「心に描かれる絵」(2017年4月9日花小金井キリスト教会夕礼拝)

マタイ27章45節〜56節

 ロビーに飾られた受難の絵画。どうでしょうか。
朝の礼拝でも申し上げましたが、大きな絵のほうは、画家でクリスチャンのKさんという、Nさんの絵の師匠が書かれた作品ですね。小さいほうは、キリスト教のなかでは著名な画家、田中忠雄さん。

田中忠雄さんの作品は、描き方が抽象的ですが、Kさんのほうは、リアルにローマ兵にいたぶられている、弱弱しいイエス様を描いていて、作者のメッセージ性、信仰がストレートに現れているように思ったのですが、いかがでしょうか。

もう、20年近く前になりますか。メルギブソンの「パッション」という、主イエスの受難を描いた映画がありました。ご覧になった方はおられるでしょうか。

ゲッセマネの祈りから、逮捕、裁判、むち打ち、十字架を担がされ、十字架につけられるまでの、もっとも肉体的な苦しみの一日を、直視できないほどリアルに、主イエスが、人々にいたぶられていく姿を、映像で描いていく。

鞭打たれ、血だらけになって、十字架を背負わされ、十字架のうえで死んでいく姿を、リアルに描きつづける映像のなかに、監督のカトリック信者、メルギブソンの信仰が、描かれているのだと、思ったわけです。

主イエスの生涯を、どのように切り取り、どのように描くのか。その意味で言えば、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書は、それぞれに、福音書を記した人、教会の信仰をもとに、主イエスの生涯を、受難を描いていると言えるわけです。


昼の礼拝では、ルカの福音書から、十字架につけられた主イエスのお姿、そして周りを囲む人々の姿を読みました。

 実は、ルカの福音書では、主イエスがむちで打たれたという記述はないのです。そういう血なまぐさい場面を、ルカは描きません。むしろ、苦しみの中にあっても、人々の赦しを祈り、今日、あなたは一緒にパラダイスにいると宣言する、権威ある方という、主イエスの側面を、ルカは強調して、描きます。

 息を引き取られる時も、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言われて、地上での神の子の働きを終えて、父なる神のもとに帰る神の子という側面をルカは、彼のキャンバスに描くのに対し、

今日のマタイの福音書では、主イエスは鞭で打たれますし、十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、悲痛な叫びをあげたお方として、マタイは彼のキャンバスに、主イエスを描く。

 マタイの描くイエスさまは、神の救いを宣言するお方ではなく、むしろ神に見捨てられ、絶叫の叫びをあげて死んでいった、人間としての主イエスの側面を、強烈なタッチで描いているわけです。

ですから、ルカという画家が描いた受難の絵と、マタイという画家が描く受難の絵は、実はだいぶ印象も、タッチも、メッセージも違うのです。

ありていに言えば、マタイのほうが、だいぶ血なまぐさい。ルカはそうでもない。

Kさんの絵とか、パッションという映画は、ルカよりも、マタイの描く、主イエスに近いのかもしれない。

主イエスは、わたしたちの罪を赦すために、身代わりに神の裁きを受け、苦しみ、血を流し、死んでくださった。

このメッセージ。この信仰が、マタイの描く主イエスのお姿から、透けて見えてくる。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

ですから、この主イエスの絶望的な叫びは、わたしたちの代わりに、罪びとの一人となって、神の裁きを身に受けておられる絶望の叫び。


「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と、主イエスの言葉を書き記すマタイ、マタイの教会は、

主イエスこそ、私たちの罪を背負い、神の裁きを受け、私たちの代わりに、絶望の死を死んでくださった方なのだ。

その主イエスのお姿を描くには、どうしてもキャンバスにこの、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という、主イエスの言葉を、マタイはここに書き記さなければならなかったのでしょう。


 さて、マタイの信仰はそうでも、イエス様ご本人は、そういう意識を持ってこの「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれたのでしょうか。

この言葉は、詩編の22編の冒頭の言葉であることは、よく知られたところです。
詩編22編の冒頭は、こうなっています。

「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうともせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか」


ここには、神に見捨てられたような現実を前に、嘆いている信仰者の言葉があります。しかしこの嘆きは、最後には、神への賛美に至るのです。

この詩編22編の祈りを、主イエスは十字架の上で祈っておられたのだ、と理解する人もいます。祈り始めたのだけれども、冒頭の言葉で、息絶えてしまったのだという人もいます。

その人たちは、主イエスはやがて希望に至る、この祈りを祈っていたのだと信じる。

またある人は、これは詩編22編の祈りではなく、ただ絶望の叫びをあげているだけだと信じる人もいます。


絵画を見る時に、わたしたちは、一人一人、違ったイメージと、メッセージを受け取るものです。

確かに、それを描いた人の思いや、信仰が、その絵には、表現されているのですけれども、しかし、その絵を見た人が、その絵から、どのようなメッセージを、心の中に受け取るのかは、絵を見る人に任されている。

明らかに「誤読」だと気づいたなら、訂正しなければなりませんけれども、ある程度解釈に幅があるものは、それぞれの人の心に響くことを大切にしたらいい。

マタイの描く、主イエスの絵も、マタイがここに描く、この「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」との、主イエスの言葉も、ある人には、最後に神への賛美に至る、詩編22編の祈りの言葉として響いていいし、またある人には、ただただ、神に見捨てられた絶望の叫びとして、心に響いていい。

その人にとって、この一言が、どのように心に響くのか。そこに正解はないし、むしろそこに、その人に語りかける神の言葉、聖霊の導きを感じていくことに、信仰生活のダイナミズムがあるのですから。

聖書が神の言葉であるのは、そういう意味。正しい答えが書いてあるから、神の言葉なのではなくて、聖霊に導かれて書かれた一つ一つの聖書の文書、福音のストーリー、それぞれの聖書記者が描く、福音絵画が、

それを読む人々、見る人々の心の中で、聖霊に導かれ、聖霊によって描かれる絵となり、メッセージとなる。

それが聖書は神の言葉である、ということの意味だと、私は理解しています。

 お茶の水にクリスチャンセンターという建物があるのです。そこで昔、毎週金曜の夜に集会をしていたのですね。もう30年近く前ですけれども、クリスチャンになって間もないわたしは、ある人に誘われて、その集会に出たことがあるのです。そこで語られた説教者の言葉は、今、何一つ覚えていないのですが、その話を聞きながら、自分の心の中に浮かんできた、映像は今でも残っています。それは、十字架につけられた主イエスの姿。

そして、自分がいかに、このキリストの十字架から、目をそらしていたのか。人に語ることもせず、隠してきたか。そのことが、心の中にまるで絵を見るように示されて、心が締め付けられるようになってしまって、どうにもならずに、その夜、当時通っていた教会の、副牧師のかたに電話をして、自分は、イエス様の為に献身したいと、いいました。今思えば、もう少し冷静になって、よく考えてからでいいんじゃないかと思いますけれども、心のなかに浮かんだイメージが、自分を押し出してとまらない、という体験をそこでしたのでした。

 この体験は、わたしにとって人生のターニングポイントだったのです。

また、さらに振り返れば、わたしがバプテスマを受ける決心をした集会では、伝道集会でのメッセージを聞いて、その時は、ザアカイの話だったのですが、何一つ先生の話は覚えていないのに、心の中に、木に登ったザアカイがイメージされて、ああ、この木から降りればいいのだという、そういう気持ちになって、集会の後に配られた、決心カードに、バプテスマを受けますと、○をしてしまった。

そして、今、ここに立って牧師をしているわけです。

申し上げたいことは、聖書の言葉、マタイやルカの描く、主イエスのストーリーが、わたしたちの心の中で、どのような絵となって描かれるのか。その絵を描くのは、自分であるのだけれど、そこに聖霊の導きもきっとあるでしょう。その心に描かれた絵が、聞こえてきた言葉に導かれて、その人の人生が大きく変化することもあるでしょう。

そのわたしの証をお話しさせていただいたわけです。

さて、今日、わたしたちの心には、どのような神の絵が、神の絵画が描かれているでしょうか。


「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」という主イエスの十字架の上での叫びが、今、私たちの心に、どのような絵を結ばせているでしょうか。


さらに、実はここの箇所には、もう一つの絵を、マタイは描き、展示していることに、お気づきでしょうか。

マタイは、十字架の上で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた、その主イエスの姿を描いた絵画のすぐ横に、

主イエスの死によって開かれた、復活の主イエスによる、新しい世界絵画が、ならべられ、飾られていることに、お気づきでしょうか。

51節
「その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が避け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都に入り、多くの人々に表れた」


マタイは、主イエスが、絶望の叫びをあげて、息を引き取られる、絵画のその隣に、神と人とを隔てていた神殿の垂れ幕が上から下まで、真っ二つにさけ、復活の主イエスと、信じる者たちが、やがて、聖なる都に入っていくという、壮大な絵画を、飾っていることに、お気づきでしょうか。

マタイは、実はこの箇所に、二枚の絵を飾っているのです。十字架の上で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ぶ主イエスの絵と、その横に、そのあとに、始まる、復活の主イエスによる新しい世界の絵を、実は、ならべて飾っていた。

 この二つの絵画を、ちゃんと両方見たいのです。十字架の叫びの絵画だけじっくり見ておいて、その横に飾ってある、主イエスの復活から始まる、希望の世界を描いた、マタイの絵を、見過ごさないでいたいのです。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた主イエスの絶望は、復活への希望に至るのだ。十字架は復活は、ふたつで一つ。この絵画は二つでワンセット。切り離せない。

絶望は希望に。死は復活に、朽ちるものは、朽ちないものに。一つとなる。


わたしたちも、それぞれに、そういう二つの絵を、絶望の叫びの絵と、復活の喜びの絵の、二つの絵を、自分の人生のアトリエに飾っているでしょう。

「もうだめだ」という絶望の叫びをあげたあの時。

しかし、そこから神は救い出し、立ち直らせてくださった。

そんな小さな十字架と、ちいさな復活。そんな二つの絵画を、わたしたちも、主イエスに従う人生のなかで、

聖霊によって導かれ、聖霊によって描きつつ、今日の日まで生きてきたはずです。


さて、百人隊長や、見張りのものたちは、地震や、復活の出来事を見て、言ったのでした。

「本当に、この人は神の子だった」と

わたしたちも、十字架の絵の横には、いつも、必ず、復活の絵があることを、思い起こして、


「本当に、この人は神の子です」と、告白しつづけたいのです。