「共に目を覚まして祈ってほしい」(2017年4月2日花小金井キリスト教会夕礼拝メッセージ)

マタイによる福音書26章36節〜46節


 4月になりました。新年度ですね。
私たちの教会の、新しい年度のテーマ、主題は、なんだったかご存じですか。

「主にあって、互いに語り祈り合おう」です。

特に、祈り合うという言葉が、例年とは違う新しいポイントだと、わたしは思っているわけです。

意外なようですけれども、教会において、礼拝とか祈りというものは、ある意味自明なこと、当然のことと思われているので、むしろ意識的に「礼拝」や「祈り」に集中しないと、教会のあつまりが、ある意味、「塩気のない塩状態」になりやすいと、常々思っているのです。

 主イエスがいわれた、塩なのに塩味がしない塩ですね。あなた方は世の塩である。塩が塩気を失えば、役に立たずに投げ捨てられてしまうという、あの塩です。

 教会がしていることは、この世界のあらゆる組織で出来ることです。奉仕活動。人と人との交流。教育活動、音楽活動。弱い人を助けること、寄り添うこと。それさえも、専門の組織なら、もっと上手にすることができる。

 むしろ、この世界のどんな組織にも決して出来ない重要なこと、つとめが教会に与えられています。それが、主イエスキリストを通して、神を礼拝することであり、主イエスキリストの名によって、神に祈り願うことによって、神の御心が、天で行われるように、この地上にも行われるように、祈ること。

これは、教会にしかできないことですし、教会が神さまから期待され、御子、主イエスが十字架につけられ、復活することで生まれた、新しいコミュニティ-、教会にしか出来ない働きであるわけです。

この、目に見えることにしか、価値を見いだせない、病んだ時代。

目の前のことしか見えず、即物的で、すぐに役に立つこと、即戦力を求める時代。

祈りのような、目に見えず、すぐに効果が現れたり、役に立ったりしないものに、価値を見いだせない、すっかり病んでしまった時代のなかで、
わたしたちは、ある意味、カウンターカルチャーとして、この時代の病んだ文化に、対抗する意味においても、

「祈り」への意識を、大切に大切に、お互いの間で、徐々に、育てていきたいと、思わされています。

今年のわたしたちの教会のテーマを、この「主にあって、互いに語り祈り合おう」というテーマを、お題目で終わらせたくないのです。

「祈り合う」と一言でいっても、これはそれほど簡単なことではないことを、わたしたちは知っているでしょう。

自分自身の、日々の祈りの生活を振り返ってみても、このテーマが実は大きなチャレンジであることに、気がつかされる。わたしたちは、そう簡単に祈り合えたりしないのです。

まさに、先ほど朗読した主イエスの必死の祈りの姿。ゲッセマネという場所で、祈った主イエスの祈りの出来事において、一緒に目を覚まして祈ることができなかった、弟子のすがたは、人ごとではない、わたしたちの姿であるわけだから。


 このゲッセマネの祈りは、何週間か前に朝の礼拝でも、お話ししたのです。その時は、ルカの福音書からお話しました。

今日はマタイの福音書でしたが、マタイの内容と、ルカとでは、すこしポイントが違うのです。まず、だれでも気がつくことでいえば、この祈りの場所が、マタイはゲッセマネといい、ルカではオリーブ山といっていることが違う。

そしてもう一つのポイントは、弟子たちを伴って主イエスは祈りにきたのだけれど、38節で「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」という言葉は、ルカにはない。マタイの福音書の特徴なのです。

 ルカのほうの主イエスは、苦しみもだえ、血の滴りのような汗を流されて祈っている。ルカにおいては、主イエスの苦しみにスポットライトが当たっているのです。一方で、マタイのほうは、苦しみではなく、悲しみにスポットライトが当たっている。

これは大切なポイントです。

主イエスは、弟子たちをつれて祈りに来たゲッセマネで、深く悲しんでおられる。

何を悲しんでいるのでしょう。

それはもちろん、39節にあるように、この杯を取りのけてほしいという悲しみ。この「杯」とは、神の裁きの杯です。旧約聖書は、預言者の言葉として、神の裁きを「杯」と表現しますけれども、「杯」とは、人の受けるべき神の裁きを、十字架のうえで、ご自分が受けること。受難を「杯」と言われ、その「杯」を飲み干すことの、葛藤を、悲しみを言われていると、そう思う。

39節では主イエスは「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに」と祈られて、

二度目の42節では、
「父よ、わたしが飲まない限りこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」と祈られて、

3度目も同じ言葉で祈られたと、マタイの福音書は記します。

「わたしが飲まない限り、この杯が過ぎ去らないのなら」という主イエスの言葉から、神の裁きの杯を、このわたしが飲まなければならないのだという、その思いと覚悟が伝わってくるわけです。

ただ、そうなのだけれども、やはりここで主イエスが、苦しんでいるのではなく、悲しんでおられることが、引っかかる。

ルカは、この杯を飲み干すことの、苦しみを、血の汗のしたたりのような汗をながして、と表現しますが、マタイは、「わたしは死ぬばかりに悲しい」といわれて、さらに弟子たちに対して「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と願われたということは、大切なメッセージがここに込められているように思えてならないのです。

主イエスが悲しんでいるそのそばに、共に目を覚ましていてほしい。

そう、主イエスご自身が弟子たちに願われている。こういうことは、今までなかった。

こんな寂しがり屋のイエス様の姿は、それまでの主イエスの姿から、見つけることは出来ません。むしろ時々、弟子たちから離れて、ひとりで山にこもって祈られたり、いつも毅然と、悠然と、弟子たちの先頭に立って歩んでこられた主イエスが、

今、このゲッセマネの園に、弟子たちを連れてきて、ご自分の心の内の悲しみを、「死ぬばかりに悲しい」とまで、まっすぐに、正直に、打ち明けられて、ここを離れないでほしい。わたしと一緒にいてほしい。目を覚ましていてほしいと、弟子たちに願う主イエス

このイエス様のお姿は、奇跡や癒やしを行い、律法学者たちと、毅然と対決なさったイエス様のお姿を知るわたしたちには、まったく受け入れがたい、弱々しいお姿に思える。

しかし、このような姿を弟子たちの前にさらされても、弟子たちには、そばにいてほしかったし、目を覚まして、一緒に祈ってほしかった。

これから進んでいく十字架への道、苦しみの道、受難の道を前に、その道を歩んでいく葛藤を、乗り越えていくために、天の父との激しい交わり、祈りの格闘を必要としたイエス様。

それはわたしたちも試練のなかで、病気や仕事のプレッシャーや、自分にはどうにもならない大きな岩の前で、神さまに一生懸命祈る、祈りの格闘をするということは、あるでしょう。

夜、眠れないほどの不安や恐れのなかで、繰り返し神さまに助けを求めて祈るということが、わたしたちにもあるでしょう。

もう祈るしか出来ない。いや、祈ることだけが、祈ることが出来ることこそが、自分を支えるということがある。

わたしは、10年ほど前、山形の酒田の開拓伝道で、精神的に行き詰まってしまい、鬱状態に陥って、なにもできない。本も読めない。そんな状態のなか、ただ朝早く起きて、うなり声のような祈りをすることで、なんとか生き延びたような体験をしたことがあるのです。

目の前に大きな岩が立ちはだかってしまって、どうしようもない。祈っていても言葉が出ない。ただ唸っているだけという祈り。でも、今思えば、それでも祈ることが出来たから、何とかなった。

そして、わたしには妻がいてくれたし、子どもたちもいてくれたことが、絶望に至らずにすんだ理由でもあるとおもっています。

先日、水曜日のお祈り会のときに、Mさんから伺ったのですけれども、お知り合いの牧師さんが、田舎で一人だけで、教会の開拓を頑張ってなさっていたけれども、自死されてしまったことを伺い、とても心が痛みました。ほんの少しだけだけれど、その牧師さんの深い孤独が、絶望が、悲しみが、

自分で自分の命を絶ってしまうほどの、深い絶望に囚われてしまうことの、恐ろしさは、決して人ごとではなく、だれにでも起こりうることだと思うからです。

だれか一人でも、その方と共に祈る人がいたら。
悲しみのなかにいるその方の、そばにいてくれる人がいたら。
目を覚まして、祈ってくれる人がいたら。

そう思うのです。

「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と願われた主イエス

この悲しみは本物です。死に至るほどの悲しみが、この世界にはあるし、主イエスは今、その悲しみを感じておられるのです。

しかし、弟子たちは。主イエスと共に、最後まで目を覚ましていることは出来ませんでした。

一緒に、祈り続けることが出来ませんでした。

「主にあって、互いに語り、祈り合おう」

この今年のテーマが、そう簡単ではないことが、おわかりいただけるでしょうか。

悲しみにある人と、共に居続けること。祈り合うこと。それはそう簡単なことではありません。

人間は、すぐ眠くなってしまうのです。それは、疲れているから、眠くなるとは限りません。人は興味のないこと、関心のないこと、意味を見いだせないことを、し続ける時、眠くなるのです。

主イエスは、3度同じ言葉で祈られました。主イエスにとって、天の父に祈ることは、非常に重要なことであり、なんど同じ言葉で祈ろうが、眠くなることなどなかった。

しかし、弟子たちにはそうではなかったのでした。同じ言葉で祈る祈りに、弟子たちはついて行けずに寝てしまった。

弟子たちのこころが燃えていたのは、祈りに燃えていたのではなく、これから始まるであろう、ローマとの戦いに、こころ燃えていたわけだから。

しかし、ローマと闘うのだと、こころ燃やしていても、彼らの体はあまりに弱い。ローマに勝てるはずなどないのです。

彼らこそ、この状況のなか、祈らなければならないはずだった。のんびり眠っていられないはずだった。ローマと闘えば、ひとたまりもなく殺されてしまうのだから。でも、弟子たちはそんな危機感もまったくないまま、祈ることもせず、眠ってしまえた。

教会も、祈りにおいて、眠りこけてしまわないようにと、願うのです。

明日、何が起こるか分からない人生において、この世界において、まるで明日も、昨日の延長線上で、変わることない日常がつづくのだから、祈りなど無駄なことと、眠ってしまわないように、

誘惑に陥らないで、祈ることにおいて、目を覚ましていたいのです。

祈りは、即効性があったり、自分の役に立つようなものではなく、神のときに、神の御心が実現するために、自分自身が用いられるための、ものだから。

すぐには変化に気づかなくても、5年、10年経ったなら、祈ってきた人と、祈らなかった人。祈ってきた教会と、祈らなかった教会には、必ず、神の国の実りということにおいて、違いがあるはずだから。

そうでなければ、キリストは誘惑に陥らないように祈りなさいなどと、言われるわけがないのですから。

祈るべきときに、祈らないことは、その時には分からなくても、何か大切なものを、私たちに託されている、神の国の大切な宝を、みすみす失っていることかもしれない。

もちろん、私たちが祈らなくても、神の国はやがて実現するでしょう。私たちがしなくても、ほかの人を神がたてて、神がよい働きを実現なさることもあるでしょう。

でも、わたしたちに、一緒に働かないか、祈らないかと、声をかけてくださっているとしたら、一度きりの人生に、私たちが思いもしなかった、永遠の価値のある、神の国の出会いや出来事を、味わうチャンスを、与えてくださっているのに、眠り込んでしまって、みすみすそれを捨ててしまうのは、あまりにもったいない。

そういう気づきをいただいて、お互いの間で、祈り合うことを、大切に育てていきたいのです。

そして来年の今頃、一年を振り返って、このテーマに生きてこれて、本当によかった、素晴らしい実りを体験できたと、証ししあいたいと、願っているのです。