受難日礼拝メッセージ

ルカ22章31節〜32節
「祈られていた」

金曜日の朝、十字架につけられた主イエスは、天の父に祈られました。

「父よ彼らをおゆるしください。自分がなにをしているのか、わからないのです」

自分がなにをしているのか、わからない。いったい、主イエスは、誰のためにいのってくださったのでしょう。

目の前でご自分を十字架につけたローマ兵、罵倒する民衆や指導者たちのためでしょうか?

もちろんそれもあるでしょう。しかし、本当はここにいるはずの、逃げてしまった弟子たちのためにも、祈ってくださったのではないでしょうか。

「たとえ、みんながあなたにつまずいても、決してわたしはつまづきません」

「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」

そう言い切ったペトロ。「一緒に死ぬことさえいといません」といったペトロは、今、十字架につけられている主イエスのそばにはいないのです。




自分は死んでもそんなことはしないと言いきった、決してあってはならないことを、してはいけないことを、「そんな人は知らない」と三度も主イエスを否認してしまった、あの時、

あの瞬間、

シモン・ペトロはきっと、自分はいったいなにをしているのか、なにをいっているのか、わからないまま、

必死になって、「あんな人など知らない」と、言っていたのでしょう。

鶏がなく、そのときまで、

鶏が鳴いて、「あなたは三度私を知らないと言うだろう」と言われた、主イエスの言葉を思い出す時まで、

彼は、自分が何をしているのか、なにをいっているのか、その深い罪が、わからなかった。

しかし、主イエスの言葉が、まるで鏡のように、彼の裏切る様を映し出したとき、彼は激しく泣きました。

本当の自分の姿に直面させられ、泣いたのです。

そんなペトロのためにも、いや、ペトロのためにこそ、十字架の上で、主イエスは祈られたのでしょう。

「父よ、彼らをおゆるしください。自分がなにをしているのかわからずにいるのです」


そして、この主イエスの祈りは、今もまた、本当の自分に気がつかないまま、

自分がしていること、いっていることが、神と人を悲しませていることが、わからないまま、

罪に縛られてしまっている、すべての人のための、とりなしの祈り。


ペトロは自分自身がどういう人間であるのか、ちっともわかっていませんでした。わかっていないからこそ、「わたしは決してあなたにつまづきません。知らないなどと言いません」といえたのですから。

ペトロが思い描いていた自分。「あるべき自分」

しかし、その自分の外側を飾っている、「あるべき自分」「見栄えのよい自分」は、サタンによって、小麦のようにふるわれたのでした。

主はそれをあえて許されました。ふるわれることで、ペトロが本当の自分と向き合うために。

自分は、あなたを裏切らない。見捨てない。躓かない。

結局は、主イエスではなく、そういう自分を、「あるべき自分」をこそ、ペトロは信じ、信頼し、頑張っていたわけだから。

そんな「あるべき自分」がふるわれて、揺らいで、こぼれおちて、自分で自分を支えられないことははっきりしたときこそ、はじめて、

神こそが、自分を支え、生かしてくださることに、その神への信仰へと目覚めていくことになるのだから。

弱く、罪ある自分の存在が、すでに主イエスによって赦され、祈られてきた、神に愛されている命であることに、その神の愛への信仰にこそ、目覚めていくために。

主イエスは、かつてシモン・ペトロにいわれたのです。

「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力つけてやりなさい」と


あるべき自分という仮面が外されて、主イエスを裏切っていく、その本当の自分に直面させられた、その心の痛みを知ることこそが、

やがてそこから立ち直ったときに、ほかの誰かを助け、励まし、力づける、宝となるのだから。

主イエスは、そのことをすべてを見通されるようにして、シモン・ペトロのために、すでに祈っていてくださいました

そして、十字架につけられた、あの時も、ペトロのため、すべての、自分がなにをしているのか分からずにいる、人々のために

赦しを祈ってくださったのです。

わたしたちも、この主イエスのとりなしの祈り。赦しの祈りに支えられることで、

本当の自分と向き合う勇気をいただけるのです。

失敗も、批判も、恐れることなく、弱く罪ある、本当の自分と、まっすぐに向き合う勇気をいただけます。


今の時代は、だんだんと、失敗をゆるさない、殺伐とした、厳しく余裕のない社会になってるようにみえます。

芸能人の浮気、経歴詐称。さまざまな不祥事に、新聞テレビ週刊誌が、激しく、しつこく、糾弾しつづける、時代です。

法を裁くのは、司法にまかせておけばいいのに、どうしても、失敗した人を、罪を犯したと思われる人に、言葉の石を投げずにはいられないのです。

あいつは、ひどい人間だ、うそつきじゃないか。偽善者じゃないか。やめさせろ、社会的に抹殺してしまえ。

そのような言葉の石つぶてを、自分はなげることができる。自分はあれほどひどくはない人間だと、石を投げつづけるのでしょう。

最近、ある有名なコメンテーターが、長い間経歴を偽り、活動していたことがわかって、騒ぎになりました。

裏切られた。信じていたのに、詐欺だ、犯罪だ。様々な人々、様々なことをいいました。

わたしは、その人のこと、擁護するつもりはないのです。できれば、最初から誠実に、本当の自分をちゃんと示して、偽らないで生きてほしいと、残念に思っています。

しかし、それではそういう自分は、本当に誠実に、本当に自分自身と向き合い、自分や周りの人に、なにもごまかすことなく、いきているかと、問われるなら、

「はい」とはいえるのだろうか。もしわたしは、100パーセント誠実だといえば、

心の中をすべてご存じの神の目には、「経歴偽証(さしょう)」に見えるのではないでしょうか。

ペトロがしてしまったことも、いうなれば、イエスの弟子であったという、経歴を、偽ってなかったことにしたのです。

あのコメンテーターも、ペトロも、そしてきっと、わたしたち一人ひとりも、本当の自分を、隠しながら、向き合わないままふたをして、

そして、一生懸命に、「あるべき自分」、見栄えのいい自分で飾りつけ、外からよく見えるようにと頑張っている。

それは、当初、クリスチャンを迫害していた、伝道者パウロもまた、そうだった。律法を行う自分、「あるべき自分」で、自分を飾り、

それゆえに、律法をないがしろにしているように見えた、クリスチャンを迫害さえしたのでした。

そのパウロも、やがて復活した主イエスに出会い、神の憐れみ、恵みがなければ生きられない、本当の自分に気づいてきます。

主イエスに出会う前、知らずにおこなってしまった。そんな自分は神の憐れみを受けたのだと、言いました。


わたしたちも、自分でも気がつかないまま、わからないまま、知らずに、虚構の自分を、「あるべき自分」を頑張って、演じてはいないでしょうか。

かつてのペトロのように、パウロのように

いつかは崩れゆく、砂の城のような、「虚構の自分」「あるべき自分」に、とらわれて、そんな自分であらねばと頑張り、信頼し、疲れ果ててはいないでしょうか。

そうであるなら、そんなわたしたちを、小麦のようにふるいにかけることを、主はゆるされることがあるかもしれません。

「虚構の自分」、「あるべき自分」を演じて、頑張っている自分が、ふるわれて、壊されて、

自分を守ってきた、偽りの飾りが、仮面が剥がされて、

隠されていた本当の自分が、弱さを抱え、罪を抱えて、痛んでいる、本当の自分が、あらわになった、そのところにこそ、


主イエスの十字架は、立っているのです。


主イエスが十字架の上で、赦しを祈っていてくださる、その十字架が、立っているのです。


たとえ、本当の自分というものが、自分自身でさえ、とてもとても、受け入れがたい、けがれたものであろうとも、

そのすべては、神によって赦され、受け入れられ、愛されている。

このすべてを知り、なお赦し、愛し、受け入れ、共にいてくださる神の愛は、


主イエスの受難、そして十字架によって、示されたのです。

この十字架の、神の愛によって、

わたしたちは、本当の自分を受け入れ、神に愛されている命として、勇気をいただいて、今の場所から、あらたに立ち上がっていけるのです。

主イエスは、ペトロにいいました。「立ち直ったなら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と


虚構の自分を脱ぎして、神に愛されている、本当の自分を取り戻したのなら、

でていって、あの人、この人を、その神の愛によって、力づけなさい。

あなたがどんなに失敗しても、弱くても、罪に縛られていても、あなたは神に愛されている。わたしもそうだから。わたしもその愛によって立ちあがったのだからと、


伝えつづけた、その先に、今、互いに励まし祈り合う集まり。この教会が、たっているのです。


主イエスは十字架の上で、その苦しみの中で祈られます。

「父よ彼らをおゆるしください。自分がなにをしているのか、わからずにいるのです」

この祈りを祈り、十字架の上で息絶えられた、主イエス

そして私たちは知っています。

天の父が、十字架から、三日目の朝に、

この祈りに、「しかり」「yes」と、応えてくださったことを。


祈りましょう。