ルカによる福音書19章11節〜27節
主イエスのたとえ話のではありますけれど、「あの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ」という言葉のあとに、ここに出てきてなにかをかたるのは、正直緊張するんですよ。
先週の礼拝は、徴税人ザアカイのお話でした。ザアカイが主イエスに出会い、神に愛されている、本当の自分の姿を取り戻した、うれしい話。
最後のみ言葉も、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」という主イエスのうれしい言葉で終わったわけです。
ところが、今日の主いえすの最後の言葉は「打ち殺せ」ですからね。
今日、初めて礼拝に来られた方がいたら、びっくりして帰ってしまうんじゃないか。どうしよう。先週来てくださったら良かったのにと、牧師はびくびくするわけです。
けれども、わたしは、聖書はどこを切っても、神の愛が流れてくるはずだ。わたしはそう信じていますし、今日つどわれた、お一人お一人も、ぜひそう信じて、安心してほしいのです。
いうなれば、このたとえ話の中に登場する、3番目の僕のように、「あなたは厳しい方なので、恐ろしかったのです」と、主人である神に対する、厳しいお方、恐ろしいお方、というイメージから、解放されて、自由になってこの礼拝から帰っていただきたい。
わたしたちをこの地上に存在させた、天の親である神の愛が、先週と今週で、ころころかわるわけがない。ザアカイを愛し、わたしたちを愛する神の愛は、変わらない。変わりえない。
この天の親である神の、わたしたちへの愛を信じ続けていきる。
それが、このたとえ話のなかで、主人の帰りを待ちながら忠実にいきた、1番目、2番目の僕の姿であるし、今日、ここに集うわたしたち、一人一人の姿であるわけですから。
さて、今日の聖書のみことばに、戻りましょう。
主イエスのエルサレムへの旅も、もうすぐ終わります。目的地エルサレムのすぐ手前での出来事が、今日のお話の背景です。
いよいよエルサレムに入っていくというそのとき、まわりを取り囲む人々に、主イエスはたとえ話を始められたのです。
12節「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」
主イエスは、当時の人々がよく知っていた出来事をベースに、たとえ話をなさることが多いのです。このお話もそうです。
ユダヤの領主になるためには、遠くローマにまで旅をして、ローマ皇帝の許可が必要だったのです。
ですから、ユダヤの領主になろうとした人が、ローマに旅立ったということは、実際にあった話だったわけです。
そういう地上のお話をしながら、しかし、主イエスは、天の話。「神の国」の話をなさるのです。
そのようにして、遠い国に旅立ったおかたが、やがて王として、この戻ってこられる。
そのお方が、「神の国」を実現してくださる。
この、やがて王の位を受けて帰ってくるお方とは、ルカの福音書は、主イエスご自身のことだと語っているのでしょう。わたしはそう読みます。
ここで、大切になってくるのは、その神の国を実現なさるお方は「遠い国へ旅立っている」ということなのです。「近い国」ではない。「ローマ」というわけでもない。いつかえってこられるかわからないから、遠い国なのです。
主イエスがこのたとえ話を始められた重要な理由は、まさにここにありました。
11節の後半にこうあります。
「人々が神の国はすぐにも現れるものとおもっていたから」と。
つまり当時の人々は、いよいよ主イエスがエルサレムに入ったなら、やがて神の力を発揮され、ローマと戦い、イスラエルの国を復興してくださる。そういう神の国がすぐにも現れる。
そう思っていたからです。
来週は、エルサレムに入場される箇所を読みますけれども、人々は主イエスを熱狂的に迎えたのです。
しかし、その同じ群衆が、数日後には、あのイエスは期待通りの王ではなかったと失望し、手のひらを返して、「十字架につけろ」とののしったことを、わたしたちは知っています。
人々が期待していたのは、イスラエル民族の回復だった。そういう「神の国」だった。
しかし、主イエスは、そういう期待を持ってあつまってくる人々に、
冷や水をあびせかけるような、たとえ話を、ここでなさったのです。
「立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠くに旅立った」
ところが、実は国民は彼を憎んでいて、あとから使者を送って「我々はこの人を王にいただきたくない」と言わせたというこのお話。
これは強烈な皮肉なのです。今熱狂して集まってきたあなた方は、やがてわたしを憎み「十字架に付けろ」と叫ぶ。
こんな男を、イスラエルの王にいただきたくないと、叫ぶのだと。
あなたがたは、「神の国」を求めているのではなく、実は、自分たちの国、自分たちの民族の復興、回復を求めているだけなのだと。
そんな群衆への皮肉が、この「われわれはこの人を、王にいただきたくない」という言葉から伝わってくるのです。
週報にも書きましたが、いまも「イスラエルの復興、回復」こそ、「神の国」の実現と信じる人々はいます。ユダヤ教の人々だけではなく、キリスト教のプロテスタントの人々の一部にも、そう信じる人々がいます。「クリスチャンシオニズム」といいます。
トランプ大統領も、その一人だといわれます。いま問題になっている、アメリカ大使館の、テルアビブからエルサレムへの移転ということを言い出したのも、その理由なのでしょう。
そういうことをすれば、パレスチナからたいへんな反感を買い、中東戦争に発展するか、アメリカに大きなテロが起こると、いわれます。そういうことがわかっていながら、なぜ、そんなことをしようとするのでしょう。
ハルマゲドンという言葉を聞いたことがありますか。黙示録に出てくるサタンとの最終戦争のことです。
同志社大学の、木谷佳楠(きたにかなん)という学者が「米国映画とキリスト教」という本を書きました。それによると、アメリカ人の40パーセントは、2050年までにハルマゲドン、最終戦争がくると考えている。
たしかに、米国映画の中には、そういうテーマが良く出てくるわけです。
そうやって、神の国はやってくるのだと、信じている。
こういう考え方もまた、今日のみことばでいえば、
「神の国はすぐにでも現れるものと思っている」熱狂的な人々でしょう。
そういう熱狂。神の国はすぐに来る。そういう熱狂はキリスト教の歴史の中にも、なんども繰り返されました。
初代教会や、パウロもまた、自分たちがいきている間に、世の終わりが来る。キリストが再臨すると信じていたわけですから。
テサロニケの信徒の手紙を読むと、どうせ世の終わりが来るのだからと、働くこともやめて、怠惰な生活をしている人がいたようです。そんな人たちに、落ち着いて生活し、自分の仕事をしなさいと告げている言葉もあります。
しかし、マルコの福音書には、主イエスの言葉として、大切な言葉がしるされています。
「その日、その時は誰もしらない。天の御使いも、人の子もわからない。ただ、天の父だけがご存じだ」と(マルコ13:32)
そういうことで、今日のたとえ話の大切なポイントは
やがて神の国を実現なさるために、帰ってくる王は、「遠い国へ旅だっている」ということにあるのです。
人間が考えたり期待する、時間とは違う。1000年2000年で帰ってこれる国ではない。
すくなくとも、自分が生きている間に、というような、結局は自分が報われたい、自分がいきているうちに、神の国が見たい、というようなエゴイズムを超えさせるほどの、「遠い国」でなければ、本当の「神の国」ではないではないですか。
つまし、自分の願いを実現する国が、「神の国」ではないということなのです。
そのような、本当の「神の国」を待ち望む人の姿を、語っていくのが、つづく10人の僕の話です。
旅立った主人が帰るまで、主人から預かったお金で商売するように託された僕の話。
「10人の僕を呼んで10ムナの金を渡し、「私が帰ってくるまでこれで商売しなさいと言った」とあります。
1ムナという金額は、それほど多くない。3ヶ月分の給料だと言われます。
金額についてあまり深入りすることに、あまり意味はないでしょう。
大切なポイントは、やがて主人が「王」となって帰ってくるその日まで、僕はどのように生きたのか、ということなのだから。
単純にいえば、主人に言われたとおりに、預かったお金で商売した僕と、言われた通りにしなかった僕がいた、というお話です。
託されたお金とは、何のことなのか。ある人は、神のみ言葉ではないかと言います。また、ある人は神が与えてくれたその人の命そのもの。人生とイメージする人もいます。
マタイの福音書にも同じ話があって、そちらは僕によって託された金額がちがい、5タラント2タラント1タラントとなるのですが、ルカの福音書はみんな等しく1ムナ。
そういうことから言えば、このお金が表しているのは、能力とかたまものではなく、
すべての人に等しく与えられている、一度きりの地上の命。人生とイメージするのがいいのかもしれません。
ある僕は、その1ムナを活かしきって10ムナにする。すると帰ってきた王は、10の町の支配権を授けようと言われる。この支配権とは、やがてくる、「神の国」でのお話でしょう。
二番目の僕は、自分に与えられた1ムナを活かしきって、5ムナを儲ける。そして王は5つの町を治めよと告げる。
この10と5の違いは、努力とか能力の違いではありません。
17節で、10ムナをもうけた僕に、王はこう言うでしょう。
「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さなことに忠実だったから、10の町の支配権を授けよう」と。
10ムナもうけたから、その結果として、10の町の支配権を与える話じゃないのです。
「ごく小さなことに忠実だったから」なのです。その結果として、10になることもあれば、5になることもあるでしょう。それはその人の置かれた場所、時代、状況によるのであって、能力や努力の違いという話ではないわけです。
去年の12月に、カトリックのシスターの渡辺和子さんが天に召されましたけれども、渡辺さんが書いた「置かれたところで咲きなさい」という本は、多くの方が読まれたでしょう。
「時間の使い方は、そのまま、いのちの使い方なのですよ。置かれたところで咲いていてください」
「結婚しても、就職しても、子育てをしても、『こんなはずじゃなかった』と思うことが、次から次に出て来ます。そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。
どうしても避けないときもあります。雨風が強い時、日照り続きで避けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために」
そんな渡辺さんの励ましの言葉に、支えられた方もおられるでしょう。
わたしもその一人です。家の教会の礼拝で、数人の人に向かって聖書のお話をし続けた10年近い日々は、置かれたところに、深く根を張っているのだと、渡辺さんの言葉に、励まされたものです。
横綱に昇進した、「稀勢の里」ではないけれども、置かれた場所で、「忍耐して良かった、腐らなくてよかった」ということです。
実りは、10ムナでも、5ムナでも、1ムナでもいいのです。実らせるのは神なのだから。
大切なのは、自分に与えられた小さな1ムナに忠実に生きる。
人がみていなくても、だれからも評価されなくても、褒められなくても、
自分に1ムナを託してくださった、主人の愛に、ただただ応えようと、小さな事に忠実に生きる僕の姿。
そして、喜び合う主人と僕。
ここに現れているのは、主人と僕の、愛と信頼の関係です。
しかし3番目に現れた僕は、主人を恐れているのです。
主人にしかられたくないので、1ムナに手を付けず、布に包んでしまっておくのです。
帰ってきた主人は、布に包んでおくくらいなら、銀行に預けておけばよかったといいます。
つまり、僕の能力とか、努力がたりないとか、そういうことが問題になっているのではないということです。
与えられた命の喜びを、増やして主人と喜び合いたいという、愛と信頼の関係こそが、問われているのです。
人間の側の、能力、努力が問われているのではないのです。なぜなら、これは「神の国」の話だから。
人間の側の、能力、努力で実現できるのは、人間の国の話。自己実現の話ではないのです。
そうではなく神の国における実り。永遠に価値ある実りとは、徹頭徹尾、神との関係、すべての命、良いものの源である、神との信頼関係、神とのつながりにおいて、実るのですから。
信頼によってつながればつながるほど、良いものは満ちあふれていく。
でも、不信によって、分断されればされるほど、今もっている良いものさえ、いつかなくなってしまう。
1ムナもっているものが取り上げられて、10ムナ持っているものはさらに豊かになると、主イエスが語られるのは、そういうことでしょう。これは経済格差の話ではなくて、愛と信頼の豊かさの話です。
わたしたちはどうでしょうか。あなたにとって、主なる神は、厳しく恐ろしい方ですか。
それとも、愛と信頼に満ちた、天の親と、子のような関係でしょうか。
ここまで来て、もういちど、このたとえ話の最後の言葉に、戻ってきました。
「わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ」
どうですか。やはりこの言葉を聞いたら、神は、厳しくて恐ろしい方だと思いますか。
自分に任された1ムナを、布に包んでしまい込んでしまいたくなりますか。
もし、そう思うのなら、どうか心を開いて、聞いてください。
この恐ろしい裁きの言葉が、わたしたちの上に下ることのないようにと、このたとえ話をなさった主イエスは、このあとエルサレムに入っていかれ、十字架へ向かわれていくのです。
わたしたちはみんな神を忘れ、だれも、神が王になることなど望まなかったはずです。まさに、神の「敵ども」であったはずです。
だからこそ、主イエスが十字架に付けられたことの意味を語る、
この使徒パウロの言葉を、どうか、自分自身の事として、聞き、信じていただきたい。
ローマの信徒への手紙5章8節〜
「わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。」ローマ5章8節〜11節
主イエスはあの十字架の上で、わたしたちが救われるために、打ち殺されたのだ。パウロはそう語ります。
神はそうまでして、和解の手をさしのべてくださった。
神の愛は、そこまで激しく、深い愛なのです。
この十字架に示された神の愛を信じて、つながって、心の蛇口を開きさえすれば、
聖霊によって、神の愛がわたしたちの内に流れこみ、豊かに実るのです。
1でも5でも10でも、神がわたしたちの人生の1ムナを、豊かに実らせてくださいます。
それでもまだ、あなたの神は、厳しくて恐ろしいお方のままですか。