「最も大切なこと」(2016年3月27日花小金井キリスト教会 イースター礼拝メッセージ)

イースターおめでとうございます。
わたしは、去年のイースター日に、花小金井教会に赴任したことを、思い起こしています。いつのまにか一年経ちました。
去年のイースターでは、イースターから、いいスタートを切りましょうと、挨拶しましたけれども、
神様は素晴らしい恵みの一年を、それぞれに与えてくださいましたね。

 そして今日のイースター礼拝では、Mさんの入会式。そしてH君、E君のバプテスマ式という、神さまの恵みのプレゼントを、頂きました。

 思えば、2000年も昔に、十字架につけられて死んだ一人の人を、「わたしは長い人生信じて生きてきたんです」と告白したり、「僕たちはイエス様を信じて生きていきます」と小学生の彼らが、今日、緊張したでしょうに、たくさんの人たちの前で告白して、バプテスマを受けるという出来事は、

これは、普通じゃないです。実に、不思議なこと、奇跡です。

そして、今回、このバプテスマ式を、一番驚いているのは、きっとご両親だろうと、思います。

「そろそろバプテスマを受けないか」なんて、ご両親は子どもたちにいわなかったでしょう?
 そんなこといったこともないのに、なぜか二人が、それも全く別々に、それぞれのの時に、僕はイエス様を信じて、バプテスマを受けたいんだ、と言って、その決断が、今日の日まで全くぶれないで、恥ずかしくても、緊張しても、みんなの前で、告白までし、バプテスマを受けていく。

その姿に、これは、神業だと、不思議な奇跡を感じているのは、一番近くで見ていたご両親じゃないかなと、思う。

わたしたちは、イエスは死から復活した。主はわたしの救い主ですと、信じてあつまるあつまりです。

でも、だれも直接、復活したイエス様を、目でみたわけじゃないんです。見たという人は、手をあげていただけますか。
だれも、みたから信じたわけじゃない。2000年も昔のことなのだから。

復活した主イエスは、目に見える訳ではない。しかし、確かに、今も生きておられるのだ。それは間違いない。そう信じて教会に今も人が集まるのは、今日もまた、こうして、新たに、なぜだかわからないけれども、イエスさまを救い主と信じる人が与えられていくからでしょう。

そうやって、2000年もの間、世界中で、教会が次から次へと広がり、時代を超えて、今、この花小金井にまで、教会が立っているからでしょう。

この教会の存在が、主イエスが復活した証にほかならない。

エスがただ十字架に死んで骨になって終わったなら、ここに今、花小金井教会はないんです。わたしたちは、死んで骨になった人を、救い主と信じるほど、お人好しでも、悪趣味でもないでしょう。

約2000年前、主イエスは、たしかに死から復活なさいました。そして今日、わたしたちは、また、復活した主イエスの働きを、見たのです。

わたしは山形の酒田という小さな町の借家で、日曜日にだれも訪ねてこないで家族だけの礼拝を長くしてきて、人が主イエスを求めて教会に来ることが、どれほど不思議なことか、ありえない奇跡であるかを、心底実感してきた人間です。

ある時、ひとり教会にきてくれた人に、「いったい、何で教会にきたのですか」と、聞いてしまったほど、教会に人がいることは不思議なこと。

どうか、今、わたしたちは復活の主イエスに、ここで出会っていることに気づいてください。
二人また三人の者が、わたしの名によって集まっているところには、わたしもいるのだと言われた、主イエスが、ここにいることを、

今日、バプテスマを受けた、二人のこともたちを通して、また、主イエスに導かれて、人生の長い旅路を、今日まで歩んでこられた、Mさんの証を通して、確かに主イエスは生きておられることを、わたしたち見、そして聞きました。

そして、わたしたちは、その証を、また、だれかに、次の世代に、伝えていくのです。

先ほど朗読された、使徒パウロの手紙の言葉も、要するに、そういうことをいっています。

3節で使徒パウロは、こういいます。

もっとも大切なこととして、あなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。

わたしも、復活の証を聞きました。わたしも受けたのです。パウロはそういいます。

その内容とは、

「キリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたこと・・・・

次いで、500人以上もの兄弟たちに同時に現れた、証言であり、

・・・しかもその証言をした人々の多くは、今も生きているのだといいます。

これはすごい言葉です。キリストの復活を体験した人が、今も生きている。それも一人や二人ではなく、何百人も、まだ証言している時代。

おそらく、このコリントの教会に向けて、手紙が書かれたのは、主イエスが十字架の上で死んでから、2〜30年くらいでしょう。だから、確かに証人は多く生きていた時代。

今、戦後70年たっても、あの戦争の時代を生きた方々は、まだ生きておられるでしょう。わたしたちの教会にも、おられるでしょう。そして、その方々の証言は、ますます重要になっていくでしょう。

もう70年以上までの昔話だから、その言葉には、信憑性がないとか、いい加減なんじゃないかと、わたしたちは思ったりしません。人間は、若い時に体験したことほど、昔のことほど、むしろしっかりと、克明に記憶しているではないですか。

ましてやこのパウロが手紙を書いたときは、十字架からたった、2〜30年ほどだったのです。

直接の証言者が、まだたくさんいた。そして、そのたくさんの証言があったからこそ、パウロの伝道によって、コリントにも、主イエスの復活を信じる人々の集まりが、教会ができた。

でも、そのパウロ本人は、復活前のイエス様には、直接あったことが、ないだけではなく、十字架についた主イエスが三日目に復活なさってあらわれた、12人、また500人以上の人たちのなかにも、パウロは入っていないのです。

むしろ、パウロという人は、イエスが復活したなどといっているものは、神を冒涜するものだと、クリスチャンを迫害していた人間だった。

クリスチャンを捕らえては、引き渡して牢獄に入れていた人間だった。主イエスの復活を信じる人間から、もっとも、もっとも遠い人。それがパウロだったといってもいいでしょう。

そのパウロが、完全にひっくり返ってしまった。それは、教会を迫害していたような、こんな自分にさえ、復活した主イエスは、現れてくださったからだと、パウロは、自分自身の体験を証言します。

エスの復活などあるかと、クリスチャンを迫害していたパウロが、完全にひっくり返って、キリストは、確かに聖書の書いてあるとおり、私たちの罪のために死に、葬られ、三日目に復活したのです。

ケファ、つまりペトロたち、弟子たち、そのほかたくさんの人たちに現れたのです。私はかつて、その人たちの証言を信じなかったし、復活した、などふざけるなと、迫害したのです。

でも、本当に主イエスは、復活して、こんな月足らずでうまれてきたような、私にさえ、現れてくださったのです。

この福音を、私が伝え、あなた方が聞き、受け入れた福音から、離れないでほしい。忘れないでほしい。

聖書に書いてある通り、わたしたちの罪のために死に、葬られ、

聖書に書いてある通り、三日目に復活した、主イエスの福音こそが、あなた方を救うのだから。


パウロがそういわなければならなかったのは、コリントの教会のなかで、死者の復活などないんじゃないかと、そういうことをいう人たちが出始めたからでした。

キリストは十字架に死んで、復活したと、伝えられ、その福音を聞いて、受け入れたのに、なぜ今になって、死者の復活などないんじゃないかと、言い始めたのでしょう。

その説明として、よく聞くのは、教会の中に、霊は滅びない。そういうギリシャ的な考え方がはいってきていて、キリストは神の子なのだから、滅びるような人間の体ではなかったんじゃないか。キリストは死んだり、復活したりするだろうか。
そういうことを言いはじめた人がいたという説明です。

でも、そういうことを言っていられるというのは、結局は、目の前の問題ばかりを見ているということです。

コリントの教会は、不道徳な問題や、お互いが裁きあったり、分派や分裂があったり、そんな目の前の小さな問題が山積みで、一つになれなかった。

わたしたちは、いったい、なんでここに集まっているのか。最も大切なことは何なのか。
エスを信じるとは、一体どういうことなのか。これは、何のための集まりなのか。何がわたしたちの、共通した、本質的な希望なのか。救いなのか。

そのことが、目の前の小さな問題に目をとられるなかで、二の次になってしまった。復活がわからなくなってしまったわけでしょう。

しかし、パウロは、そんな、復活しないキリストでは、わたしたちは救われないのだ。そんなキリストを信じているのなら、わたしたちの信仰はむなしいというのです。

わたしたち、すべての人は、限界ある体のゆえに、やがて死ななければならない。これはすべてのわたしたちが背負っている限界。

そのわたしたちの、その悲しみも、苦しみも、せつなさも、さびしさも、

すべてを受け止め、人として味わい知り、死んでくださった「イエス」が復活したのでないのなら、

十字架の上で、人のきたなさ、ねたみ、恨み、イライラ、すべての暴力を、身に受けて、なお、赦しを祈ってくださった、あの「イエス」を、

神が復活させたのでないのなら、

苦しみ多き地上の人生を生きるわたしたちは、救われないじゃないですか。

わたしたちの、苦しみを、すべて知っておられるお方を、天の父は、復活させてくださったからこそ、わたしたちも、苦しみ、悩み、罪のけがれ、死の限界をかかえていても、イエスを復活させた神は、わたしたちをも、復活させてくださると、信じることができるのだから。

だから、パウロは、イエスの復活は、わたしたちの復活の初穂なのだともいうのです。

 復活がなければ、主イエスの人生は、最後には弟子たちにさえ捨てられ、人々にののしられ、捨てられ死んでしまった、失敗の人生ではないですか。その人生に意味など見いだせない。最後にただ「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と絶望の叫びを叫んで、死んでしまった、意味のわからない、人生じゃないですか。

しかし、その人の苦しみ、絶望が、
その時には、だれにも意味のわからなかった、絶望の死が、しかし、復活によって、この世界を救うという、かけがえのない神の愛であったことが、明らかになった。

復活にそって、主イエスの人生は、その生き方は、十字架は、苦しみさえも、この世界を救う、宝となった。

 わたしたちが、主イエスの復活を信じるということは、ただ、死んだ人がよみがえったという、奇跡を、ぽつんと信じるわけじゃないのです。

主イエスの人間として生きた、その人生のすべて。
十字架に至るイエス様の人生のすべてが、わたしたちへの、神の愛であったのだ。わたしたちは、それほどまでに、神に愛されている。
それを信じることこそ、主イエスの復活を信じることなのです。

別のいい方をすれば、復活とは、苦しみから救うのではなく、苦しみに意味があることに目覚めさせる救い。
復活があるからこそ、わたしたちは、この苦しみ多い人生に、意味があることを、無駄ではないことを、
むしろ主イエスの十字架の苦しみが、復活によって、人を救う宝とされたように、わたしたちの人生の、失敗も、悲しみも、苦しみも、不条理も、

今はその意味がわからないとしても、
私たちの人生の営みのすべては、神によって、宝となるのだ。

あるクリスチャンの人が、こう言いました。

「私の人生は、悲しみと苦しみ、そして混乱とに満ち、何の目的も美しさもない、まるでペルシャじゅうたんの裏のようなものでした。
しかし、人生の終りにそれをひっくり返してみると、主のみごとな絵が私の人生に描かれていました。」

いい言葉です。本当の希望、復活の希望に生かされた人の言葉です。

今日、バプテスマを受けた、Hくんも、Eくんも、これから長い人生。
きっとたくさんの嬉しいこと、つらいこと、苦しいこと、悲しいことがあると思うけれど、でも何も心配することはないですよ。大丈夫。

今日は、大、大、大先輩の、Mお姉さんも、いっていたでしょう。
「たくさんつらいことがあったけど、大好きな人が、先に天国に行ってさびしいけど、でも、イエス様を信じてきてよかった」って、みんなにお話ししてくれたでしょう。

エス様は、死から復活したのだから。
そのイエス様を、あなたたちは、知っているのだから。
エス様がいつも、いつまでも、一緒にいてくれるから、勇気を出して生きていこう。
なにも恐れることはないのだから、
聖書に書いてあるとおり、イエス様は、罪のために死んで、葬られたけれども、
ちゃんと、聖書に書いてある通り、三日目に復活したのだから。

なにがあっても大丈夫。
わたしたちも、最後はちゃんと復活しますから。
美しいペルシャじゅうたんのようにね。