ルカによる福音書19章28節〜44節
2月に入りました。まだ寒い日が続いていますけれども、先週の水曜日に、教会の裏の、お隣さんの「梅」が、咲き始めたんですね。
牧師館の玄関を出て、梅の花が咲いているのを発見したとき、うれしくなって、望遠カメラで、梅の花のアップの写真を撮って、私の友人だけがみることのできるインターネットの「フェイスブック」とか「インスタグラム」というのがあるのですけど、そこに、梅の花の写真を載せたのです。そうしたら、さっそく友人がコメントをくれたのですね。そして、面白いことに、梅の写真に、すぐに反応してコメントしてくださったのは、みんな東北の友人達だったわけです。
北国は、まだ真っ白な雪の世界に、閉ざされているからなのですね。なので、「梅の花」の写真をみて、慰められましたとコメントしてくれた、北国の友人もいたわけです。
そんな友人達に、「ごめんね、一足先に、こっちは天国だよ」と返事をしようかなと、おもいましたけれども、それくらい、北国の冬というのは、毎日毎日真っ白で、色のない世界なんですね。
同じ日本に住んでいるのに、置かれたところで、見えている世界がちがうことがありますね。
わたしたち、一人一人も、そう。
ある人には、来る日も来る日も、まるで厳しい吹雪の中を歩いているような、前の見えない不安な世界のように、見えているでしょう。
しかし、ある人には、同じ現実が、違うように見えている。
梅が咲きはじめ、やがて桜も咲き、この世界は、緑でいっぱいになることが、見えている。
そのように世界に希望を見ている人は、それが見えていない友達に、
「大丈夫。もうすぐそちらでも梅が咲くから、必ず咲くから、信じてまっていて」
そんな希望の言葉を語るのではないですか。
なぜ、こんな話をしているかというと、ある意味、イエス・キリストは、この地上という、厳しい冬の吹雪に閉ざされているように、人にはみえる世に、
天から下ってこられて、「神の国とは、こういうものなのだ」と、語ってくださった方だから。
今はあなた方にはみえなくても、やがてわかる時が来る。だから、わたしの言葉を信じてついてきなさいと、神の言葉を、希望の言葉を語ってくださったお方だから。
主イエスは見えている。神の国が、そこに至る、平和への道筋が、見えている。
しかし、主イエスの周りにいた人々、当時のユダヤの人々には、それが見えていない。
主イエスが見ているものと、ユダヤの人々が見ようと願っていた、神の国のイメージは、
食い違っていたということを、わたしたちは、毎週福音書を読み続けるなかで、学んできました。
今日の聖書の箇所は、主イエスと、周りの人々の、見ている世界の違いが、はっきりと表れている箇所です。
エルサレムに入場しようとする主イエスを、喜び踊って迎える人々が、見ようとしている世界と、
エルサレムの町をみつめて、悲しみの涙を流される主イエスに見えている世界。
それは全く違った。
それは、後半の、41節からの主イエスの言葉に、はっきりと表れています。
お読みします。
エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。
「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし今はそれがお前には見えない。」
「平和への道」が、あなた方には見えていない。そう涙を流す主イエス。
見えないまま、突き進んでいき、やがてぼろぼろになるエルサレムの町の行く末に、主イエスは心痛めて、泣いておられるのです。
主イエスには見えている。神の国の平和への道とは、どういう道なのか。主イエスには見えている。
しかし、このときのユダヤの人々には、それが見えていなかった。
彼らに見えていた道は、ただただ、支配者ローマ帝国を戦い、破り、自由と独立を勝ち取るという、「道」しか見えていなかったのだから。
主イエスのことも、ローマと戦うという「道」を歩むために、エルサレムに入っていくメシアとしか、見えていなかったわけだから。
もう、なにをみても、そのようにしか見えない。いや見ようとしなくなるほど、追い詰められていたユダヤの人々。
それ以外に、「平和への道」があるなどとは、到底思えないほど、追い詰められ、切羽詰まっていた時代でもありました。
追い詰められるとき、人は視野が狭くなるものです。
日本もかつては、もう戦争しか道がないと、追い詰められ、神風が吹けば、きっと勝てると、滅びへの道へ、突き進んでしまった時代がありました。
去年、「この世界の片隅に」という映画が話題になりましたでしょう。
戦争の時代の、広島、呉を舞台に、一人の少女の日常が、淡々とかたられていく物語。
人々の日常が、だんだん追い詰められていくすがた。もう、この道しかないのだと、ぼろぼろなるまで、やめられない戦いの道を歩んでしまった歴史。
人間は、追い詰められるとき、視野が狭くなる。目の前のことしか見えなくなるものです。
ほかの道があるのに、みえなくなり、ただ目の前の日常だけに、飲み込まれてしまう。
あの、映画を見たひとは、まるで、神様の視点から、追い詰められ、目の前の日常を生きるしかない人々の姿を見せられる。
その人々の上に、やがて空から爆弾が降り注ぎ、原爆が落ち、町が崩壊していく姿を、滅びに向かう姿を、見せられる。
正直、心が痛み、なみだがこぼれます。
それは、今日のみ言葉において、追い詰められたイスラエルの人々が、もうほかに選択肢はないのだと、ローマとの戦争に突入し、エルサレムの町が、ローマに取り囲まれ、攻撃を受け、神殿もなにもかも、その建物の石が、すべて崩されるほどに、ぼろぼろになる姿を見たことと、にている。
その滅びへ向かう道しか見えていない、エルサレムの人々の日常、その町をみつめた主イエスのなみだ。
「ああ、今、平和への道をわきまえていたなら」と、泣かれた、主イエスのなみだの訳を、わたしたちもすこしだけ、感じ取ることができるのではないですか。
「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・しかし、今はそれがお前には見えない」
もうこの道しかない、ほかに選びようがない。これしかないのだ。
人は、希望を失い、追い詰められるとき、見えるべきものが、見えなくなる。
仕事の失敗。失業、病気、人間関係の行き詰まり。
そして、もう自分はだめだと、自分で自分を追い詰めるなら、視野が狭くなり、間違った道を、選んでしまうことがあるでしょう。
そんなわたしたちには、どうしても、よく見えている方の言葉が、導きが必要なのです。
わたしたちには見えなくても、主イエスは確かに見えている道がある。
人を救い、神の国へと至らせる、「平和への道」が、主イエスには見えているのだから。
その平和への道は、強い軍馬にまたがり、敵を蹴散らし、勝ち進む道などではなく、
弱く小さな子ろばに乗られ、無力のままに、十字架につけられていく、その道こそ、「平和への道」であるのだと、
周りの人々は、そんなことは、なにもわからないままに、小ロバに乗られた主イエスが、ローマを倒すメシアと期待しつつ、神に賛美を歌いました。
38節
「主の名によってこられる方、王に
祝福があるように。
天には平和、
いと高きところには栄光」
人々は、この方こそ、主の名によってこられる王と歌います。
天には平和。いと高きところには栄光と歌います。
ルカの福音書の2章で、主イエスがお生まれになった時に、天使が歌った賛美を思い起こします。
「地には平和。いと高きところには栄光」と天使は歌いました。
今、地上の人々が、逆に「天には平和」と歌うのです。
まるで、地上に来られた主イエスが、やがて天に昇られることを、言い表すかのように。
「天には平和。いと高きところには栄光」と歌う人々。
この賛美を聞いた、ファリサイ派のある人は、「王がやってきた」などと歌う弟子たちを叱るように、主イエスに告げます。
しかし主イエスは、答えます。
「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」のだと。
もはや、わたしのことを、告白する賛美を、主の名によってこられる王と、つげ知らせる声を、黙らせることはできない。黙らせれば、石が叫びだすと。
もはや、主イエスは、ご自分の立場を、隠そうとなさらない。
それまでは、ご自分の業や癒やしや、メシアなのではないかと、人々が言い広めることを、主イエスは、止めてきたのです。
それは、広まれば、命の危険があったからでしょう。しかし、時、ここに至り、主イエスは、もはや、逃げも隠れもしない。
この方こそ、主の名によってこられる、王であると、人々が歌い、言い広める賛美を、止めようとはなさらない。
それはまさに、主イエスは死を覚悟しておられるからでしょう。その道を歩み抜かれる覚悟が、
「この人たちが黙れば、石が叫び出す」という主イエスの言葉から、伝わってくる。
主イエスはもう逃げも隠れもしないのです。このあと、神殿に入られ、商売をしていた人々を追い出されます。祈りの家を、強盗の巣にしてはならないのだと言いつつ。
それは、当時のユダヤの指導者達にとって、決定的に許せない行為だった。それによって、恨まれ、殺意をいだかれることになった。しかし、エルサレムに入った主イエスは、やがて十字架に至るこの道を、
人々が期待する、力によって支配する王などではなく、
人々には愚かにしか見えない、弱く小さな小ロバに乗った、王として、
だからこそ、人間ではなく、神が実現する「平和」をもたらす、王として、
この主イエスの歩んで行かれる道に、神による「平和への道」があることに気づいた人は、幸いです。
小さな子ロバに乗られ、ご自分を無にして、十字架につけられていく、その道を歩むお方こそ、平和の主と、賛美できる人は、幸いです。
そのことを、後の時代の教会、そして使徒パウロは、このように告白しました。
フィリピの手紙2章6節〜
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです」
わたしたちが、キリストを讃えるのは、キリストの強さではなく、むしろ弱さのゆえに、
奇跡や癒やしのゆえではなく、戦いの勝利や、わたしたちの願望を実現してくれる力のゆえでもないのです。
力ある神の子でありながら、かえってご自分を無になさるという力。
死に至るまで、それも十字架の死に至るまで、へりくだられるというありえなさ。
人を支配したい、影響力ある人間でありたい。自分のいうとおりにさせたい。そういうプライドと罪に縛られ、登り坂を上ることしか興味のない人間には、決して歩むことのできない道。
神の子にしか歩みきることのできない、下へ下へと下る道。
十字架へ下る道。
子ロバに乗られた主イエスは、オリーブ山の下り坂を、十字架に向かう下り坂を下っていかれたのです。
「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」と賛美する、人々の歓声の中を。
下へ下へと、やがて十字架の死に至るまで、下り続ける道を、歩みぬく主イエスを、
神は、死からよみがえらせ、その名を高く、高く引き上げてくださった。
それゆえに今日も、2000年の時を超えて、全世界で、主イエスの名は、高らかに、賛美されているのです。
軍馬ではなく、ちいさな、子ロバに乗られ、坂を下られたお方だからこそ、
時代を超え、文化を超え、全世界で今もあがめられ、信じられ、失望のなかにいる人を救い、争いのあるところに、不思議な神の平和を、今ももたらしている。
そうでなければ、今、わたしたちは、ここで主イエスの名を賛美し、礼拝をささげているわけがないのです。
主イエスの時代の、イスラエルの人々には見えなかった、「平和への道」。
軍馬に乗る王には決して、決して実現できない、究極の平和を、神による平和への道は、
ロバの子に乗り、オリーブ山から、十字架へと下られた、王だけが実現なさった。
わたしたちは、その「平和への道」を見ることができた。
ここにこそ、真の「平和への道」があると、わたしたちは心の目で見ることができたからこそ、ここに集い礼拝をささげ、今日は、この後、主イエスの十字架の恵みを覚える晩餐式を行うのです。
主イエスが、ロバの子に乗り、下へ下へと、下っていかれる道を、歩んでくださったからこそ、
その主イエスの名を、神が高く、高く引き上げてくださったゆえに、
わたしたちも、自分の小ささ、弱さに、失望などしません。
弱く、目立たず、小さいな存在であろうとも、
こんなちいさな私など、何の役にも立たないと、うつむきません。
まさにそのような、ロバの子のようにみえる一人一人をこそ、
「主がお入り用なのです」から。主が、どうしても、ロバの子が、必要だといわれるのですから。
この、希望の見えにくい世界の現場に、
冬の嵐が吹き荒れているようにみえる、この世界のただなかに、
主イエスは、わたしたち、小さなロバの子を用いて、
今日も、神の平和という、美しい花を、さかせはじめている。
この、平和の主の訪れを、わきまえて
今日も、神を賛美することをやめないわたしたちは、
実に幸いなのです。