、パウロがそもそも語っていた信仰の原点に立ち戻っただけの話です。

原点を取り戻す時、わたしたちは失いかけた力を、再発見する。

知らない間に、抱え込んで重たくなってしまった、荷物を整理し、断捨離し、本当に重要なこと、意味あることに、集中していく力と自由を、得るのです。

 しかし、それでもわたしたちは、時に、教会というものに失望します。教会に集うことが辛くなることがあります。一人で聖書を広げて、祈っていたいと思うこともあるでしょう。

天を見上げることが出来なくても、目の前の人だけが見えてしまうとき、「こんな自分が教会にきていいのだろうか」とか、人のことが気になって、心が疲れてしまうこともあるでしょう。居場所が見つからなくて、辛くなってしまうこともあるでしょう。

体中から針がでている、山嵐とかハリネズミのように、近づきたいけど、近づくとお互いの針で差しあって、痛い。でも、離れて一人では寂しい、というジレンマを感じることもあるでしょう。教会も人の集まりですから、そういうことがあって当然です。

そういうときこそ、どうか、思い起こしてほしいのです。そのお互いから出ている針と針の間に入って、突き刺されるようにして、十字架の上で突き刺された主イエスが、今、生きてわたしたちの間にいてくださることを。

今日の使徒言行録の3節で、ルカが一番最初に語っているこの言葉を、
「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒達に示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国についてはなされた」と、ルカが語る言葉を。これはまだ、復活から約50年前のことなのです。当時のことを知っている教会の人が、また沢山いたはずなのです。ルカは嘘なんか書けません。本当にイエスは復活したから、ルカはそう書いた。

そして、今、わたしたちの互いの針によって、つまり「罪」によって突き刺された主イエスは、わたしたちがそれでも共に、生きていけるようにと、その突き刺されたまま、十字架につけられたままの姿で、生きて、わたしたちを互いに繋いでくださっている。

互いを見つめるのではなく、この十字架につけられた、主イエスをこそ、見上げつづけること。ここに教会に、共に生きていく、わたしたちの土台があるのです。

わたしたちは、一人では天を見上げつづけることはできません。祈れない自分の代わりに、誰かが祈ってくれる。そんなお互いに助けられつつ、共に主を見上げていく現場。それが教会です。

最後に、大切なポイントがあります。主イエスの弟子たちは、復活の主イエスに出会って、すぐに飛び出し活動を始めなかったということです。

神の霊。「聖霊」が自分たちの上に降るまで、エルサレムにとどまったのです。

動いてはいけない時があるのです。自分の思いでいっぱいで、平安がないときは、じたばたせず、静まり祈り、神を待ち望みましょう。

聖霊を、待ち望みましょう。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」と言われた、主イエスの言葉を信じつつ。