「イエス様についていこう」(2016年9月18日 花小金井キリスト教会 主日礼拝メッセージ)

ルカによる福音書14章25節〜35節


 先ほどは、教会学校の、ジュニアクラスの紹介がありました。ビデオのなかで、T君が、子どもたちに、渾身のメッセージをしていましたけれども、

彼は、あんなキャラクターだったのかと、驚いたかたもいらっしゃるかもしれませんね。

 今、彼は出張でこの場にはいませんから、いないところで、彼のことを褒めてあげようとおもいますけど、昔の彼は、もっと暗かったんですよ。彼が証のなかで語っていますけれど、死のうと思っていた時期があったわけだから。

 でも、今、ああやって、こどもたちに、なんとかして、神様の愛を伝えたいって、声色まで変えて、プライドもしてて、もう、何でもしますと開き直っいる彼の姿は、実に美しいなあ、と思う。

彼自身が、そのどん底から救ってくださった神の愛を、どうしても伝えたい。人から何と思われようと、恥ずかしさを乗り越えて、伝えたい。

実に美しい。そう思いませんか。


世の中には、金儲けのためとか、人から褒められたいと、頑張る人は、いくらでもいる。

主イエスの時代の律法学者たちも、人々に褒められたくて、人に見せるために、祈ったり、断食したり、献金していたように。


「あの人はりっぱだわ」と、人から褒められ続けないと、自分には価値がないのではないかと、不安になる人は多いでしょう。

そういう意味で、教会という集まりは、実に不思議な人々の集まりではないですか。

人から褒められたりすると、むしろ「不安」になってしまう人たちの、集まりだから。違いますか。

やっぱり人が褒めてくれないと、不安ですか。

ほとんどないのですけれど、 ごく稀に、わたしは、妻から褒められたりすると、不安になります。

なにか裏があるんじゃないかと、心穏やかではなくなります。ここにおられる、壮年の方はどうでしょう。

正直、妻は、ちょっと辛口なくらいが、すぐ調子に乗るわたしには、ありがたい。

神の前にどうあるかよりも、人からどう評価されるか。人からどう見られるかということに、心が縛られること、言いかえれば、人の奴隷になってしまうことが、最大の誘惑だからです。

つねに人の目が気になる、人に嫌われないように、本当の自分を偽って、

自分で自分自身を束縛し、心の自由が失なわれていくことは、神様の御心ではないはずだから。

人がなんと言おうが、親であろうが、伴侶であろうが、子供であろうが、

いや自分自身であろうが、

人間の下す評価とは、まったく無関係に、無条件に、天の父は、わたしたち神の子を愛し、存在そのもの、受け入れ続けてくださっている。


この変わることのできない、神の愛に、いつも目ざめているようにと、

主イエスは福音をつたえ、心を縛る、悪い霊を追い出され、今日も、わたしたちを、束縛から解放してくださいます。


主イエスに従う。主イエスについていく

それこそ、人の支配から、私たちの心を解放し、自由を与える、素晴らしい道。


それが、今日のルカの福音書で、主イエスが、大勢の群衆に語っておられることの、本質でしょう。


25節からもう一度読みます。

14:25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
14:26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
14:27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。


家族や自分のいのちであろうと、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない、というつよい言い方に、わたしたちは、正直、たじろぐ。

でも、ここの部分だけ、字面だけにとらわれてほしくないんです。もっと広く福音書全体が伝えている、主イエスの人格。弟子たちを愛し、罪人と差別された人々の友となられた、主イエスが語られた言葉として、その全体からとらえてほしい。

「憎む」という強い言葉を使うほどに、むしろ、逆説的に、このわたしを愛してほしい。解放を与える、わたしの福音の言葉を、真剣に受け止めて、信じて、わたしのあとについてきてほしいという、

熱烈な、熱い愛の招きを、この「家族や自分の命さえ憎まないと」という言葉から、逆説的に、読み取りたいのです。


それは、そこまで強い言い方を必要とするほど、時に、父や母の言葉、妻の言葉、子どもの言葉、兄弟の言葉が、

わたしたちに、強い影響を与えるから。身近な人、愛する人の言葉だからこそ、むしろ、深く傷ついてしまい、いつまでも囚われ、苦しめられ、自由を奪われてしまうこと、奪ってしまうことがあるからです。


ハーバード大学の教授から、知的障害の人たちとともに生きる道に進んだ、ヘンリーナーウェンが、「父、母をすてること」という文章のなかで、こう書いています。

「近頃わたしは、自分の両親や兄弟との関係が、私の感情面の生活にいかに影響しているかに気付き始めました。実際、この影響があまりにも強いために、両親のもとを離れて相当時間がたった大人の私たちでさえ、気持の上では彼らに縛られているのです・・・・

・・・わたしが、自分の父や母の期待にいまだにこたえようとしていることにはっきり気づいたのは、家族や故郷から離れてすでに20年以上もたった時でした。実際、仕事への取り組み方、職場の変更、人生の選択などの多くが、自分の家族を喜ばせたいという心の奥深い願いから来ていることを発見したときは、ショックを受けました。

わたしはその時もまだ、家族にとって誇りと言えるような息子であり、兄弟でありたかったのです。

このことを悟った時、わたしは多くの友人の人生にも同様のものが見え始めました。そのうちの数人は、すでに成人した子供がいるのに、今だに両親から受けた拒絶経験に苦しんでいます。また、人並すぐれたキャリアを持ち、たくさんの収入を得て地位や名誉にも恵まれた人々が、自分の才能をいつか両親に認めてほしいと、いまでも説に願っています。さらに、自分の人間関係や仕事で多くの失望を味わった人たちで、自分の不運さゆえに、いまだに両親を責めている人もいます。」


このナウエンの言葉は、私たちの心を探ります。

わたしたちが一生懸命しているのは、もしかしたら今だに、父に褒めてもらいたい、母に、妻に、子どもに、兄弟に、認められたいという、

その人にこころ縛られていた、動機だったのではないかと、心さぐされます。

主イエスは、そんなわたしたちを自由にし、自分に与えられている、本当の使命に、まっすぐに従って生きていけるようにと、わたしたちを招いてくださっている。

それが、次に言われている、

「自分の十字架を背負ってついて来なさい」という言葉でしょう。

ほかの誰の十字架でもない。自分の十字架。
神が、このわたしを、この時代、この場所に生かしておられるそのわけを、

自分に与えられている使命を、命の使い方。

ほかのだれも、代わりには背負えない、あなたの十字架を、

背負ってわたしについてきてほしい。

主イエスは、そうわたしたちを招きます。

それが、神に与えられた、一度きりの人生を、本当の意味で生きることだから。


神の愛の御心を、100パーセント生き抜こうと十字架へと向かう、主イエス

「神はその独り子をおあたえになるほどに、世を愛された」

この神の愛を、御自分の命をもって、この世界に示された、主イエスの、わたしたちは弟子とされているのです。


もし、わたしたちが、主イエスの弟子でないのなら、なんの弟子なのでしょう。

だれのあとを、歩いているのでしょう。

親の後でしょうか。だれか立派な人間の後でしょうか。

本当の意味で、ほかに比べようのない、一度きりの自分の命を、人生を、使命を生きるとは、

まさに、主イエスの言葉に従って、自分の十字架を背負ってついていく、ということではないですか。


さて今日は、礼拝の後、昼食の時に、敬老の日の祝会をするのです。

わたしたちの教会は、70歳以上になると、お祝いしていただけます。

ほかのだれでもない、自分の十字架を背負いつづけた、長い年月。

主イエスの言葉に聞き続け、今日の日まで生かされてきた、たくさんの人生の先輩方が、いてくださることは、私たちの教会の宝です。


旧約聖書の、レビ記という書のなかに、こんな言葉があんですよ。

「白髪(しらが)の人の前では起立し、長老を尊(たっと)び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。」(19:32)


白髪(しらが)は、じつに誇るべきものです。

染めなくていいんですよ。

主イエスのあとについて歩いた、さまざまな人生の出来事、出会い、喜び、悲しみ。

細かいことは忘れたとしても、数えきれないほどの体験と出会いが、今の自分をかたち作っていることは間違いないんです。

自分だけしか背負えない、自分の人生を、

それぞれに、自分の十字架を背負って、

主イエスのあとを歩んできたお一人お一人。

そこで得た、大切な「知恵」という宝

そういう意味で、高齢化は、実は、宝の山。教会の希望でしょう。

今日のみ言葉の後半でも、主イエスは、十字架を背負う話の後で、「知恵」の話をなさるでしょう。


28節からは、塔を建てるときのたとえ話です。

 なにかを実現しようと、志を持つとき、それだけじゃなくて、十分な費用があるか、まず腰をすえて計算する知恵も、必要だよ、

という話です。

これは、長い人生を生きてきた方には、よくわかる話でしょう。若い時に、自分自身も、この知恵がなくて、失敗したり、うまくいかなかったり、思い通りにならないという、経験をして、この知恵を手に入れてきたのではないでしょうか。


31節からは、戦争の話です。

2万の兵隊を率いて、敵が進軍してくるのがわかっているのに、自分の国には、1万の兵しかないとわかっているなら、王さまは、この戦争に勝てるかどうか、まず考えるべきだろう。

そして、もし勝てないとわかったら、敵がまだ遠方にいる間に、使節をおくって、和平するだろう。

まさか、玉砕されようが、本土決戦になろうが、原爆を落とされようが、戦い続けよ。

神風が吹けば、敵は蹴散らされ、われわれは勝利するのだ。だから、最後の一人まで戦え、などと、

実に愚かな、愚かなことを、決してしてはならないことを、


今日、敬老の祝いを迎える、人生の先輩方は、教科書の知識ではなくて、御自分の人生をかけて、「自分の十字架」として背負い、今日の日まで生きてこられたのではないでしょうか。


神風が吹けば、我々は勝利する。
そのように群衆を扇動する愚かさは、

主イエスの時代においては、

メシア・キリストさえ来たなら、我々ユダヤ人は、ローマを倒すことができると、

群衆を扇動していく、愚かさとなったのです。

このイエスこそ、ローマを力づくで倒し、我々に繁栄をもたらすメシア・キリスト

神の風を吹かせてくださるお方。

その、愚かさにとらえられた群衆に、主イエスは言われるのです。

愚かな戦いを放棄する知恵と同じように、

自分の持ち物を一切捨てなさい、と。

それがわたしの弟子になるということなのだと。


そう言われて、群衆たちは当然、「そんなことできるわけがない」と思ったでしょう。そんなつもりで、群衆たちは、イエスの後についてきたのではないのだから。

むしろ、自分たちの繁栄、勝利を願って、イエスの後についてきているのだから。


 それは、十字架へと向かう、主イエスのあとについていくのとは、違うのです。群衆はやがて、イエスは、自分達の思い通りのメシアではないとわかると、律法学者に先導されて、「あの男を、十字架に付けよ」と叫んで行くのだから。


いつも、人の言葉に右往左往。「あの人が、この人が、偉い人が、みんなが、こう言っているから」と、主イエスを憎み、十字架につけよと叫ぶ、群衆の姿は、

「横断報道、みんなでわたれば怖くない」とわたってしまう人の心でもあるし、テレビである食べ物が健康にいいと放送されると、次の日にスーパーからその食べ物がなくなってしまう、日本に生きる私たちも、決して笑えません。

周りの人の行動に、言葉に流され、動かされるだけの人生。

一度きりの、神に与えられた、自分だけの十字架を、自分だけに与えてくださった使命を、「天命」を生きないままで、いいわけがない。

それは、「塩」であるのに、「塩味」のしない、「塩」のようなもの。

「自分」なのに、「自分の味」を失った、「自分」だから。

神が愛し、一度きりの人生を、神のために生きるようにと

与えられた、その自分の塩味を、自分だけの味を、

み失わせてしまう「罪」の束縛から、主イエスの十字架は、わたしたちを解放していきます。

十字架。それは、神を信じきれないわたしたちの罪を、赦す神の愛だから。

目に見える持ち物を、一切すてられるほど、目に見えない神を信じることはできない、そこまで、神にゆだねることはできない。

やはりどこまでいっても、神に対する不信仰、不信頼。

目に見えるものに、人に、頼り、すがり、神を見失ってしまう、私たちを、

憐み、赦し、なお弟子へと招かれる、その神の愛の証が、

十字架だから。

すべてを捨てて従ったはずの、ペトロたち12弟子さえも、

やがて全員が、主イエスをみ捨て、逃げ去っていく。

その人間の、どこまでいっても、目に見えるもの、目に見える人、

自分の持ってるもの、立場、力に頼り、縛られて、

神などいらぬと、神のみ子キリストを十字架につけてしまうこの「罪」を、


主イエスは、その十字架の上で、「父よ、彼らをお許しください。彼らは何をしているのか分からずにいるのです」と、赦し、祈ってくださったから。

主イエスの十字架。それは、赦し。罪人の赦し

使徒パウロは、ローマの手紙5章6節以下で、こう宣言します。


「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められたときに、不信心なもののために、死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまないものなら、いるかもしれません。

しかし、わたしたちがまだ罪びとであったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちにたいする愛を示されました。

それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」


人の不信仰、罪を、赦し、救ってくださるキリストの十字架。

持ち物も、プライドも捨て切れない、罪人を、

なお赦される神の恵み、神の愛。

パウロは、その神の愛と赦しをしった、自分自身の証を、こう語るのです。

フィリピの手紙

3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、

3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。

3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。

3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。

「キリストの愛の素晴らしさゆえに、自分ががんばって手に入れてきた立場も、何もかも、すべてのものは、塵あくたのように、うしなっても惜しくもないものに、霞んでしまった。


主イエスに従っていく道とは、それほど素晴らしい道なのだと、信仰の大先輩のパウロは、証するのです。

主イエスのあとについていく。従っていくことは素晴らしい恵み。

神が下さった、一度きりの自分らしさ、人をおそれず、神の下さる自分の味に、生きる命を、人生を、

「主イエスと共に、歩きましょう」と、活き活きと歩んでいく道なのだから。

そして、主イエスは最後に、わたしたちにいわれます。

聞く耳のある者は聞きなさい」

と。