ルカ11:14ー28
今日も、神様が私たちをここに招いてくださいました。
愛してやまない神の子に、愛の言葉を語りかけてくださるために。
わたしたちは、その天の親の愛の言葉を聞きたくて、今日もここに集っています。
そして今日、この場に来ることのできない、仲間の一人ひとりを覚えて祈ります。
熊本の地震で、今も不安の中におられる人々を覚えて、祈ります。
この一時間。しばし、自分のことから目を離し、命を与えてくださったお方を、共に見上げます。
そのお方、天の親が、この地上でうめくすべての人々の悲しみによりそい、わたしたちの思いを越えて、働いていてくださることを信じて、憐れみを祈ります。
祈りは自分の無力さの表明です。自分は、やがてチリに帰っていく、限界ある人間であることを表明です。
自分は一人では生きることのでいない、命の源である神が必要であることの、表明です。
先週の礼拝では、主イエスが弟子たちに、祈りを教えられた御言葉から、聞きました。
わたしたちに命を与えたお方。命の源。そのお方を、「父よ」と親しく呼んでいい。いや、呼びなさい。
もちろん「父」といういい方は、メタファーです。隠喩です。神は男性だという話ではないのです。
むしろ、神の子たちを愛し、守り、支え、導いてくださる、完全な親。それが私たちに命の源と、イメージすればよいのでしょう。
小さな幼子が、親を呼ぶように、「父よ」と呼ぶ。
祈りは、神様と私たちの愛の交わり。コミュニケーション。
ですから、イエス様は祈りを教えられたその最後に、天の父は、求めるものに、聖霊を与えてくださると約束して下さいました。
聖霊。神の霊。神の息。神の息吹。
神と人、そして人と人がつながれていくとすれば、そこに聖霊が働かれているのだ。
聖霊。交わりの霊は今、ここにも働かれています。まったく縁もゆかりもなかった人々が、今日初めて来た人も、何十年もいる人も、国も文化も思想もこえて、
ここで心ひとつに礼拝を捧げていることこそ、聖霊の働きの証。神の霊の働きの、目に見える現れ。
天の父は、求めるものに聖霊を与えてくださる。
そして今、ここは聖霊が満ちている現場。教会。
さて、主イエスが、求めるものに聖霊を与えてくださると約束して下さった、その続きの個所が、先ほど朗読された御言葉なのです。
主イエスが悪霊を追い出されるという出来事。聖霊の約束に続いて、悪霊が追い出されるという出来事が続いている。
口を利けなくする悪霊を、主イエスが追い出されると、その人は、口が利けるようになった、という出来事。
悪霊。それは、神に与えられたその人の命の輝きを奪うもの。神との信頼関係よりも、神ではないなにものかに縛りつけて束縛し、自由を奪う。
そういうい霊的な働きかけをするものとして、ルカの福音書は語っています。
ですから、その悪霊を追い出すということは、まずもって、その人が縛られていたものから解放されていく、自由になるということがイメージされています。
それは主イエスが福音を伝える働きを始めたその最初に、預言者イザヤの言葉が開かれて、
「捕らわれている人に解放、・・・圧迫されている人を自由にする」という宣言をもって、始められたことからもいえることです。
神ではないものに縛られ、恐れ、自由を失っていた人々を、解き放ち、
神に向かって、「父よ」と親しく呼んで、祈り、感謝と賛美を捧げる。
そんな神の子の喜び、自由、命の輝きへの、解放して下さる。悪霊を追い出すということは、そういうこと。
この口が利けなかった人が、口が利けるようになったときに、まず最初に出てきたことばは、きっと神様への感謝と賛美の言葉だったでしょう。
そういう言葉を語る人へと、わたしたちを、悪いものから解放してくださる主イエス。
そして、主イエスは求めなさい、さがしなさい、門をたたきなさい。
天の父はもとめるものに、聖霊をくださるのだと、いわれます。
悪霊が追い出され、神ではないもの縛られていた心が解放されて、
神への感謝と賛美を捧げる教会に、聖霊は満ち溢れています。
教会は、目に見えない聖霊が働かれている、目に見える証です。
来週は、晩餐式があります。晩餐式の最後に、「教会の約束」というものを皆さんで読み上げるでしょう。
そこで「教会は人によって成ったのではなく、神によってなったと信じます」とわたしたちは告白します。
目に見えるのは、人間の集まり。気の合う人、会わない人もいる。
クリスチャンらしいとか、らしくないとか、いろいろある。
しかしこの集まりは、人によって成ったもののではなく、神によってなりました。わたしたちはそう信じて一緒に告白します。
今日の御言葉でいえば、私たちは、主イエスに悪霊を追い出していただいて、神さまに向かって感謝と賛美をささげる、口を開いていただいた、仲間です。
神の霊、聖霊によって、集められている集まりです、ということでしょう。
わたしはこの場所で、毎週日曜日の朝、みなさんが来られるのを待っている立場ですから、今日のように、雨がしとしとふっていると、思うんです。
今日は、だれもこないんじゃないかと。雨だし。
しかし、今日もこうしてみなさんが天の中ここに集まってこられて、当たり前のように、礼拝が捧げられている、そのあたりまえではない、不思議さに、いつも感動します。
教会。そして毎週の礼拝。この集まりの不思議さ。神によって成ったとしかいえない、奇跡の現場。
ここにある聖霊の働き。悪い霊を追い出し解放する、主イエスの目に見える証。
ところが、今日の御言葉を読み進めてみると、15節から語られていくように、そのような、主イエスのすばらしい働きを、目撃しながら、
「あれは悪霊の頭ベルゼブルの力で、手下の悪霊を追い出しているだけだ」という人もいた、という話なのです。
16節には、「イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた」
目の前で、人が束縛から解放され、自由にされ、喜んでいるのに、それでは足りない。もっとすごいしるしを見せたなら、認めてやろうということでしょう。
それを今の教会という現場に当てはめてみるなら、
この教会という集まり人々が、喜んでここに集ってくる、その不思議さに気がつかない。こんなことは大したことではないと、もっと不思議なこと。
病のいやしでも、奇跡でも起こらなければ、イエスが今も働いているとは思えない、という心の態度にも通じる話なのでしょう。
昨日、「はれるやキッズ」という、こども会を教会でしたのです。月に一度しているのですけれども、いつもわたしと、あと二人の方が一緒に手伝ってやってくださるのですけれども、昨日はお一人の方が用事でこられなくて、ちょっと手が足りなくて大変かな、とおもっていたら、
10時から始まるのですけれども、9時半ころ、教会員のある方が、教会にこられたんです。実はちょっとした勘違いで、教会に来てしまっただけだったんですけれど、
結局その方。こども会を最後までお手伝いしてくださいました。こどもたちと一緒に、体を使って、めいいっぱい遊んでくださったんです。嬉しかったですね。
このタイミングで、勘違いで、教会に来てくださって、手が足りなかった、子ども会を手伝ってくださる。
ああ、これは神様が、天使を遣わしてくださったなぁと、わたしは本当に、喜びましたよ。
こういう話を聞いて、どう思いますか。なんだ、そんなこと、と思いますか。もっとすごい天からのしるしを、みせなさいと思われるでしょうか。
できれば、悪霊の頭のベルゼブルの働きじゃないかとだけは、思わないでいただきたいなと、願います。
私たちの教会は、今年一年、「喜ぶ人と喜び、泣く人と共に泣きなさい」という御言葉を、大切にすることにしました。
喜ぶ人と共に喜ぶ。そうはいっても、意外と難しい。
今日の御言葉においても、主イエスが悪霊を追い出して、口が利けるようになって喜んでる人と、一緒に喜んで、よかったねぇ、ああよかったと、喜びあえなかった人が、周りにいたわけでしょう。
それって、悪霊の頭の働きじゃないの。悪霊の頭が、下っ端の悪霊に命じているだけじゃないの、
何、喜んでるのと、冷や水をかけられたわけだから。
そんな人間の、ともに喜べない、心の思いを見抜いた、主イエスはいわれました。
17節
「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なりあって倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼベルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめをすれば、どうしてその国は成り立っていくだろうか」
内輪もめのわけがないでしょう。そんなことでは、どんな組織も成り立たないよ、とイエス様は皮肉っぽく言われます。
あの強大なローマ帝国も、結局、内側から崩れたように。
会社も、家庭も、そして教会もまた、
外側からではなく、内側から、荒れ果てていくものです。
内輪もめ。主イエスが働らいておられる現場は、そんな内輪もめの現場ではないのです。
むしろ、自分を縛りつけている強いものを、主イエスは神の指で追い出され、捕らわれていた、私たち一人一人を、悪いものから、奪い取り、自由にしてくださった。
それが、21節から主イエスが言われている、ことでしょう。強いものから奪い取り、分かちあうという表現を、そう受け止めます。
さらに主イエスは言われます
「わたしに味方しない者は、わたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」
主イエスの働きは、人々を散らす働きではなく、集める働きであるといわれます。
主イエスと一緒に働くということは、主イエスに仕えるということは、それは人と人をつなぎ、集め、共に生きるようにと、仕える働き。
もし、そういうことが起こっている現場があるなら、神の国はあなたたちのところにきているのだと、
主イエスは宣言します。
だから、わたしたちは祈ることができるのです。
み国がきますようにと。
主イエスによって、神に向かって「父よ」と祈るものへと、解放されたから。
主イエスによって、神の国が、神の支配がはじまったからこそ、わたしたちは神に祈り、神の言葉に聞きつづけ、神の言葉を守ります。
今日の、御言葉の27節から、主イエスに向かって、ある女性が「なんと幸いなことでしょう。あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」と叫んだとあります。
こんなすばらしい息子を持った、お母さんは、なんて幸せなんでしょうと、叫んだわけです。こういうことをいったこの女性に、もし息子がいたら、どう思ったでしょう。「わるかったね、あんな立派な息子じゃなくて」と、いやな思いをしたかもしれない。
目に見えることで、あの人は、いい、この人はわるいと、あの人は幸いだ、わたしは不幸だ。
そんな目に見えることに縛られて、一喜一憂しがちな、わたしたち。
しかし主イエスは言われます
「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人なのだ」と
目に見える人の行いは、目には見えない、その人の内側、内面に蓄えられている、言葉からこそ生まれてくるのだから。
本当に幸いなのは、神の言葉を聞き、蓄え、失わないように、守ることなのだから。
守るという言葉には、見守る。目を覚ましている。目を開いているという意味もあるそうです。
神の言葉に聞く。目を覚まして、言葉が自分のなかで、内側で、生きて働くように、大切に目を配りたい。
ことばこそ、その人を生かしも、殺しもするからです。
晴佐久昌英という神父がいます。彼の書いた「生きるためのひとこと」という本のまえがきに、こんなことが書いてあります。
「人は、ことばで生きている。
ことばで世界を知り、ことばで自分をつくり、ことばで他者とつながって生きている。
だから、本当にいきるためには、本当のことばが必要だし、美しくいきるためには、美しいことばが必要だ。
嘘のことばは自分を壊し、汚いないことばは世界を汚す。
わたしがわたしを生き、あなたと生きていくために、本当に美しい、生きたことばが必要だ。
そんなことばに、こよなく憧れる。
たぶん、それは、特別なことばではない。ふだん何気なくつかっている、いちばん身近なことばこそが、そのような力を秘めているのではないか。とりわけ、実際に声に出して口で語る、話しことば
「おはよう」とか、「ありがとう」とか。
だれであれ、生まれて初めて触れたことばは、話しことばである。母のことばと、父のことば。初めて心に響いたことばも、話ことばであろう。友のことばや、恋人のことば。このわたしにまっすぐに語りかけてくれる、素朴で、温かいそのひとことには、無限の力が秘められている。
しかし、わたしたちは、その人ことの働きと値打ちについて、よくわかっていない。だから、大切なことをうまく言えないし、必要なことをちゃんと聞けない。相手は今、その人ことを待っているのに。わたしは今、そのひとことで救われるのに。
なぜ、わたしたちはいつも、ちゃんと言えないのだろう。「愛している」と
人はことばで生きている。だから、人は、ことばで救われる。
「そのひとことを言うために生まれてきた」
「そのひとことを聞くために生まれてきた」
・・・・・・・
今日の物語で、主イエスに悪霊を追い出してもらい、言葉を語れるようになったその口から、あふれてきた言葉は、何だったのか。
それは、その人が、聞き続けてきた言葉。蓄えてきたことばが、口からあふれ出てきたことでしょう。
わたしたちが、どのような言葉を聞き続けているか。それが、その人の口からあふれ出てくる言葉となって、実ってくる。
主イエスは、汚れた霊が追い出されたても、そのまま、からっぽにしていると、元の汚れた霊が、友達まで連れてもどってくるという話をしました。
だからこそ、幸いなのは、神の言葉を聞いて、それを見守ることなのだと言われます。
神の言葉を聞いて、それを大切に見守り、育てていくことが、幸いだと言われます。
神はいつも、人を生かし、共にいきることばを、神の愛の言葉を、語っておられます。
昨日ではなく、今日。今、きかなければならない、神の言葉があります。
神の国は来ています。「子よ」と語りかけてくださる、天の親の言葉は、今、語られています。
わたしたちは神の言葉を聞きつつ生きる、神の国の仲間なのです。