「神になにを祈りもとめるか」(花小金井キリスト教会4月17日主日礼拝メッセージ)

shuichifujii2016-04-17

ルカによる福音書11章1節〜11節

 この朝、命を守られて、それぞれの生活を歩んできた一人一人を、天の神がこの場へと招いてくださいました。
そして、今、九州の方々を覚えて、わたしたちは主の憐れみと平安を祈ります。祈りを聞いてくださる方を信じて、祈ります。
また、ここに集ったお一人お一人も、愛する家族を天に送られた方、身近な人の病に心傷めている方、さまざまな問題に悩んでおられる方、心が渇いておられるかた、失望し、落ちこんでおられるかた、
さまざまな人生の、今を生きる一人ひとりが、この日曜日の1時間、心を合わせるためにこの場に集っています。
その一つのこと。神を礼拝するために。
神の言葉が語られ、聞かれ。神への賛美、そして証、祈りを捧げるために、ここに集まっています。

わたしたちも、だれも明日のこと、生きているかもわからない、限界ある一人ひとりです。

自分の人生は、今までも、これからも、自分の意志と努力で切り開いていくのだと、思いたいとしても、

良く考えてみれば、誰一人、自分の命を、自分の意志と努力で、生み出した人などいないのですから。

なぜ、今の時代、この日本に、今の家族に生まれてきたのか、だれもわからない。

すべての出会いと賜物は、自分の意志と努力をこえたところから、与えられました。

そのすべての恵み、命を与えたお方を、わたしたちは主よと呼び、礼拝します。

主の言葉を聞き、そして、わたしたちは、祈ることで、主に語りかけます。

祈りは、主なる神とのコミュニケーション。交わり。

ならば、その人の祈る姿、祈る言葉に、その人の信じる神のイメージが、自ずと表れてくるでしょう。

電話をしている人の言葉や、話しぶりで、電話の向こう側の人が、友達なのか、家族なのか、上司なのか、なんとなくわかるのと似ています。

祈りとは、ある意味、主なる神との電話です。電話をつなぐ交換手は主イエス。主イエスの名によって、わたしたちは、神に祈るからです。

「祈り」の本質は、神との交わり。コミュニケーションにあります。

さて、先ほど朗読された、ルカの福音書11章の冒頭。祈っておられる主イエスと弟子たちが登場してきました。。

1節
「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子たちの一人がイエスに、『主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った。

のでした。
エス様の祈る姿をみていた弟子たちは、自分たちにも祈りを教えてくださいと願います。

まさか、弟子たちは、一度も祈ったことがないわけがありません。まったく祈りを知らない訳ではないはずです。

ユダヤ人であるなら、毎日祈りの言葉を唱えていたはずですから。

わたしたちクリスチャンも、食事の前に祈ることは、習慣となっているように、祈りは生活の一部、習慣であったはず。

なのに彼らは、主イエスの祈る姿を見て、「祈りを教えてください」と願わずにはおれなかったのです。

 自分たちが知っていた祈り。習慣的な祈りとは違う祈りを、そこに感じたからでしょう。「祈りを教えてください」といわずにはおれない、なにかが主イエスの祈りにはあった。

たとえば、今日の個所の、少し前の個所、10章21節に、主イエスの祈りが記されています。こんな祈りです。

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者におしめしになりました。そうです、父よ、これは御心にかなうことでした。すべてのことは、父からわたしに任されています。父のほかに、子がどういうものであるかを知るものはなく、父がどういう方であるかを知るものは、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」

たとえば、こういう主イエスの祈りを、弟子たちは聞いていたわけです。天地を造られた大いなる神に向かって、「父よ」と主イエスは呼びかけている。

神を「父」と呼ぶ祈りは、旧約聖書にもないわけではないのです。でも、その「父」という言葉のイメージは、威厳とか、力をイメージしてのことです。

ところが、この主イエスの祈りは違います。そういう威厳とか強さではなく、親と子の、深い信頼関係を表現している呼びかけとしての「父」なのです。

祈りの中に、神との愛と信頼関係が、にじみ出ている。

そのように、天地を造られた偉大なる神を、「父」と親しく呼んで祈る祈りに、弟子たちは驚いた。今まで聞いたことのない祈り。自分たちが知らなかった、神との関係、交わりに生きている、主イエスの祈りを、教えてほしいと願った。

その願いに応えて、主イエスが教えてくださったのが、今に至るまで教会において祈らえてきた、「主の祈り」のもととなった祈り。

今日は、この「主の祈り」について、一つ一つ細かく説明はいたしません。

ただ今日はいくつか、ここから大切なメッセージを受け取っていただきたいのです。

その一つは、この主イエスが教えてくださった祈りは、最初に「父よ」と神を呼び、そして、その父である神のために、祈ることから始まっている祈りなのだ、ということです。

御名が崇められますように。御国が来ますように。そう祈り始めている。

これは、神が神として、天の父が天の父として人々から崇められ、

天の父の愛の心が、この地上に実現してほしいと願う、天の父のための祈り。

天の父を思う、神の子の祈りから始まっている、ということです。

自分の親がけなされ、馬鹿にされて喜びを感じる「子」はいないでしょう。それでは、その「関係」にはなにか問題があるわけです。

天の父の名が、親の名がけがされないようにと願う。崇められてほしいと願う。

それは、神とわたしたちが、親と子の愛の関係にあるからこその祈り。

さらに、御国がきますようにといのるのも、

父である神のその思いが、実現する国が、神の子たちが共に平和に生きる、国がくることこそ、天の父の御心だから。

その父の思いを、自分の思いとして祈り願う。

そういう父なる神を思う祈りが、まずあって、続いて神の子たちが、父への信頼をこめて、願う祈りが続くのです。

わたしたちの日々の糧をあたえ、罪の赦し、誘惑、試練からの守ってくださいと、子が父に願う祈りがつづくのです。

祈り。それは、神に対して、自分の要求を突きつけるだけの、相手の人格無視の願い事ではありません。

だれかと会話をしているときに、ただ一方的に自分の話ばかりする人と一緒にいるのは、楽しいことでしょうか。


今話している目の前の人に、何の興味もなく、その人が、一体なにを考えていて、なにを求めていて、何を願っているのか、そんなことはどうでもよく、

ただ自分の言いたいことだけを一方的に話して、すっきりして帰っていく。


わたしたちは、そんな祈りを、神様にしてはいないでしょうか。

人と人との関係においても、まず、相手を思い、相手の話に耳を傾け、相手の思いを、願いを聞き取ろうとするところに、

お互いへの愛の関係が、育っていくものでしょう。

神様に向かって、「父よ」と呼ぶ、わたしたちの神様との関係もそうであるはずです。

子は、まず父を思い、祈る。御名があがめられますように。御国がきますようにと祈る。

そういう愛の関係の上にたって初めて、神様に向かって、まっすぐに遠慮なく、心から信頼して、自分の必要を、聞いていただく。

そこには、遠慮もおそれも必要ありません。

すでに、わたしたちの罪は、神をおそれ、神から離れていた罪は、主イエスの十字架によって、贖われ、

わたしたちを神の子とされているのだから。

今、神様をおそれることなく、父と親しく呼ぶ子とができるのは、主イエスのおかげ。神の恵み。

もう、一方的に、自分の要求を神に突きつける、そんな異邦人の祈りから、わたしたちは、解放された仲間。

父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。

そう祈ることができる人は、幸いです。その人は、神様を父と呼ぶ、子とされたからです。

 さてさらに御言葉は続きます。
5節「あなたがたのうちの誰かに友達がいて、真夜中にその人のところにいき、次のように言ったとしよう。
「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしの所に立ち寄ったが、なにも出すものがないのです。」
すると、その人は家の中から答えるにちがいない。「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」
しかし、言っておく、その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きてきて必要なものは何でも与えるだろう。

そして、この喩え話の結論の結論として、こう言われていきます。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる」


求めなさいと訳された原語は、求め続けなさいという継続の意味をもっています。探しなさいも、門をたたきなさいもそうです。

簡単にやめない。それこそしつように頼むことに、ポイントがあるのでしょう。

夜中の来客のために、友達のパンを求めた話も、ポイントは「しつように頼めば、起きてきて必要なものは与える」ということにありました。

「しつように求める」この「執拗」という言葉は、「恥知らずに」「厚顔無恥に」とも訳せる言葉。

こんな夜中に、急病だというのならいざ知らず、来客に出すパンがないということで、友人の家にいく。

友人に迷惑をかけることを考えれば、これはできない行為。まさに「恥知らず」、「厚顔無恥」といわれてもしかたがない。

しかし一方で、違う視点から見るなら、たとえ自分が「恥知らず」「厚顔無恥」と思われようと、大切な来客のために、必死にパンを求めつづけ、あきらめようとしなかった、愛の物語とも読めるわけです。


祈りとはこういうものだと、主イエスが教えられるとき、自分のために、恥知らずに、神に求めよと教えられたとは思えない。

主の祈りも、「わたし」に必要な糧を毎日与えてください、ではなくて、「わたしたち」に必要な糧を、毎日与えてくださいと、主イエスは教えてくださったわけですから。

わたしだけのための祈りではなく、わたしのため、あなたのため、あの人のため、すべての人のために、その必要を祈るのだから。

食前に、感謝の祈りをするときも、わたしたちは、今日、まだ、食べ物が与えられていない人のために、今日の糧が与えられますようにと、祈ります。

わたしだけの必要を祈るのではないのだから。わたしたちの必要を祈るのだから、それこそ「しつよう」に、「恥知らず」に、すべての人に、今日の糧を与えてくださいと祈ることをやめません。

今日、自分が食べることができるのも、誰かの祈りに支えられているはずだから。

求め続け、探し続け、門をたたき続けます。

友のために、お互いのために。

わたしたちの、少人数のお祈り会では、病気の方、助けを必要としている方、あの人、この人、具体的に名前を覚えて、「しつよう」に祈ります。

短くても長くても、大きな声でも小さな声でも、心の中だけで祈っても、どんな形でもいいのです。

九州の人々を覚えて祈ります。日本のために、世界の平和のために、祈ります。

祈ってなんになる、という人もいるでしょう。なんにも変わらないじゃないか。それよりも具体的な行動をすべきじゃないかという人もいるでしょう。

東日本大震災の時も、そういう言葉をたくさん聞きました。でも、5年経った今、結局今でも関わりをもっているのは、祈りを大切にしてきた、教会の仲間であったことを、私は誇りに思っています。

祈りは、即効性のある解決でも、目に見える力でもないのです。命を与え、命を生かし、この世界を愛をもって導いておられる方を、父と呼ぶ、愛の交わり。

信じる者を励まし、愛に生きるようにさせてくださる、力だから。

求め続け、探し続け、門をたたき続ける、天の父との継続的な祈りの交わりからしか、生まれてこない出来事、愛、奇跡があるでしょう。

すぐに出来事が起こり、願いがかない、ほしいものを手に入れたなら、祈らなくなるという、

神を利用するだけの、ご利益の祈りでは、味わうことのできない愛が、出来事があるはずです。

祈りは、ご利益の手段ではないのですから。天の父と、神の子であるわたしたちの、途絶えることのない、しつような、「恥知らず」なまでの、愛の交わり、コミュニケーションなのだから。

それゆえに主イエスはこう続けます。

たとえ地上の父が、悪いものであっても、魚をほしがるこどもに、蛇を与えたり、卵をほしがる子に、サソリを与えたりなどしないはず。

ましてや、天の父は、求めてくる子に、よいものを与えてくださるのだから。そしてそのよいものを、このルカの福音書は、「聖霊」と語ります。

マタイの福音書にも同じ内容が記されていますが、そちらには、良いものとしか書いてありません。でも、ルカの福音書は、はっきりとそれは「聖霊」だと書いている。

この福音書を書いたルカは、福音書の第二部である使徒現行録で、イエスを信じる人々の上に、聖霊が下った出来事を記しました。

聖霊。神の霊が、わたしたちに与えられる。これがどれほど幸いなことか、ルカはそのことを強調するのです。

ほしいもの、必要なもの、問題の解決。それも大切。

しかし、もっと本質的な、人間が求めてやまない必要はなんなのか。良いものとは何なのか。

それをルカは、聖霊だとここに書きしるすのです。神の霊。神ご自身こそが、わたしたちがもっとも求めている、良いものではないのかと。


こんな小さなお話を聞いたことがあります。

お父さんが、まだ自分の子どもが小さかった時、ちょっとかわったクリスマスのプレゼントをしたそうです。

子どもが包みを開けてみると、そこにはノートがはいっているだけでした。
でもそこには、こう書いてあったのです。

「子よ(もちろんその子の名前です)。これから一年間、毎日1時間、日曜日には2時間、君と遊ぶよ。それがパパのプレゼントだよ」

このプレゼントを見たその小さな子は、「最高のプレゼントだよ!」と喜んだというお話です。

おもちゃでもなく、お菓子でもない、こんなものが最高のプレゼントか?

親なんかいらない。金がほしい。そう思うでしょうか。

それは、幼子のような心を、見失ってしまったということではないでしょうか。

今日、主イエスが教えてくださっている、祈りの教えとは、

言葉を変えていうなら

「幼な子のような心を、回復するように」ということでしょう。

幼子のように、神に信頼して、「父よ」「パパ」と呼ぶ。その一言に、すべての思いを込めて、「パパ」いや「ママ」でもいい。親を呼びなさい、ということにつきるのだから。

そしてその天の親は、幼子がもとめているものを、

ほかのなにものも、代わりにはならない、親の愛そのものを、与えてくださるのだから。

どんなに子どもが失敗しても、罪をおかしても、

子のすべての罪を赦し、贖う十字架のゆえに、

天の親は決して見捨てず、共にいてくださる。

聖霊こそ、天の父と、神の子であるわたしたちの、交わりをつなぐ、神秘。

わたしたちが、本当に必要としているもの

今日、新たに主イエスは宣言なさいます。

「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と