「神は人を分け隔てしない」(2017年11月26日花小金井キリスト教会 主日礼拝メッセージ)

 今朝は、長い聖書の箇所が朗読されましたね。

実は、まだこのペトロとコルネリウスの出会いの物語は、この後も延々と続くのです。

ペトロが、このあとコルネリウスたちに主イエスの福音を伝えて、彼らが信じてバプテスマを受けるところまでが、この物語のすべてなのですが、あまりに長いので、今は前半だけを朗読したわけです。

これを書いた「ルカ」という人は、このペトロとコルネリウスとの出会いので出来事を、実に詳細に、長々と書き残しているのですね。

それは、この出会いの出来事が、教会にとって実に重要な出来事であったからこそ、ルカは長々と書いているわけです。


最初に、エルサレム、そしてユダヤから広まった主イエスの福音が、サマリアの町にとどき、そしてこの福音に敵対していたサウロさえ、回心させ、ついに、ユダヤ人の壁をこえ、異邦人へと、主イエスの福音が広まった、いわば世界宣教の最初の一歩として、記念すべき出来事であるからですね。


今日、わたしたちの教会が、国外に出て行った宣教師の方々のために、祈り、捧げる、世界祈祷週間礼拝を捧げるのに、この聖書の箇所は、実にふさわしい箇所と言えます。


そもそも、わたしたちも聖書の世界からいえば、異邦人なのですから。

ユダヤ教の信仰も、伝統も、文化も、神の祝福の約束も、なにひとつ、関係のなかった異邦人のわたしたちが、

今、この聖書の信仰の世界につながることができるのも、

神に愛されている平安と、喜びに生きることができるのも、

ユダヤから始まった、主イエスの福音が、異邦人のコルネリウスへと伝わった、この出来事があったからこそ。


今日は、この長い物語を、細かくたどる時間はありませんので、

いくつかのポイントだけを、心に留めたいと思っています。

さて、この「コルネリウス」という人は、カイサリアという海沿いの大きな町で、


おそらく、警護をしていた「イタリア隊」という部隊の隊長さんだったようです。


当然、ユダヤ人ではありません。むしろユダヤ人が反乱を起こさないように見張っている、ローマ帝国の側の軍人であったのに、


このコルネリオスと彼の家族は、なぜかユダヤ人が信じる神を信じ、しかもただ信じるだけではなく、「絶えず神に祈っていた」という、信仰の篤い人で、その信仰ゆえに、ユダヤの民に施しさえ、していたと、ルカは記しています。

その彼に、天使はこう語りかけます。。

「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられていると」

この部分から「ルカ」がわたしたちに伝えようとしていることは、つまり、

神は、ユダヤ人の中だけで働いておられるのではなく、異邦人のなかで、すでに働かれ、信仰をあたえ、祈りをあたえ、導いて下さっていたのだ、と言うことでしょう。

当時、ユダヤ人だけが神に愛され、神を知らない異邦人は、神に見捨てられているという、選民意識が強かったなかで、ルカは、そうではなく、神はすでに異邦人のなか働き、導き、信仰をあたえ、祈りをあたえているのだと、語るのです。


朝の教会学校で、今、イザヤ書を読んでいますけれども、何週かまえに、学んだ箇所で、バビロンに捕囚になったイスラエルの民を、バビロンから救い出すために、神様は、異邦人のキュロスを、用いられるという、イザヤの言葉を、学ばれたと思います。


すでにその昔から、神はユダヤの民の中だけで、働き、導いておられるではなく、この世界のすべての人々の中で、ユダヤ人も異邦人もなく、自由に働くのだということを、イザヤも語っていたわけです。



異邦人のコルネリウスのなかで、神はすでに働き、導き、ペトロと出会う準備を、はじめておられた。

この出会いは、徹頭徹尾、神が始め、神が導いておられる出会いなのだと、ルカは語っているのです。



一方、ペトロのほうは、カイサリアから南に60キロほどのヤッファという町で、祈っているときに、神様から幻を見せられます。

急に空腹を覚えたペトロの前に、天から大きな布のような入れ物が、四隅をつるされ、地上に降りてくる幻です。

その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていて、

天から「ペトロよ、屠って食べなさい」という声がしたのでした。


ペトロは言います。
「主よとんでもないことです。清くないもの、汚れたものは何一つ食べたことがありません」と

 ペトロはユダヤ人として、旧約聖書に記されている、律法(レビ記の11章)ですけれども、

そこに清い動物と、汚れた動物が、事細かに記されているのですけれども、この食べていいもの、いけないものという教えを、ちゃんと守って生きてきたわけです。

これを食物規定と言うのですけれども、一つ礼をあげるなら、

動物の、ひずめが割れていて、反芻する動物は清いから、食べてもいいと書いてあるのです。具体的には、牛や羊や山羊ですね。

一方、ひずめが割れていても、反芻しない動物は汚れているので、食べてはいけない。

豚や馬は、ひずめが割れているけれども、反芻しませんね。なので、汚れた動物として、食べられない。

なぜ、律法がそう定めたのかは、よくわかりません。ある学者は、衛生的な理由もあったんじゃないかと言いますが、よくわからない。

とにかく律法には、清い動物、汚れた動物が、明確に二つに分けられ、

神の民は、汚れた動物を食べないことが、清い神の民である証しであったわけです。

神の民の証としては、もう一つ、安息日を守るということもありました。ユダヤ人はそれこそ、命がけで安息日を守ったわけですけれども、もう一方、この「汚れたものを食べない」ということも、命がけで守ってきたわけです。

これは今に至るまで、熱心なユダヤ教徒の人々は、守っておられるようです。

わたしたちなんでも食べる日本人には、この食物規定を守る人の気持ちは、わかりませんね。

あえて例えるなら、豚肉を食べたら、汚れると信じていたペトロの目の前に、

突然、豚が天から降りてきて、屠って食べなさいと言われたわけですが、

普通に豚肉を食べるわたしたちには、これがどれほど驚くべきことなのか、どうしても実感が湧きにくい。

もしこれが、蛇の肉だったら、

「主よ、とんでもないことです」と叫んだペトロの気持ちが、すこしは感じることが出来るでしょうか?


もちろん、ペトロが叫んだのは、その動物が気持ち悪いからではなくて、それを口にしたら、神の前に自分は汚れ、神の民から切り離されてしまう。神に見捨てられてしまうと、信じていたからです。


清い動物と、汚れた動物がいて、汚れたものに触れると、神からも神の民からも、見捨てられるという考え。

ペトロは、復活の主イエスと出会っていましたのに、その主イエスを伝えていましたのに、その彼でさえ、ここでその枠組みから、抜けられないでいた。

清いもの、清くないものという二元論という枠組み。

それは当然、清い人間と、清くない人間という二元論となり、ユダヤ人は清く、異邦人は汚れているという考え方に、

主イエスと出会っていたペトロでさえも、まだ、とらわれていたのだと、ルカは語るのです。


ペトロはその枠組みから、自分の力では抜け出せなかった。

「清いもの」、「清くないもの」という枠組みから抜け出るためには、どうしても、天からのしめしが必要であった。



「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という、天からの言葉を、ペトロは聞かなければならなかったのでした。


ペトロは当初、この出来事が何を意味しているのか、よくわかりませんでした。

しかしこのあと、異邦人のコルネリオの一行と出会う中で、

「ああ、あの幻は、どんな人も清くない者とか、汚れている者とか言ってはならない」という、神の啓示であったことに、目が開かれていきます。

「神は人を分け隔てなさらない」のだという、驚くべきことに、ペトロの目は、次第に開かれていくのです。


これは、今時の言葉で言えば、「パラダイムシフト」をペトロは経験したということです。

今まで信じてきた、清いもの、汚れたものという、枠組みで、この世界をみる。

そういうパラダイムを、神は壊され、新しくなさった。

もはや神は、清い人、清くない人と、「人を分け隔てなどなさらなくなった」のだ。

それこそが、主イエスが、人の罪を背負って十字架に死に、復活し、

全ての人の救い主、キリストとなられたということの意味であることを、ペトロは悟っていくのです。、


ユダヤ人が、異邦人のことを、なんと言おうと、彼らを神は、清めたのだ。

神が清めたものを、人が清くないと言ってはならない。

主イエスが実現した福音とは、

実に「全ての人を、分け隔てなさらない神の愛そのもの」であったことに、ペトロは気づいていくのです。


この、すべての人が、垣根を越えて、共に生きるようにと、主イエスの名によって、招く。

それが、福音を伝えるということ。福音宣教であることに、ペトロの目は開かれていくのです。


このコルネリウスに福音が伝わり、回心するという出来事は、


実は、むしろコルネリウスの回心であるよりも、

ペトロのほうこそが、新しく福音の奥義に、回心させられたという、出来事だった。

自分の思い込み、勝手な価値観、偏見が砕かれ、

ペトロこそが、ここで回心しているということに、気づくのです。

そして、このペトロにおこった出来事は、わたしたちにも起こりえることでしょう。

すでに主イエスをしり、福音を知っているわたしたちもまた、

かつてのペトロがそうだったように、「人を分け隔てしない、神の愛」を、本当に自分のこととして、知り味わうには、

どうしても、わたしたち、一人一人が、自分にとっての、「コルネリウス」との出会いが、必要だから。

ペトロは、異邦人であるコルネリウスを出会うことで、「神は人を分け隔てしない」ことを、知ったように。

わたしたちにとっても、自分には受け入れがたい人との出会いへと、神はわたしたちを導き、

共に生きるようにと、導かれることがあるでしょう。

そういう出会いが与えられることは、正直しんどいことです。チャレンジです。逃げ出したくなることもあるでしょう。


できれば、自分にとって心地よい人とだけ、出会っていたい。

でも、神に愛され、神に導かれていく教会は、神に愛されているからこそ、きっとしんどい出会いや、チャレンジをいただくのでしょう。

ペトロが、コルネリウスと出会わされたように。そういう出会いをいただいて、全ての人を愛する神の愛を、証するようにと、神は教会をたてられるのでしょう。



最近ある方から、クリスチャンジャーナリストのフィリップヤンシーという方の本を頂いて読んでいたら、こんな文章に目が留まりました。

「社会からはじき出された人たちを支援している、シカゴの友人から聞いた話しです。
悲惨な状況に陥った娼婦がやってきた。ホームレスで健康状態も悪く、二歳になる娘に食べ物を買うことさえ出来ずにいた。麻薬を買う金欲しさに、たった二歳の娘を、変態の男たちに貸し与えてきたと、涙ながらに告白した。友人は耐えがたい思いをしながら、卑劣(ひれつ)な話を詳しく聞いた。かける言葉も見つからず、黙ったまま座っていたという。

やっとのことで、教会に助けを求めようと考えたことはありますか、と尋ねた。

「彼女の顔をよぎった、あの純粋な、驚愕の表情を忘れることはないだろう」と、後に彼は言った。

「教会ですって」彼女は叫んだ。「あんな場所、いくもんですか。今よりもっとひどい気持ちにさせられるだけよ!」

どういうわけか、私たちは教会の中に立派な人々のコミュニティーを作ってしまったようだ。人生や社会からはじき出された人たちは、イエスが地上にいた時、その周りに集まっていたのに、今ではもはや歓迎されていると感じていない。

今、イエスに倣おうとするわたしたちを妨害しているものはなんなのか・・・」

そう彼は問いかけます。

異邦人もユダヤ人も、もはや、神は人を分け隔てなさることなく、愛し、救われるのに、

ペトロが悟ったこの福音の希望をしりながらも、いつのまにか、人を分け隔ててしまうことがあるでしょう。


新約聖書に、ヤコブの手紙というものがあって、その2章に、教会に向けて記された、こんな言葉があります。

「わたしたちの兄弟たち、栄光に満ちた、私たちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。
あなた方の集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入ってくるとします。
その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」というなら、あなたがたは、自分たちのなかで差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。

私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛するものに約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。・・・」

残念ながら、最初のころの教会においても、この人をわけ隔ててしまうことから、なかなか自由になれなかったのです。

それは、すべての時代の教会が抱えている葛藤でしょう。わたしたちもきっと、そうでしょう。

そして、かつてのペトロもそうだった。みんなそういう弱さを抱えて生きているのです。

だからこそ、あらためて今日、このペトロが悟ったことを、

「神は人を分け隔てなさらない」という、この福音の神髄に、今日新たに、立ち返りたいのです。

この世界が、ますます、互いを分け隔てては壁を作って、争っていく道に歩もうとしている、この時代に

なお、神は人を分け隔てせず、すべての人を愛し、救うという、

この福音を信じ、この福音にいきる教会となっていきたい。

もはやユダヤ人も異邦人もなく、貧しいものも豊かなものもなく、

だれもが神に愛され、赦され、救われたひとりひとりとして、

共にいきていける、神の国の喜びを、体験し、証したい。


それは決して、わたしたちの努力では出来ないことです。

そうではなく、神の助けと導きの中でのみ、与えられる奇跡。神の恵み。

ペトロとコルネリウスが出会ったのも、

コルネリウスの人徳や、ペトロの努力ではなく、

コルネリウスが、熱心に神に祈っていたからであり、

ペトロも神に祈っていたときに、幻を見たのです。

祈りを通して、神がこの二人を出会わせ、互いの壁を乗り越えさせ、

共に生きるものとしてくださった。

これこそ、ルカがこの長い長い物語を通して、伝えていることです。

天使は、コルネリオスにいいました。

コルネリウス、あなたの祈りは聞き入れられた」のだと。

この出来事は、コルネリウスの祈りが聞き届けられた出来事。

人間にはとうてい実現できない、互いの間の壁を、乗り越え、出会わせた奇跡の背後に、

この二人の、篤い祈りがあったことを、最後に覚えたいと思います。

世界宣教は、人間の努力によって実現できるものではないのです。

文化や宗教をさえ越えさせて、互いに出会わせ、共に生きるものとさせる力は、

祈りのなかにある。

わたしたちには、この祈りという賜物が、希望が与えられています。

私たちのバプテスト連盟から、国外に遣わされた宣教師の方々が、

幾多の壁を乗り越えて、本当の意味で、現地の方々と共にいき、主イエスの福音を伝えるために、

神の、人を分け隔てしない愛を伝えるために、

神が彼らを助けてくださるようにと、心から祈りたいと思います。


最後に、「ジェームスフーストン」という神学者の、祈りの言葉を、ごご紹介して、メッセージを終わります。


「主よ、私の目にこの人が、あなたの目に映るのと同じようにかけがえのない存在として映るそうに助けてください。

あなたはこの人のために死に、この人と、友としての交わりを、永遠に続けたいと切望されるほどに、この人を愛しておられます。

あなたの聖霊の助けなくしては、この出会いを意味あるものとすることは出来ません。
あなたの臨在の中で、他者に親切で、相手の独自性を尊重し、共に人間であることの神秘に、畏怖する者となれるよう、わたしをお助けください」

「神は人を分け隔てなさらない」

この希望を、福音を、

異文化へと出ていき、伝え、生き抜いている宣教師の方々とともに、

わたしたち自身も、自分が生きている現場で、体験し、証したいのです。