ルカ12:35ー48
先ほど、Fさんを、花小金井教会の会員としてお迎えすることができました。
わたしたちの教会として、本当に嬉しい出来事ですけれども、Fさんにとっては、本当に大きな決断、新しい一歩を踏み出してくださったのだなと、思っているのです。
61年も一つの教会で信仰の歩みをしてこられて、そこには苦楽を共にした信仰の友も、沢山おられるでしょう。
この近くに越してこられたという、ご事情もおありですけれども、それでも61年の間一筋に仕えられた教会を離れ、新しく花小金井教会のメンバーになるという、決断をなさることは、実に大きな決断だったと思いますのに、周りのご家族やご友人もびっくりするほど、とてもあっさりと、とても潔く、決められたのです。
イエス様が、さあ、こっちにおいでと招かれたとき、つい「そうはいわれても」とか「まだ状況がよくありませんので」といわないで、
周りの人も驚くほど、「はい、まいります」とすぐに立ち上がって歩みだされたFさんの姿は、今日の主イエスの御言葉と、とても響きあうではないですか。
イエス様は弟子たちに、そして私たちにいわれます。
腰に帯を締め、ともし火をともして、主人が帰ってきたら、すぐに飛んでいって、「お帰りなさい」と、戸をあける人のようでありなさい、と。
今か今かと、帰りを待ちわびている心。愛する方の帰りを心待ちにする、僕の心でありなさいと。
先週の礼拝では、何を食べようか、何を飲もうかと思い悩むな、あなた方の天の父は、喜んで神の国をくださる。だから大丈夫だという宣言を聞きました。
わたしたちは、その言葉に励まされ、一週間を歩み始めるけれども、またいつの間にか、思い悩んでしまうでしょう。
天の父は喜んで神の国をくださるといわれるけれど、私の周りの現実は、なかなかそうは思えない。
それはいったい、いつなんでしょう。神の国は、平和は、いつになったら、私の周りに、世界にやってくるのでしょう。
それは、このルカの福音書がかかれた頃の、迫害のなかにあった教会は、なおさらそんな思い悩みを感じたでしょう。
わたしたちも、毎週主イエスの言葉を聞く。おそれるな、思い悩むな、神の国はやってくる。いや、すでに来ている。その主イエスの言葉を聞く。
でも、この主イエスの言葉に、希望を持ちつづけることに、難しさを感じることも、あるでしょう。
今日のたとえ話で、主人の僕が、いつ選ってくるのかわからない主人の帰りを待っているように、
イエス様の言葉が、約束が、このわたしの人生に、わたしたちの世界に実現することを、
今か今かと、わくわくして待ちつづけることは、難しい。
であるからこそ、イエス様は「腰に帯を締め、ともし火をともして、すぐに動ける準備して、主人をまちなさい。主人である天の父を待ちなさい」
と、言われるのでしょう。
38節では「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのをみられる僕たちは、幸いだ」
ともありますし、さらに39節では
「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやってくるかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけないときにくるからである」
といわれます。泥棒がやってくるのと、愛する主人が帰ってくるのでは、ずいぶん違う話ですけれども、いずれにしろ、ここで言われているのは、いつでも心の準備をしておきなさい。用意をしておきなさい、ということでしょう。
いつか、復活した主イエスが、もう一度この世にこられ、約束を実現して下さる。それは、1000年先かもしれないし、今日かもしれない。
主イエスとお会いするという意味では、わたしたちの地上の命が終わって、主イエスとお会いする日も、いつかはわからないでしょう。
それは、50年先かもしれないし、明日かもしれない。でも、確実にその日はきます。だから、準備しましょう。
いつ主イエスとお会いしても大丈夫。いや、むしろ早くお会いしたい。お会いしたなら、こう言いたい。
「ずっとお会いしたかったんです。あなたがくださったラブレターを、聖書の言葉を、毎日毎日、読んできたんですよ。やっとお会いできました。うれしいです」
そういうあこがれの心で、今を生きていきたいではないですか。
「目を覚ましているのをみられる僕たちは、幸いだ」と、主イエスが言われる僕とは、主人のことが大好きで、信頼していて、その言葉をずっと胸にいだいて、まっていた僕に違いないのだから。
わたしたちも、そうありたい。たとえ、今日、天に招かれるとしても、「なぜ今日なのですか」「どうしてですか」「私には私の都合があったんです」と、じたばたしながら、イエス様にお会いしたくない。イエス様、お会いしたかったんですと、その懐に飛び込む心でいたい。
その心の目を、礼拝を通して、覚ましていたいのです。
さて、後半では、弟子のペトロが、この僕のたとえとは、わたしたちのことですか、それともみんなのことですかと、質問をしています。
イエス様はその質問に直接お答えにならないんです。これは自分たち、弟子たちのことですか、みんなのことですか。
なぜか、この質問にまっすぐイエス様は答えずに、むしろ、新たにたとえ話をなさるのです。
それは、「忠実で賢い管理人」と言われる僕と、主人の帰りはどうせ遅れると、好き勝手に振る舞う僕のたとえです。
そして、この主人の言葉を守った「忠実で賢い管理人」は、やがて主人の全財産を管理させていただけるが、一方で、主人のいないまに、まるで、「鬼のいぬ間の洗濯」という言葉がありますけれども、主人がいないほうがありがたい。
昔、「亭主元気で留守がいい」という台詞のCMがありましたね。そんな言葉がはやったことがありますけど、あんな亭主、いや、主人はいないほうがいい。鬼のいぬ今こそが、自由だ。解放だ。飲んで食べて、好き勝手にやるぞ。
そういう僕の姿が描かれていて、そんな僕はむち打たれるだろう。主人のことを知らなかったのならまだしも、主人の心を知っている僕だったら、おおくむち打たれるだろう。彼は、多く与えられ、任されていたのだから。
主イエスは、ペトロの「この僕は誰のことですか」という質問に対して、結局最後まで、たとえ話をなさって終わります。ますますいったい誰のことを言っているのか、分からない話となっていきます。
この忠実で賢い管理人とは、誰のことでしょう。なんの準備もせず、主人の思い通りにしなかった僕とは、誰ですか。
あの人のことですか、この人にことですか。牧師のことでしょうか。いったいだれのことでしょう。
「ものみの塔」とか、「エホバの証人」と言われる、キリスト教系の、宗教団体をご存じの方もおられるでしょう。
二人組で、聖書を学びませんかと、よく家々を訪問しているので、出会った方もおられるとおもいます。
あの世界的な組織は、トップのから末端の一人まで、聖書の読み方、解釈が、統一されています。
ニューヨークのブルックリンにある「統治体」と呼ばれる数人の人々の組織が、聖書の解釈を決めて、解説書を作り、
これが正しい聖書の読み方、解釈ですと、世界中の末端にまで、浸透させるからです。
「目覚めよ」とかそういう冊子を見たことがあるでしょう。
聖書の勉強をしましょうと、訪問しているのも、聖書そのものを読むというより、「統治体」の聖書の解釈を、勉強させられるわけです。
それにしても、どうしてそんなことができるのでしょう。なぜ、ニューヨークの「統治体」の、おそらく数人の人々が、それほどまでの権威を持てると思いますか。
それは、この「忠実で賢い管理人」とは、その「統治体」であると、彼らのなかで、権威付けがなされているからです。
「主人が召使いたちの上に立てて、時間通りに食べ物を分配させることにした、忠実で賢い管理人」
それは、信者に対して、御言葉という食べ物を分配するようにまかされた、「統治体」のことだと、根拠づけているのです。
わたしは、「ものみの搭」という宗教の批判をしたいのではないのです。そうではなく、どんな宗教であれ、わたしたちキリスト教会であっても、私こそ、また、わたしたちこそ、この「忠実で賢い管理人です」と言い始めた瞬間。その人も、その組織も、絶対的な権威をもってしまうではないですか。
しかも44節には、この僕について、こう書いてあるでしょう。
「確かに、言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるに違いない」
この僕は、主人の全財産を任せてもらえるのだ。この僕こそ、「わたし」だ、「わたしたち」だと言ったなら、
神の権威を借りて、その人たちが、人を支配することになるでしょう。それは自由を奪う、恐ろしいことだと、思う。
なぜ、イエス様は、ペトロの質問に答えようとなさらなかったのか。鍵はここにあるのではないですか。
この僕とはだれかと、決めてはいけない。だから、主イエスは答えられない。
私はそう解釈し、受け止めます。
もし、牧師のわたしが、「わたしこそ、いつもこの目覚めている僕です。」「神から全権を与っている、忠実で賢い管理人です」
わたしのいうことを聞きなさいといいだしたら、すぐに総会を開いて、牧師を首にしてください。お願いします。
「忠実で賢い管理人」ましては、「神の全財産を任されている僕」がいるとしたら、
預言者イザヤが預言していた、主の僕。主イエス以外に、おられるでしょうか。
主イエスこそ、神の御心と一つになって、この地上を歩みぬいた、「忠実で賢い管理人」ではないですか。
人間は、どんなに努力しても、主イエスにはなれないのだから。
聖書をしり、神の教えを知り、神の御心を知れば知るほど、主人の心を知れば知るほど、
そのように生きてこなかった、生きられなかった自分を知らされるではないですか。
そうはいっても、むつかしい。主人の言う通りにはできない。もっといえば、自分が自分の主人でいたい。
そういう自分であることに、気付くではないですか。
主人の思いを知らずにいて、鞭打たれるどころじゃない。
主人の思いを知っているのに、なお、その思いをいつも裏切っているのは、
あの人、この人ではなくて、ほかでもないわたしじゃないか。
もし、そう思うのなら、そう感じるのなら、その人は幸いです。
なぜなら、主イエスもまた、鞭うたれたからです。十字架につけられる前に、死ぬほどの鞭をうたれたからです。
神の御心から離れさった、身勝手な人間の罪を、残酷な鞭打ちを、主イエスは受けられたからです。
キリスト者の「三浦綾子」の本に出会って、教会に行くようになった人は多いでしょう。わたしもそうでした。小説も読みましたが、彼女の自伝から大きな影響を受けました。「三浦綾子」も「前川正」というキリスト者との出会いのなかで、主イエスに導かれています。
三浦さんは、実は若いころ、むなしさゆえに、同時に二人の男性と婚約をしたのです。不道徳と言われても仕方がないことでしょう。その後病気を得ますが、生きるむなしさにとらえられて、自殺未遂もします。酒やたばこにもおぼれます。そのとき、彼女と出会い励ましていたのが、前川正さん。
「道ありき」という自伝のなかにある、前川正さんとのこのエピソードを、紹介させてください。
ある日、前川さんが三浦さんを散歩に誘う。一軒の家もない 見渡す限りの緑の野。
景色は実に美しいのに、心むなしい三浦さんに、その景色はまったくなんの感動もあたえない。
三浦さんに前川さんは声をかける。『「綾ちゃん、ここに来たら少しは楽しいでしょう」
三浦さんは「どこにいても私は私だわ」といった。
「綾ちゃん、いったいあなたは生きていたいのですか、いたくないのですか」と前川さん。
「そんなこと、どっちだっていい」と彼女。
前川さんは叫ぶ、「どっちだってよくはありません。綾ちゃんおねがいだから、もっとまじめに生きてください」
前川さんの目からは大粒の涙がこぼれた。しかし、彼女は、そんな彼の姿にも、何も感じない。皮肉な目で眺めるだけ。
そして、煙草に火をつける。
その瞬間、何を思ったのか、彼が「綾ちゃん!だめだ。あなたはそのままではまた死んでしまう!」と叫んだとおもうと、傍らにあった小石を拾いあげて、突然自分の足をゴツンゴツンとつづけざまに打った、というのです。
驚いた彼女は、それをとめようとした、その手を握った前川さんは、言う。
「綾ちゃん、ぼくは今まで、綾ちゃんが元気で生きつづけてくれるように、どんなに激しく祈って来たかわかりません。 けれども信仰の薄いぼくには、あなたを救う力がないことを思い知らされたのです。だから、不甲斐ない自分を罰するために、こうして自分を打ちつけてやるのです。」
彼女のことを責めるのではなく、むしろ、自分自身の足を打ちつけている彼の、その姿の向こう側に、三浦さんは、何かを感じたのだそうです。もうだれも信じないと固く心を閉ざしていたそのこころが、解け始めた瞬間でした。
もう、この愛が信じられなければ、人としての終わってしまう。このとき、そう思ったと、彼女は書いています。
この愛。愛する人の罪を引き受け、自分が痛い苦しむ愛。かわりに、自分が鞭うたれる愛。
主イエスが受けられた鞭も、十字架も、それは、わたしたちの罪のゆえ。
使徒パウロは、「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」といいます。
わたしたちの罪のために、わたしたちではなく、主イエスが鞭うたれ、十字架につけられ、死なれた。
それは、わたしたちを滅ぼすためではなく、義とするため、救うため、その証が、主イエスの復活なのだ。
主イエスは復活した。今も生きておられる。
わたしたちが、待っている方は、このお方なのだ。
わたしたちの罪のために、鞭うたれ、十字架に死なれたお方を、
命がけで愛して下さったお方を、
わたしたちは、このお方を、主人としてまっている、僕なのです。わたしたちの罪のために、十字架につけられた主イエスを、
わたしたちは、この主人を、「腰に帯びをしめ、ともし火をともして」
今か今かと、待っている僕。
戸をたたく音がしたら、すぐに走って行って、戸をあけて、「お帰りなさい」と満面の笑顔で迎える僕です
主イエスは37節で、こう言われます。
「はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」のだと
主人が、僕たちのために、食事の準備をして、仕えてくださるのだと。
それほど僕を愛し、大切にしてくださるかたが、あなた方の主人なんだよ、と。
そのことを知ったなら、主人がこんなにも愛にあふれ、そこまでしてくださる主人であることを知ったなら、
もはや、鬼の居ぬ間に、自由にするぞ、などと思えない。
そんなことでは、もう、人として、終わってしまうから。これほどの神の愛が信じられないのなら、人として終わってしまう。
この愛して下さったお方の顔に、泥を塗りたくない。このお方のために、このお方に喜ばれるように生きていきたい。
それが神に愛された人の姿。
鞭が怖いから従うのではない。愛されているから、ゆるされているから、その方の顔に泥を塗りたくない。
こんなわたしたちを、なお信じてくださる主人に、神に、仕えたい。なんど失敗しても、躓いても、
この方に仕え、ついて行きたい。従うものとさせてください。
そういう祈りもって、新しい一週間を、わたしたちは歩みだしていきます。
祈りましょう。