聖書教育のカリキュラムにそって、黙示録を7回にわたって読んできました。
本当は9回だったのですけれども、2回はTさんにメッセージしていただきましたので7回です。
振り返ってみて、中間部分の破壊的な描写のところは、あまり取り上げられなかったですね。むしろ、所々に砂漠のオアシス、戦場のなかの非戦闘区域のように、突如出現する、天上の礼拝の風景に、慰めと希望の御言葉をいただいたと思います。
聖書は不思議な書物だと思いますけれども、はじめも最後も、結局神様の創造の出来事で終わるわけですね。
最初が旧約聖書の創世記。神は天と地を創造された、から始まって、最後は、黙示録の21章で、古い天と地は過ぎ去り、新しい天と新しい地が下ってくる。
新創造で終わる。
14節には「命の木」という描写もある。明らかに、創世記のエデンの園にある、「命の木」とリンクしているのでしょう。聖書は、数千年に渡って、たくさんの著者によって記され、集められ、編集されていながら、不思議に一つのまとまりがあり、神の創造された天と地が、紆余曲折をへて、新しい天と地に更新されていく、一大ストーリになっているように、読める。
それが、この黙示録が聖書に記されている、非常の重要なポイントではないですか。
もし、黙示録がなければ、この古い天と地が、新しい天と地に向かっているという希望も、ストーリーもなかったわけですから。
そうなると、聖書は新約聖書の、パウロの手紙までで終わってしまうわけでしょう。テサロニケの手紙などには、少しだけ終末論があるけれども、黙示録とは比べることもできない。
やはり黙示録があるからこそ、聖書は神様が始めた、天と地の救いのストーリー。主イエスキリストが王となり、イエス様を主と仰ぐ、新しいイスラエル、神の民の住む、新しい天と地に向けての、神様の救いの大ストーリー。
そうであるからこそ、この黙示録の一番最後18節に、
「これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをそのものに加えられる」とか、
「この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書に書いてある命の木と聖なる都から、そのものが受ける分を取り除かれる」という、怖いこともかかれていくのでしょう。
だれもそんな改ざんなどしないんじゃないかと思いますけれども、こうして釘を指しておくほど、黙示録は聖書のこの最後にあるべきであると、黙示録自身が主張しています。
13節では、やがて再臨される主イエスが、それをこう宣言します。
「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」
仏教は輪廻思想ですから、初めも終わりもなく、万物は流転し、魂の不滅を説くわけです。
それはある意味、人間の思考、考えとしては、おさまりがいい。
目に見える世界と、目に見えない世界を一つの循環システムと考えることは、人間の頭の中の思考としては、収まりがいい。ある意味、納得できる考え方でしょう。
見える世界と、見えない世界が、ぐるぐると循環しているシステムになっている。そのシステムの中には、例外はないわけです。つまり超越者は必要ない。
そのときにおかれた世界で、人間なら人間のときに行ったことによって、死んだ後の世界が決まるシステム。そこには、何の恣意性もない。公正で公平なシステムでしょう。キリスト教が説くような、罪を犯しながら、赦されるという不公平さはない。自分が行ったこと、行ったこと、行わなかったことに従い、ある意味機械的に、次のステップが決まる。人情の入る余地はない。厳格に、公平に、粛々と次のステップに進む。
この理解で、間違っていたらごめんなさい。言いたいことはこうなのです。
聖書は、この世界をそのような無人格的なシステムとは考えていない。
人格者が、始められ、人格者が導かれ、人格者が終わらせる歴史であると告げていることなのです。
言い換えれば、この世界は、その人格者のさじ加減がはいる、というか、聖書は最初から、その人格者を、ヤハウェと呼び、ヤハウェの神が、あちらこちらに介入してこられて、直接的に、人に語ったり、預言者を通して語ったり、人を招いたり、導いたりしながら、やがて決定的な神様の介入の出来事として、神の子が、主イエスがこの地上に生まれ、神の言葉を語り、十字架に殺されたけれども、復活し、今は、目に見えない聖霊として、引き続いてこの地上に介入しておられるし、そのもっとも目に見える形として、ここにも主イエスを信じる教会があるわけです。
主イエスが、本当の王であると、私たちが告白するのは、そういう意味でしょう。この世界は無機質に、ぐるぐる回っているだけのシステムではない。人格をもたれた方が始められ、導かれ、終わらせる、そのお方の手の中にある国なのだ。そのお方。この世界の初めであり、終わりであるお方を、わたしたちは、主イエスと告白する、実に不思議な人々です。
そもそも、人格というもの事態、実に神秘的であり、理解し尽くせないもの。
わたしたちは、言葉で思考しますしコミュニケーションします。でも、思考だけではなく、人格は「感情」という実に不思議な特質を持っているでしょう。怒り、悲しみ、喜び。
聖書の神様も、怒られるし、悲しまれるし、喜ばれるお方であることを、私たちは主イエスにおいて、知っています。つまり、人格というものは、ロジック、論理的な言葉を越えた、言葉にはならない感情、情緒こそが、人格の本質にある、ということです。
そういう視点で聖書をみると、たとえば、旧約聖書のなかで、悪にまみれたソドムとゴモラに対して、怒られた神様を、アブラハムが、なんども説得するようにして、なだめていく、というやり取りも、まさに神様は感情のない、正義と公平を実現する、マシーンではないのだということを、表していることに気づきます。
主イエスも、ある時異邦人の母親とやんでいる娘と出会ったとき、娘をいやしてほしいと願う母親に、当初イエス様は、自分の使命は、まずイスエラルという、神の子にパンをあげなければならない。子犬にあげるわけにはいかない、ということをいわれて、でも母親は引き下がらずに、子犬も食卓から落ちたパンくずはいただきます、といったら、そこまでいうならと、娘をいやされたでしょう。
もうすべて神の計画で決められている。ただ、その決められた計画のまま、粛々と歴史を導いていく、という、まるでお役所仕事じゃないんです。この歴史は。
役所の窓口の人は、いくら住民が陳情に言っても、自分ではどうにもできないでしょう。規則で決まっているんですとしかいえない。
しかし、わたしたちのこの歴史を導かれている、初めであり終わりであるお方は、役所の下っ端さんじゃないんです。王なんです。
民の叫びを聞いて、心動かされ、エジプトからイスラエルを救い出した、お方が、
今も、この歴史を導いておられる。神の子である、私たちとのコミュニケーションをとりながら。私たちの祈り、叫びを聞きながら、心動かされながら、この歴史を導いておられる。
もう、天にいってしまわれましたけれども、私の尊敬する牧師さんが、よく言っていたのは、
神様に、いつも「そこを何とか、お願いします」って祈るんだよねって、言っていたのが忘れられないんです。
「そこを何とか」って食い下がる祈り。
どうせもう、すべて神様のご計画なんでしょう。動かせないんでしょうという、あきらめではなくて、相手は下っ端じゃなくて、ある意味この世界の社長さんなんだから、そして、わたしたちは選ばれて、神の祭司とされている訳でしょう。
「そこを何とかなりませんか」「困っているんです。この世界はこんなに痛んでいるんです」「どうかお願いします。」そう祈り続けることで、歴史は変わるんじゃないですか。
オバマ大統領が、広島の地にたった。どういう力学が働いているのかは知らないけれども、とにかくこういうことが起こるとは思っていなかったことが、起こったのは事実。
「そこを何とか」「神様、どうかこの地上に平和を、神の国をきたらせてください」
その祈りが、神様の心を動かすのを、神様が待っておられるのかもしれない。
この世界の暗闇が暗ければ暗いほど、光を求め、救いをもとめて祈る祈りは、神様に向かう思いは、厚くなっていく。
11節
「不正を行うものは、なお不正を行なわせ、汚れた者は、なお汚れにまかせておけ。
正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ」
この言葉に、この世界の深い闇が、悪が、むしろ聖なる者の、さらなる祈りへと昇華されていくイメージを、わたしは読みとります。
やがて歴史の終わりに、主イエスの十字架の血によって、衣を洗っていただいて、入れていただく新しい都。
その都と対照的に、
15節では
犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる
といわれています。
これを、あの人、この人と当てはめると、人間が最後の最後に二つに分けられる話になるけれども、そうではなく、かつてわたしたちも、みだらだったり、人を殺したことはなくても、おまえなんか死んでしまえと、言ったことがあったり、偶像にすがったり、嘘をいったり、そんなわたしたちのすべての汚れた衣が、主イエスの血によって、現れて、新しい都に入るということなんじゃないでしょうか。
救いも永遠の命も、すべての人に開かれている。
17節の最後に、「命の水がほしい者は、値なしに飲むがいい」とあるとおりです。
17節
「霊と花嫁とが言う。「来てください」これを聞く者も言うがよい、「来てください」と。
私たちが待っているのは、無機質な、正義と公正の実現する未来ではないのです。
愛する方が、命を懸けて、愛してくださる方が、その愛の歴史を完成させ、100パーセント全うしてくださる、その時を、わたしたちは、待っている。まち望んでいる。
それは恋愛のすえに、結ばれる結婚式の日をまつ、花嫁のように。
ずっとずっと、あこがれていたあの方に、
主イエスが来てくださるのを待つ、花嫁のように、
わたしたちは、いつも心のそこで、
イエスさま、「来てください」と祈り続けたいのです。