使徒言行録8章26節〜40節
今日、教会の建物に入ったとき、においませんでしたか。バーベキューの。
昨日、晴れ渡った空の下で、教会の入り口付近で、肉を沢山焼いたときに、煙が会堂にもはいりましたからね。
昨日、来られなかった方は、匂いだけでも味わってくださいね。
昨日のバーベキューで嬉しかったのは、小学生の息子の友達が、ひとり、来てくれたことでした。
今、地域の子どもたちが、教会にやってくる機会が、なかなかなくなってしまいましたからね。うれしいことです。
2年前から、月に二回、土曜日に、小学生の子ども会「はれるやキッズ」を始めましたけれども、
看板を出したからと言って、すぐに地域の子が来るもんじゃないですね。
前回の「はれるやキッズ」は、いつも日曜日の朝に、受付に立っているOさんが、子どもたちに勉強を教える会をしてくれましたけれども、この前は、わたしの小学生の息子一人だけでした。
でも約2時間、みっちり彼に付き合ってくれて、彼がこの礼拝堂の正面の上に、登ってみたいというので、登らせてくださったみたいです。また、一緒にレゴで家を作ったり、その作品が、教会の入り口に飾ってあったんですよ。
お気づきでしょうか。
彼だけは、この「はれるやキッズ」をとても楽しみにしているわけです。そして、その彼が友達をバーベキューに誘ってくれたり、次の「はれるやキッズ」に誘ってくれているわけですね。
教会は、1人が大切にされることで、その喜びが広がっていく現場なんですね。
福音書を読みますと、イエスさまも一人の人との、パーソナルな出会いを大切になさっています。
弟子たちを招く時も、ひとりひとりに声をかけられましたし、ニコデモとか、サマリアの女性とか、ザアカイなど、個人的にイエス様に出会うことで、変えられていった人が、何人も出てきますね。
そのイエスさまが、今、わたしたちのなかで、目には見えない聖霊として、働いてくださっています。
だから、わたしたちも一人一人との出会いを大切に、神様の愛を分かち合っていきます。
さて、先ほど朗読された、「使徒言行録」は、ルカという人が記した、最初の記録であり、聖霊が働いておられることを「証」する物語です。
聖霊の働きとか導きというと、なにか大きな出来事や奇跡のようにイメージしなくてもいいのです。それは人間が勝手に期待している、聖霊に対する願望でしょう。
聖霊の導きというものは、むしろ、そういう人間の思いや願望、知恵や理屈を越え、
まるで秋の風に吹かれる枯れ葉のように、右に左に自由に動かされるものでしょう。、
人間の思いにとどまらず、わたしたちを解放し、神の御心へと、自由に導かれるのが「聖霊」の働き。
今も生きておられる、主イエスの霊の働きです。
今日の聖書の箇所も、伝道者のフィリポを、まるで風に吹かれる葉っぱのように、あちらへ、こちらへと、吹き飛ばす聖霊の働き、聖霊の導きの出来事が記されていました。
26節
「さて、主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道へ行け』といった。そこは寂しい道である。
「天使」というと、おとぎ話のようなイメージを持ちやすいですが、神のメッセージを伝えるのが「天使」ですから、
別に背中に羽などいらない。神は、わたしたちのような普通の人々を使って、神のメッセージを語らせることもあるでしょう。
その時、わたしたちも、天の使い、天使の役目をしている。
今も、そういうことがあるんじゃないでしょうか。人を通して、神がわたしたちに語りかけていることが、きっとあるでしょう。
ですからむしろ大切なのは、人を通して聞こえてきた言葉の中から、神の言葉を聞き分ける、感性とか霊性なのです。
神様は、ちいさな1人の子どもを通してでも、大切なことを語っておられるかもしれないのですから。
大切なのは、だれが語ったかよりも、聞こえてきた言葉のなかに、神からのメッセージを聞き分ける感性、霊性。
フィリポは、その感性と霊性が鋭かったからこそ、聞こえてきた神の言葉にすぐに応えて、行動いたします。
さて、先週の礼拝では、この少し前の箇所を読みました。
そこに書かれていたのは、フィリポの伝道が、サマリアの町において、大成功していたことだったわけです。
魔術師さえうらやむような、奇跡や病の癒やしをしながら、フィリポが伝えた、福音を、町の人々はとても喜び聞いて、バプテスマを受けてクリスチャンになる人も、沢山いた。
伝道者としては、大成功です。そこで、このフィリポさんを牧師にして、このサマリアの町に、1000人くらいの大きな教会をたてて、サマリアに住む人が、全員教会にやってくるくらい、伝道しましょう。
なんて、大きな話になってもよかった。人間の考え、経営方策とか営業プロジェクトなら、そういうことになるでしょう。
しかし、聖霊の風は、そんな人間の思いにとらわれずに、自由に吹いて、人を運んでいくのです。
フィリポはその聖霊に吹かれるようにして、大成功したサマリアの町から、突如、約100キロほど南に下った「ガザ」に行くようにという、神様からのメッセージを聞きます。
「そこは寂しい道である」と書いてありますように、当時そこは荒れ果てていた場所だったようです。
今、サマリアでうまくいっているのに、ここを離れて、荒れ野に行けと語られる言葉。
その言葉を、神からのメッセージとして、フィリポは聞き取ります。するどい感性です。
今も「ガザ」という地名は残っていますね。「ガザ地区」といえば、イスラエルとパレスチナの紛争のために、難民にあふれている場所。そういう意味で、現代も「荒れ野」といえます。
約2000年前の「ガザ」という場所も、繁栄の場ではなく、荒れ果てた場所。なんの良いことも、可能性も、見込みもない場所。
その場所にフィリポは、成功していたサマリアを離れ、聖霊によって導かれていきます。
それは、たった一人の人に出会うためだったのです。
その人に、ただイエスさまを伝えるという、そのことのために、彼は聖霊の風に吹かれて、「ガザ」に飛ばされたのでした。
しかし、そこに出会うべき人がいることを、最初からフィリポはわかっていたわけではないわけです。
理由などわからないまま、ただ声に導かれて、一歩踏み出した。「すぐに出かけていった」ということなのです。
もし、理由が分からなければ、動けないというのなら、彼は一歩も前には進めなかったはずです。
神が用意し、招いてくださっている出会いや出来事は、よくわからなくても、言葉を信じて、一歩踏み出してみて、、はじめてわかる。体験する、ということでしょう。
「ガザ」に出かけていったフィリポは、そこで「たまたま」一人の男性と出会うのです。
エチオピアの女王の、全財産を管理していた、最高級の高官です。
今で言うなら、国家の財務長官でしょう。
このエチオピアは、現在の「エチオピア」と同じ国ではありませんが、大体、今のエチオピアのあたりにあった古代の国だったようです。
いずれにしろ、イスラエルの地からは、2000〜3000キロほど南に離れている遠い遠い国。
「エチオピア」という言葉を聞くと、マラソンの「アベベ」を思い出しますか。
その方は、わたしより年齢が上ですね。ローマオリンピック、東京オリンピックで、金メダルを2連覇した
「アベベ・ビキラ」は、エチオピア出身。彼は裸足で走ったのですよね。
現代のエチオピアは、世界の最貧国の一つと言われます。しかし、聖書の時代のエチオピアは、巨大なエジプトさえ凌ぐほどの、強国のようでした。
その強国の財務長官が、なぜ数千キロの旅をして、一人エルサレムに神を礼拝しに来たのか。
なにが彼を、そうまでさせたのか。様々な想像が浮かびます。
財務長官といっても、彼は宦官だったのです。権力の中枢にいるために、去勢させられていたのです。
当然、自分の家族を持つことはできなかったわけです。
金も権力もあったでしょうが、家族もなく、女王の命令には絶対服従の人生に、彼は生きる喜びがあったのだろうかと、想像は膨らみます。
当時ユダヤ人は、世界各地に居住していました。そして聖書(旧約聖書)、も、当時の世界の共通語であった「ギリシャ語」に翻訳されたものもありました。
エチオピアの宦官は、国の高官でしかたら、当然高い教養を身につけていたでしょう。なんらかの手段で、聖書を手に入れることもできたでしょう。
そして、彼は、天地を造られた神こそが、神であると、信じる人となっていたのでしょう。
そうでなければ、何千キロもの長旅をして、エルサレムにまでやってきて、神を礼拝するはずがないからです。
それほどまでに、神を求める思い。彼の心の渇きを、想像させられます。
しかし、そうまでしてやってきた、エルサレムの神殿での礼拝で、
彼は求めていた神ご自身に、出会えたのでしょうか。
神との出会い。その喜びを、エルサレムの神殿で彼は、体験出来たでしょうか?
なぜそんなことを言うのかと言うと、異邦人は神殿の奥まで入ることができなかったからです。しかも、ユダヤ教の律法には去勢されたものは、主の会衆に加わることが出来ない、礼拝できないという規定さえあったからです。
神を求めて遠くやってきたのに、神殿の奥に入れない。
そして、おそらく当時のユダヤ教の宗教指導者による礼拝は、形骸化、形式化し、カタチだけになっていた。
活き活きした信仰の喜びのない、礼拝をしていた。イエス様が、神殿を批判なさったのも、そこに原因があったわけです。
そんな神殿での礼拝に、彼は幻滅し、がっかりしつつ、エチオピアに帰る途中だったのかもしれません。
彼はその帰りの馬車のなか、さびしい荒れ野の「ガザ」の地で、一人イザヤ書を朗読していたのです。
わたしは想像します。期待にあふれてやってきた神殿での礼拝で、満たされないまま、
しかし、諦めきれずに、なお聖書を読みながら、自分の国に帰ろうとしている、そんな彼の心の渇きを、想像します。
そんな彼の心をすべて知っておられる主は、聖霊は、フィリポを遣わしました。
そしてフィリポに「読んでいることがお分かりになりますか」と、声をかけさせました。
宦官は答えます。
「手引きをしてくれる人がなければ、どうしてわかりましょう」と。
彼はわからないまま、読んでいたのです。わからないけれども、でも、読まずにいられずに、読んでいたのです。
彼が読んでいたのは、イザヤ書の53章の、「苦難の僕」の箇所でした。
「彼は、羊のように屠り場に引かれていった」と始まる、この苦難の僕とは、誰のことなのか。
宦官はわからない。イザヤ自身のことなのか、だれかほかの人のことなのか。
どうぞ教えてくださいと、心を開いて、フィリポに尋ねたのでした。
フィリポは口を開き、聖書のこの箇所から説き起こして、イエスについて福音を告げ知らせます。
その苦難の僕とは、わたしたちの罪のために、羊のように屠り場に引かれ、十字架の上で死なれ、復活したイエスなのだと。
イエスこそ、あなたが神を求めて求めてやってきた、その神と繋ぎ、あなたを救う、メシア、キリストなのだと。
フィリポは「福音」を説きました。主イエスこそあなたが求めている心の求めを、満たす方。
救い主。福音であると。
このエチオピアの宦官は、心の目が開かれ、フィリポの言葉がわかったのです。
何千キロもの旅をしてでも、どうしても出会いたい。求めて求めてエルサレムまでやってくるほど、神に捕らえられ、導かれてきたからこそ、
フィリポの言葉が、まっすぐに彼の心に届いたのでしょう。
彼は道を行くうち、見つけたオアシスで、躊躇することなくバプテスマを受けます。
バプテスマを受けた彼は、「喜びにあふれて、故郷への旅」を続けました。
フィリポは、この彼の喜びに仕えるために、聖霊によってこの場所に導かれたのです。
地位も名誉も金もありながら、それでは満たされない心の欠乏感、飢え渇きのゆえに、
神を求めて求め続けた、この宦官の、喜びのために。
ひとりの人が、喜びに満たされて、その人生の旅を歩み続ける、そのために、
聖霊はフィリポを遣わしました。
そして、働きが終われば、また別の場所へと、風に吹かれるように、フィリポは遣わされていくのです。
わたしたちも、それぞれに神の風に吹かれて、ここに集ってきました。そしてまた、風に吹かれるようにして、ここから出かけていきます。
さて、クリスチャン作家の、三浦綾子さんが、「夕あり朝あり」という本を書いています。
白洋舍というクリーニング会社を創業した、五十嵐健治さんの伝記です。
彼は若い頃、だまされて働いた、北海道のタコ部屋から脱走して、朝から一日かけ、飲まず食わずで小樽にたどり着いたのです。
彼の故郷は新潟です。でももう故郷の新潟へは帰れない。ここで自殺しようと考えた。
その前にはるか越後を眺めたいと、坂をあがっていくと、そこにたまたま、宿屋があった。
金もなく、汚れた姿の五十嵐さんは泊まることはできないと思ったけれども、
たまたま臨時に働いていた女性が、どうぞと入れてくれたのです。
五十嵐青年は、「金がないから、働いて返す」と頼み込みます。
宿屋の掃除をしていると、病気で寝ていた宿屋の主人の枕元に、漢文訳の「聖書」がたまたま置いてあった。
それを借りて読んでみたけれども、まるでエチオピアの宦官のように、聖書に書いていることが、さっぱりわからない。
すると宿屋の女主人が「クリスチャンの旅の商人が、二階に泊まっているから、その人に聞いてみれば」と言ったそうです。
たまたま、印刷関係の仕事で、北海道を回っていた中島という人が泊まっていた。
五十嵐さんは、中島さんと出会います。
熱心なクリスチャンの中島さんは、五十嵐さんの求めに従って、聖書を解き明かし、福音を語ったそうです。
中島さんの言葉は、五十嵐さんの心に響いたのでしょう。
その後、小樽市内を二人で歩いていたとき、ある劇場の前に、たまたま大きなつるべ井戸があった。
そこで、あのエチオピアの宦官がしたように、五十嵐青年はふんどし一本になって、中島さんからバプテスマを受けたのだそうです。
こういうことが、現代にも起こるのですね。いったい、何回「たまたま」ということが、起こったことでしょう。
人と人とが出会いとは、「たまたま」としかいえない出来事の連続。
この「たまたま」としか表現しようのない、人間のコントロールを越えた「たまたま」としか言いようのない出来事中に、実に聖霊の導きがあるのではないですか。ただ、わたしたちの感性が、霊性が鈍くなっていて、わからないことがおおいのではないですか。
実は「たまたま」と思っていたことの多くはは「たまたま」ではなかった。
聖霊はいつも、わたしたちに語りかけ、心に働き思いを与え、神の働きをすすめておられる。
それをパウロはこう表現しました。
「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」と。
サマリア町で伝道に成功したフィリポを、人のいない寂しい荒れ野へ導いたのも、
何千キロもの道のりを旅させるほど、エチオピアの高官の心に、神への飢え渇きを与えたのも、
そして、そんな人と人とを出会わせ、救いの喜びを、実現させるのも、
人間の思いを遙かに越えた、神の業、聖霊の導きによる奇跡。
一人の人がイエスさまを信じて、救われることは、決して決して小さな出来事ではないのです。
100匹の羊のなかで、1匹が迷ってしまったなら、99匹の羊をそのままにして、まよった一匹を探し続けずにはいられない、よい羊飼いだから。
そして、見つけたなら、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と、喜ばずにはいられないイエスさまが、
今、わたしたちのなかに、聖霊として生きて働いておられるから。
わたしたちも、目の前の一人の人に、主イエスのことを、福音を語るものとされるでしょう。
フィリポのように、中島さんのように、一人の人と出会わされ、その一人の人に、証を、福音を語るようにと、導かれることがあるでしょう。
ある外国の砂浜で、潮の満ち引きの関係で、あるとき何千匹ものヒトデが打ち上げられる時があるそうです。打ち上げられたヒトデは、やがて太陽が照りつけて、暑さのために渇いてやがて死んでいく。
そのヒトデを、一匹一匹つまみ上げて、海に投げ込んでいる小さな男の子がいました。それを見た通りがかりの男性は、言ったのです。
「ぼうや、君がしていることはよくわかるよ。でも、ヒトデは何千匹もいるし、この砂浜は何キロも続いている。ぼうやがしていることで、なにか大きな違いが生まれるのかな」
そういった。その男性に男の子はいいました。
「わからないよ、でも、この一匹にとっては、大きな違いじゃないのかな」
このエチオピアの高官が、このあとエチオピアに帰ってどうなったのかは、わかりません。ただ、一つ言えることは、彼は「喜びにあふれて旅を続けた」ということです。
自分に福音を語り、バプテスマを授けたフィリポがいなくなっても、その喜びは消えてなくならなかった。
聖霊によって、イエスの福音がわかった。主イエスが、どこにいようと、自分と共におられることがわかった喜び。
この喜びは、たとえ試練の中にあっても、孤独の中にあっても、奪い去られない喜びとして、彼の人生の旅を、支え続けたことでしょう。
エチオピアという国には、今でも「コプト教会」という、キリスト教の一派が強く残っているということも、考えてみれば、不思議なこと、聖霊の導きでしょう。
一人の人が主イエスを信じて救われる出来事。それは、人間の目には、小さく、取るに足らない出来事に見えても、
神の目には、実に大きな喜びであり、人の思いを遙かに越えて、良いことが実っていく、聖霊が導き働かれた奇跡。
神の業。
今日、主イエスの福音を聞いたわたしたち、ひとりひとりのなかで、
聖霊は確かに働いておられ、
わたしたちひとりひとりを通して、神の国の、よい実りを、
この世界にもたらしておられるに、違いないのです。