「神と共に、互いに聞きあう仲間」(2016年4月3日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

ローマ12章9節〜21節

 おはようございます。
桜が咲きました。4月3日。新年度が始まりましたね。
先週は、イースター礼拝でH君と、E君のバプテスマ式があって、E君とわたしは、その後すぐに、全国小羊会キャンプに、静岡の天城山荘までいってきました。


キャンプのテーマは「君をわすれない」。講師は仙台の長命ヶ丘教会のK牧師。

k牧師は、「ペッツ」のコレクターで、1000以上の様々なキャラクターのペッツを持っているのだそうです。彼はそれをたくさん持ってきて、ペッツのキャラクターを動かしながら、それをプロジェクターで大きくして、聖書の物語をこどもたちに語ってくれました。

大人も子どもも、大笑いしながら、実に楽しく、そして新鮮に聖書の物語。とくに、イエス様が本当に、私たちを愛しているよ、「君を忘れない」よと語ってくれている物語をですね、ザアカイさんのお話とか、もう大人の人は何度も聞いてきたお話も、実に新鮮に、感動的に伝えてくれたから、E君もきっと、いまでも覚えているでしょう。忘れていないよね。

k先生は大会のために、すてきなテーマソングもつくってくれたから、花小金井教会のみんなの前で、一緒に歌おうかと、Eくんにいったけど、歌だけは勘弁してくれといわれたから、歌わないけど、感想文だけは書いてね。

「君をわすれない」いいことばです。
卒業式の日に、友達から、生徒から、先生から、
「あなたを決して忘れないよ」といわれたら、うれしい。
人間だから、実際は、いつかは忘れてしまうかもしれない。でも、「あなたのことを、忘れない」という言葉をいってもらったら、やはりうれしい。言葉は心をつたえますから。


やがて、愛する人と別れるとき。天にまねかれるとき、その枕元で、「あなたのこと、決してわすれないよ」「一緒に生きてくれて、あゆんでくれて、ありがとう」

そんな言葉をお互いに、言い合える人が、一人でも、そばにいてくれるなら、なんて幸いなことでしょう。

そして、気がつきたいことは、その言葉を、いつも、イエス様は私たちに一人一人に語っていてくださること。

「君のこと、忘れてないんだよ」「君はひとりぼっちじゃないんだよ」「わたしがそばにいるよ」「この世界の終わりまで、決してあなたからはなれないよ」

エス様は、インマヌエル(主は共におられる)お方として、死から復活して、今、ここにいてくださる。

そしていつも、愛の言葉を語り続けてくださっている。

その神の愛の言葉を、共に聞く、わたしたちは仲間です。

そして、神の愛の言葉に励まされたわたしたちも、お互いに寄り添いながら、「君のこと、忘れていないよ」「あなたのことを知りたい。言葉を聞きたい」

そんな仲間として歩み出しましょうと、今年度、私たちは「神と共に、互いに聞きあう仲間」というテーマを選びました。

そして、今日のみことば、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という、使徒パウロを通して語られた、神の言葉をいただいて、この御言葉に励まされながら、この一年を歩み出そうとしています。

この「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という言葉は、一見、命令口調ですけれども、もちろんこれは、それをしなければ、救われないとか、神に裁かれるとか、おそれたり裁くためではないし、お互いに向かって、ちっともそのように生きてないじゃないって、頭をたたきあうための言葉じゃないのです。

使徒パウロは、そんな罰則規定のある戒律や規則など、語っている訳ではないわけですから。

ローマの信徒の手紙は、むしろそういう、自分の行いによって正しいものとなろうという、自分の義ではなくて、主イエスが、人間の罪を背負って、十字架について死んでくださるほどに、すでに神に愛されているのだから。恵みを受けているのだから。その神の恵みを信頼しなさい、その信仰が、神への信頼が、あなたを救うのだから。

それは昔昔、イスラエル民族の最初の人。アブラハムを神様が選んでくださって、あなたの子孫を祝福するよと、約束をしてくださったときも、別に、アブラハムという人が、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共になく」そういう立派な人なので、あなたを祝福しようと、神様はアブラハムを選んだわけではないのです。

ただ、あなたを祝福するよ、といってくださった、神様の言葉をまっすぐに信頼しただけです。

それを聖書はこういいます。「アブラハムは神を信じた、それが、彼の義と認められた」と

使徒パウロは、この信仰による義ということを、ずっとこのローマの信徒への手紙でいい続けて、この12章まできたわけです。神の愛と恵みは、主イエスにおいて、はっきり表された。

神の愛の心、その感動は、今や聖霊によって、わたしたちの心に、注がれるようになったんですよ。

わたしたちの、こころの内側から、神の愛があふれでてくるように、なったんですよ。この神の愛から、わたしたちを引き離すものは、なにもないんですよ。

そういうことを、ずっとパウロは語ってきて、今日の箇所に至っているんですね。

この、まず神の愛が注がれていることに、まっすぐに心を開く、信仰を忘れてしまうと、

今日の御言葉の冒頭9節で、パウロがいうように、

「愛には偽りがあってはなりません」ということになるわけです。

つまり、うちから沸き上がってくる愛を、隣の人に分かちあいたいという、まっすぐな愛ではなくて、

私のうちがわが、乾いていて、欠乏していて、人から認めてほしい、評価してほしい、ほめてほしい。

その自分の乾いた心を、満たしたいという動機で、何かよいことをするのは、愛ではなくて、取引だから。

「愛には偽りがあってはならない」というのは、そういうことでしょう。

聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている。


「あなたのこと、ひとときも忘れていないよ」「君をわすれていないよ」「いつも共にいるよ」そのように、心に語りかけてくださる、神の愛の言葉で、心が満たされ、そして、あふれでてくるものこそが、偽りのない「愛」というものだから。

コロサイの信徒の手紙で、パウロはそれをこのようにもいいます

3章15節「キリストの平和があなた方の心を支配するようにしなさい」

16節「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」

主イエスの言葉。神の言葉を、毎日のご飯のように、聞き続けたい。一人で孤独にご飯を食べるより、みんなで。

先週の、持ち寄りの愛さん会のように豊かな食事を、教会の交わりの中で、出会いの中で、一人一人の人生の証の中で、主イエスの言葉と出会い、こころに豊かに宿らせたい。

わたしたちは、そういう「神と共に、互いに聞きあう仲間」です。

自分と違う人、立場も年齢も、考え方も違う人の中にも、主イエスは共におられ、その人を通して、自分に語りかけてくださることもあるはずだから。

ですから、10節で使徒パウロはこういうのでしょう。

「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」

 自分とは違う、目の前の人の中にも、主イエスは共にいてくださり、この上なく愛しておられるのだから。

 自分には決して体験できないその人だけの人生や、出会いや、感性を、神様は与えてくださったのだから。その命の価値、存在の尊さに、気づくなら、

尊敬の心も、お互いの言葉に、心開く交わりも、きっと育っていくはず。

そういう心の変化というものは、自分自身では引き起こせるものではないから、パウロは「霊に燃え、主に仕えなさい。」「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」というのでしょう。

祈りという、命と愛の源である神様との交流、コミュニケーションが、許されている。

わたしたちには、祈りという宝がある。祈りの日々の積み重ね、主との交わりの積み重ねのなかに、わたしたちの心の変化が、豊かさが、成長が、現れていくからこそ、

たゆまず祈りなさい。祈りなさい。そうパウロはいうのでしょう。

違う言い方をすれば、ここに使徒パウロが示しているような、愛の人に、インスタントに、手っとり早くなれるわけではないということでもあるわけです。

旅人をもてなすとか、そういう身近な実践から、迫害する人、いやなことをいう人、傷つけてくる人に、言い返したり、呪ったりしたいという、感情を押さえて、むしろ祝福を祈ろうとする、

そういう祈りをなんどもさせられるような、出会いとか、経験とか、失敗とか、そんなプロセスの先に、すこしずつ少しずつ愛の人へ成長していくのでしょう。

インスタントに愛の人にはなれませんし、なりませんから、安心してください。自分はだめなだー、あの人はだめだなーと裁かなくていいんです。

18節で使徒パウロも「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」という言い方をするでしょう。「できれば」「せめて」「平和に暮らそう」とパウロさんも、人間の現実を、クリスチャンの現実を、わかっているんです。そんなに簡単な話じゃないよ、ということを。

その上で、でも、理想を捨てないで、そこに向かって一緒に歩んでいこう。わたしたちは、神に愛されているのだから。救われたのだから。永遠の命を宿しているのだから。主イエスが共にいるのだから。祈ることができるのだから。

もう、自分のことばかりに夢中で、隣の人のことがみえなかった、自分からは、解放されたのだから。


以前、説教の中で、ご紹介したことがあると思います。2006年アメリカのペンシルベニアで、アーミッシュというクリスチャンのコミュニティーに、外から入ってきた青年が銃を乱射して、女の子たちが殺された事件があって、その時13歳のマリアンちゃんは、小さい子たちを守ろうとして、「わたしからうって」と言ったのだと。それだけではなくて、アーミッシュの人たちは、その場で自殺した加害者の男性への赦しさえ表明して、加害者の父親を訪ねて、「わたしたちはあなたを赦します」と抱擁したのだと。

アーミッシュの起源は、古いのです。宗教改革のあと、当時のカトリック教会からも、プロテスタントの主流の教会からも、あれはいきすぎだと、迫害された、絶対平和主義と非暴力を徹底した、アナバプテストというグループにつながるのです。

わたしたちもバプテスト教会ですけれども、わたしたちのバプテストの先輩たちは、国に軍人をだしたりしたのに、アナバプテストの人たちは、そんな国と結び付くような教会は、清くないと批判したわけです。それで、カトリックからも、プロテスタントからも、わたしたちバプテストの先輩からも、あいつらとはちがうと、アナバプテストの人たちは、迫害され、たくさん殉教したんです。クリスチャンから迫害されたんですよ、彼らは。

それでも、恨みよりも、復習よりも、赦しに価値を見出して、生きていたのが、彼らだったわけです。そういうDNAが、アーミッシュの共同体の中で、繰り返し、繰り返し思い起こされて、体験されたそのさきに、あの2006年の事件と、赦しがあったわけです。

ですから、彼らの赦し、愛は、数百年のあいだ、そのように生きてきたという、筋金が入っているんです。わたしたちのような、フツーといいますか、何十年かクリスチャンをやってきました、というわたしたちの、赦そうか、赦すまいか、やっぱりゆるさなくっちゃ、クリスチャンなんだからという、個人的な葛藤というレベルとは、次元が違うわけです。


何世代にもわたって、赦すということの祝福を、体験してきたからこそ、ゆるせないことは、相手に支配されることであること、赦しこそが、赦す人本人をいやすこと。

そして赦しこそが、この世界に生じてしまった傷を、ほころびを、癒すことになることを、何世代にもわかって生きてきた、その彼らの姿が、今、このテロと報復の恐怖におびえる世界に、希望を見せてくれたわけでしょう。

そんな彼らの赦しというものは、実に地味に、毎日の積み重ねの中で、何世代も、このパウロが語った言葉に、生きてきた、その訓練に裏打ちをされているわけです。

ですから、わたしたちはインスタントには、愛の人にはなれません。共に生きる人、共同体の中で、毎日、一歩一歩積み重ねていくこと、習慣、小さなチャレンジ

「神と共に、互いに聞きあう仲間」として、小さな愛と赦しを積み重ねていくこと、そんな愛の練習を積む場、として、わたしたちは教会に集うのでしょう。

でも、そんな面倒なことなど、本来、しなくてもいいんです。

自分と違う人と出会ったり、互いの言葉に、聞いたりすれば、嫌な思いをすることも、傷つくこともあるでしょう。

それでも、わたしたちはその道を歩もうと、今年このテーマを選びました。

それはたとえるなら、鮭が、卵を生むために、傷つきながらも、川をどんどん、遡上していくのにいています。


命があるからこそ、川の流れにさからって、上へ上へと上っていくように。

そんな命を、神の命を、永遠の命を、わたしたちも、いただいているのだから。

わたしたちも、今いる場所から、一歩ずつチャレンジしていきます。


「喜ぶ人と喜び、泣く人と共になく」という歩みをします。

それは、目の前の人と、いつも同じ気持ちになります。同じ感情になります、という話ではないのです。それは難しい。人間はそれぞれ違う人生を生きているのだから。

「喜び」や「悲しみ」という感情は、コントロールできるものではないから。泣いている人を前にしても、同じ感情にはなれないことも、あるでしょう。

でも、それでもいい。喜んでいる人と、悲しんでいる人と、共にいよう。

同じ気持ちになれなくても、すべてをわかってあげられなくても、でも、たとえ短い時間であっても、だまって共にいてあげることはできる。

「君のこと忘れていないよ」と、寄り添うことはできる。その言葉に、耳を傾け、聞くことは、できるでしょう。

小羊会キャンプの講師のk牧師さんは、あの東日本大震災が起こったあの3月に、仙台の教会に赴任したのです。

それからずっと、亘理(わたり)という場所の仮設住宅に毎月教会の人と一緒に通い続けて、5年。その亘理の仮設住宅から、人々がでて、なくなるまで、通い続けたその理由は、ただ一つ、

「あなたのことを、わたしは忘れていない」
「わたしは、あなたと共にいる」

この主イエスの愛を、ことばを、体を運んで伝えるためだったから。そういわれました。

なにか困っている人に、自分たちがしてあげるという、自己満足のためではなく、

なにもできなくても、なにもしなくても、ただその人のそばにいる。共にいる。

喜んでいる人と、悲しんでいる人と、共にいる。話を聞かせていただく。聞くことは、愛することだから。

そうやって、「君をわすれない」「あなたをわすれていない」

わたしは世の終わりまで、あなたと共にいる。

だから、勇気をだしなさい。

そういわれた主イエスの言葉を、伝えるために。

いや、主イエスが宿った人として、主イエスに成り代わって、むしろ、主イエスそのものとなって、

あなたと、共にいる。

あなたを忘れない。あなたは大切な人だからと、

喜ぶ人と、悲しむ人と、わたしたちは、今よりも一歩、共にいる人へと、歩み出したい。

主イエスが人と共にいたいと、この地上にきてくださったように。

主イエスをみ捨て、十字架につけた人間をさえ、

神は、み捨てなかったのだから。なお共にいたいのだと、主イエスを復活させ、神はわたしたちと共にいてくださる、神となられたのだから。

共におられる神の愛が、わたしたちのなかから、あふれでますように。

今よりもほんの一歩、ほんの1ミリでも、

「神と共に、互いに聞きあう仲間」へ向かって、

歩み出せますように