使徒言行録12章1節〜19節
元日の礼拝で、お会いできなかった方もおられますから、最初に新年のご挨拶をいたしましょう。
「あけましておめでとうございます」
2018年が始まりましたね。今年は「主」が、どのような出会いと出来事を、わたしたちに与えて下さるか、期待しています。
そして、明日は成人の日ですね。今日の礼拝後のお昼ご飯の時間に、わたしたちの教会でも、ささやかな成人ののお祝いをします。今年は二人の男性の、成人のお祝いをいたします。
そのおひとりが、先日、こんなことを聞いてきたのですね。
「成人になって、なにかいいことありますか?」
そんな質問です。
「成人になって、なにかいいことがありますか?」
そういわれて、ちょっと答えに詰まってしまいました。
皆さんなら、どう答えますか。
お酒やタバコや、その他いろいろなことが自由になるよ、というくらいでしょうかね。
社会人としての、責任が問われるようになるよ、というのは、「いいこと」になるのか?
ちょっと、答えにくいというか、そんなこと、考えたこともなかったので、不意を突かれたわけです。
「成人になって、なにかいいことがあるのだろうか」
この質問は、今という時代を反映しているのではないでしょうか。
そもそも、こういう質問をしたくなってしまうほど、
「成人になる」とか、大人の仲間入りをする、ということに、期待がない。あこがれがない。
むしろ大変そうだなと、思わせてしまう時代なんじゃないかと。
「ああ自分も早く大人になりたい」とか
「自分もあんな生き方、素敵な大人になりたい」と
憧れたり、期待を抱く、大人の人と、なかなか出会えない
そんな時代なのかもしれません。
むしろ、満員電車で疲れきった大人の姿とか、
毎日見聞きしている、大人が引き起こしている、事件のニュースに接しているので、
「成人になって、なにかいいことあるのですか?」と、そんな質問も出てくるのでしょう。
つまり、こういう質問を子どもにさせてしまっている、先に生まれた大人の生き方が、問われているということなのかもしれません。
今日の夜から始まる、NHKの大河ドラマが、「西郷隆盛」を取り上げるのも、
今、人の生き方、大人としてのモデルを、求めているということなんじゃないかと、思うわけです。
先に生まれた人の生き方、生きざま、その姿を見て、
次の世代の人々が、よいものを引き継いで、次につなげていく。
「箱根駅伝」のように、この歴史は、1人の人だけで、完走するレースではなくて、
自分が走り終わったら、次の人にたすきを渡して、走り続けていく歴史だから。
自分も引き継いだ、たすきをかけて、ちゃんと最後まで走り抜いて、あとはよろしくと、次にたすきを渡す。
それは、「教会」の歴史も同じです。
今日、ここに至るまで、様々な人の人生があって、その先人からたすきを受け取って、今、わたしたちも、自分の走るべき区間を、走るために、今日、ここに集っているわけです。
この美しい会堂も、ある日突然天から降ってきたわけではなくて、最初に、小さな群れから出発して、数十年という歴史を走ってきた先に、この新しい会堂も建っているわけです。
主によって、沢山の人々の出会い、走りぬき、つぎつぎにたすきが渡され続けた、教会の歴史。
すべてのプロセスは、まさに、神の奇跡の歴史。
聖霊が導いてきた、神の歴史。
この神の歴史は、実に約2000年前の最初の教会から、続いているのです。
だからこそ、今日、わたしたちは、この最初の教会の物語である、使徒言行録を読むことに、意味がある。
この最初の教会と、私たちの教会は、無関係ではない。繋がっているのです。
この最初の教会から始まり、次から次へと、福音のたすきが渡されつづけ、この時代に、この花小金井で、先輩から受け取った福音のたすきを肩からかけて、
わたしたちも、この時代を自分たちの走るべき区間を走り抜きます。
次の時代へと、福音のたすきを渡すために。
この2018年も、前に進み続けます。
そのための、勇気と希望を頂くためにも、
最初の教会の走る姿を、わたしたちの原点を見つめましょう。
●本題
今日は、使徒言行録の12章の物語が読まれました。長い箇所でした。
最初の教会が、ヘロデ王という権力者から迫害を受けて、指導者のヤコブが殺され、ペトロも捕えられた出来事でした。
教会は、ここに至るまで、エルサレムから始まり、サマリア、そして異邦人へと、広がってきたのです。
神はイエスを復活させた。
主イエスは生きている。この主イエスこそ、あなたを罪から救うメシアとなられた。
この主イエスを信じて、救われなさいと、教会は「福音」を語り、信じる人々が広がっていきました。
しかし、この福音のたすきが、ユダヤからサマリア、異邦人の世界へと、受け継がれ、広がっていく神の物語は、
決して、順風満帆(じゅんぷうまんぱん)の、サクセスストーリーではなかったのだと、これを書いたルカは、ここに迫害の記録を書き残します。
主イエスの最初の頃からの弟子だったヤコブ。大切な教会のリーダーが、ヘロデ王によって殺されてしまうのです。
ヘロデ王。彼はローマ帝国にゆるされて、ユダヤの王様をしていた、傀儡の王です。
彼は民衆からの批判をかわし、ご機嫌を取るために、ヤコブを殺したのです。
いつの時代でも権力を持つ人は、自分への批判をかわすために、誰かを悪者にして、攻撃するものです。
ローマの大火事のときには、皇帝ネロが、クリスチャンのせいにして、民衆を煽って、迫害した歴史があります。
つい70年ほど前には、この日本でも、クリスチャンは、敵のスパイと疑われて、投獄されて死んでいった牧師さんもおられたのです。
これは、約2000年前ではありません。たった70数年前の話です。
ですから、このヘロデ王による、ヤコブ殺害の事件は、ただの昔話で片付けられるお話でもないのです。
残念ながら、繰り返し繰り返し、このような出来事を、教会は経験してきたわけですから。
しかし同時に、このあとに、同じように殺されるために捉えられたペトロが、
不思議な助けによって、救出されたような、
神にしかできないという、不思議な助けも、
歴史の教会は、様々な形で体験してきたわけです。
つまり、どうして神を信じる群れに、こんな悲しみが起こるのかという出来事と、
また同時に、人があきらめるしかない絶望的な状況から、教会は救われ、助けられるという、出来事も体験してきている。
その絶望と、絶望からの救出の、両面が、歴史の教会の物語に、繰り返しおこってきたわけです。
そういう意味で、このヤコブの殺害と、ペトロの救出は、比べるようなお話ではありません。
ヤコブの悲劇を忘れて、ペトロの救いという、ハッピーエンドの話だけにしてもいけないのです。
その両方が、最初の教会に、そしてどの時代の教会にも起こるのだと、ここから読み取りたいと思います。
ただ、ヤコブの殺害については、細かいことをルカは書かないので、これ以上はわかりません。
ただ、指導者のヤコブが殺されるという、信じられない出来事、大きな悲しみの涙が乾かないうちに、
さらにペトロさえも捕えられ、殺されようとしている。
この絶望的な事態に遭遇した教会は、
武器を手にとって、戦ったのではなく、
そうではなく、教会は、ペトロのために、熱心に祈った。
そうルカは報告するのです。
ヤコブが殺され、ペトロも捕えられた。
教会の大切な中心人物が、リーダーがいなくなってしまったとき、教会は力を落とし、「もうだめだ」とバラバラになって、解散してしまったのではなく、
むしろ逆に、お互いの心を一つにして、熱心に祈り始めたのです。
ピンチはチャンスということです。
教会は、カリスマ指導者のおかげで集まっていたのではないということです。
むしろ、自分たちをまとめるリーダーが不在になったときにこそ、一人一人の中で働いておられる聖霊、主イエスの霊の働きが、明らかになった。
それが、このリーダー不在の中での、教会の熱心な祈りの姿なのです。
このあと、ペトロは不思議な形で、牢獄から救われていきます。
2本の鎖でつながれ、しかも二人の兵士に囲まれて寝ていたペトロ。
さらに、牢屋の先には、第一、第二の衛兵所もあったし、最後には鉄の重たい門がまっていた。
つまり、ペトロは絶対に、自分で自分を救えない状況だったことが、強調されているのです。
まるで、映画のワンシーンのように、天使に言われるままに、ペトロは難関を突破していきます。
しかし大切なことは、当のペトロは、幻をみている状態。夢うつつだったことです。
気がついたら、外に出て、道を歩いていた。
つまり、神がどのようにペトロを救ったのか、ということは、ペトロ自身もよくわかっていないのです。
神の救いは、神のミステリー。神の秘め事。
人間には、神のなさることのすべては、わかりません。分からなくていいのです。
ただ、ペトロは、自分にいったい何が起こったのか、よくわからないけれども、
今、牢屋の外にいるということは、神が救ってくださったのだと、彼は告白した。ここが重要です。
ペトロは言いました。
「今、初めて本当のことがわかった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ」と。
死ぬはずだった自分が、今、ここで生かされている。
その事実を前に、ただの偶然だとか、自分の力でやったのだとか、そういう話ではなく、
これは神の救いだと、告白すること。
わたしは、きっとまだすべきことがあるから、生かされているのだと、
受け止めて、神の救いを告白した、ペトロの、この言葉は、
とても大切なポイントです。
わたしたちも、こういう劇的な出来事ではなくても、今日も生きていることは、決して当たり前ではない、神の奇跡と守りの内にあることに、気づくたびに、神様に感謝したいのです。
元日礼拝の次の日から、休暇をいただいたので、水曜日の日には、妻と車でちょっと遠出したのです。
目的地に着くまでに、ちょっとした峠道を走らなければならなかったのですが、
初めて走る道で、しかも裏道だったので、予想していたより、はるかに急勾配で、道も狭く、
おまけにだんだん、路面の端っこには、残雪が現れ、急に気温がさがって、雪もちらほら降り出してきたのです。
「まずい、この先は路面が凍結しているのではないか。ノーマルタイヤじゃ、この坂道は登れないぞ」
そう思いつつ、一方で「ここまできたのだから、もう少し行ってみよう。もうすぐ峠もおわるはずだ」
そういう思いが、激しく葛藤したわけです。
よく言いますね。山登りは、登る勇気より、降りる勇気だと。
あれは本当です。
やがて途中で、「ズリズリ」とタイヤが滑り始めたのです。
「これは本当に危ない」と思って、
狭い道をなんども、切り替えして、Uターンしました。
でも、凍結しているかもしれない道を、下っていくほうが、実は、もっと怖いのです。
もう、歩くくらいの速度で、冷や汗をかきながら、ゆっくりゆっくり降りました。
隣の妻に「お祈りしていてよ」と願いながら。
最後まで、タイヤがすべらず、狭い道路から飛び出して、転落しなかったので、今、私はここに立っているわけです。
ただただ「神様に感謝」です。
人の人生は、いつ、なにが起こるかわかりません。
まだ、すべきことがあるから、今日も、わたしたちは、生かされていることに、救われていることに、気が付かされるたびに、ペトロのように、「神が救ってくださった」と感謝したい。
ただ、最後に、この出来事の面白いところは、ペトロが救われて、祈っていた教会の人々のところに、姿を現したのに、祈っていた人々は、ペトロが返ってきたとは、信じられなかった、というところです。
ロデという女中さんが、「ペトロが門の前に立っている」というと
「あなたは気が変になっているのだ」とさえいいました。
ひどい話です。いったい何を祈っていたのかと、言いたくなります。
こういう、実に滑稽な、教会の姿、祈っていながら信じ切っていない、教会の信仰の姿を、これを書いたルカは、包み隠さず記した、その意味は、いったい何なのでしょう。
わたしはこう思うのです。
ペトロは祈られていたから助かったが、ヤコブは祈られていなかったので、殺されてしまったという、そういう理解にならないように、こんな滑稽な教会の姿を、不信仰な姿を、ここに書いているんじゃないかと、想像するわけです。
病の人の癒やしを願って、熱心に祈ることで、病が癒やされることもあれば、癒やされないこともあるわけです。
ペトロのために、熱心に祈ったので、ペトロは救われたとなると、殺されてしまったヤコブは、祈られていなかったから、殺されてしまったのかと、そんな話になってしまいます。
それは福音ではありません。
ここで命が救われたペトロも、やがては殉教するのです。
大切なことは、ヤコブの人生も、ペトロの人生も、それぞれに自分の人生を生き抜いて、次の人に福音のたすきを渡した人生だった、ということです。
むしろヤコブの死、そして、ペトロの投獄という、苦しみを通して、教会は熱心な祈りに導かれていった。
教会の底力(そこじから)とは、リーダーが不在の時の、信徒の祈りにあるのだ、ということなのです。
いざというときにこそ、
自分の力ではどうにもならない、状況に投げ込まれた時にこそ、
そんな仲間を支え続ける、祈りという宝を教会は持っている。
権力の横暴、暴力対する、教会の武器は、武力などではなく、この祈りという力。
このあと、ヘロデ王は演説をしていたとき、急死してしまうのです。
どんな権力も一時的です。
本当に恐れるべきなのは、天地を造られた神のみ。
本当に価値ある人生に、時間の長さは関係ありません。
早くに、殺されてしまったヤコブの人生も、
生き残って、しばらく福音を伝えたペトロの人生も、
ともに、イエス・キリストという、救いのたすきを、
次の人にわたしていくのだと、生き抜いた人生。
まるで、駅伝を走る選手のように。
そして、その選手を一生懸命応援して支える人々のように、
わたしたちは、互いの祈りに支えられて、
自分に与えられた人生のレースを走ります。
自分一人では走りきれない長いレースを、
自分も受け、そして、次の人へと福音をわたしていく、神の物語を、
この新しい2018年も、走り抜いていくのです。