ルカによる福音書10章38節ー42節
桜は散ってしまいましたけれども、つぎは、ハナミズキが咲きますね。教会の周りに植えられた美しい花々に、きっと道行く人は、通るたびに心癒されているのだろうなと、思います。誰かを思いつつ、花を植える。美しい愛の奉仕です。
さて、しばらく、ルカの福音書から離れていましたけれども、今日からルカに戻ります。
先ほど読まれた、み言葉。マルタとマリア。二人の姉妹の、愛の奉仕の物語。
たった13行ほどの短いストーリーです。この短い出来事が、しかし何度読んでも、その時その時に、新しい発見、自分への問いかけが聞こえてくる、
そんなみ言葉です。
特に、「必要なことはただ一つだけである」といわれた主イエスの言葉は、なにか、深く心に響いてくる。ハッとさせられる。
そう響いてくる方もおられるのではないですか。
水曜日の夜のお祈り会では、毎週、次の礼拝の聖書の箇所を読んで、感想を語り合うのです。
この前は、この短い個所を読んで、2時間くらい語り合ってしまいました。実にさまざまな思いが、出てくる個所なんです。
ある人は、なにか今、自分は多くのことに、思い悩んでいるけれども、やはり必要なことは一つなのだ、という思いを語られましたし、
マルタがもてなしをしたことは、よいことだけれども、心を乱してしまったのが、問題だったんじゃないかな、と、ご自分のことと重ねながら、語られた方もおられましたし、
心を乱したマルタも、座って話を聞いていたマリアも、どちらがいいという話ではなくて、時にかなった選びをマリアはしたけれど、マルタはそれができなかったんでしょうとか。
わたしたちのなかにも「マリア」のような時もあれば、「マルタ」のような時があるわけだから、どちらがいいというはなしじゃなくて、 今「必要なただ一つのこと」を選ぶというはなしじゃないかなと、受け止められたり。
みなさんは、どのようにこころ読まれるでしょう。「必要なことは一つのこと」とは何なのでしょう。
実は、木曜日にも、教会に来られた女性の方と、この物語について話してみると、また違ったみかたがでてくる。
聞いていて、とても楽しい。聖書を囲んで、互いの言葉に聞きあうことは、とてもいいですよ。
その一つ一つの受け止め方は、その人と、神様との対話だから。どれも大切。
そのように、心にとどめていくなかに、聖霊の働きというものを、わたしは信じる牧師です。
聖霊が働かなければ、どんな聖書の解釈も、心に響くことも、届くこともないと、信じる牧師です。
テモテの第二の手紙に、こんな言葉があります。
3章16節
「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」
わたしたちは、神の霊の導きがあることを信じます。
もし、聖書の言葉が、その人の中で、響いて、生きる力となり、生活となるなら、
自分では気づけなかい、自分の罪に気づかせ、悔い改め、新しい道へとあゆみだす勇気が与えられるとするなら、
そこに聖霊が働いておられると、わたしは信じます。
牧師はそういう意味で、聖霊の働きに仕えるのであって、
はいこの読み方は、「○」、この解釈は「×」ですよ。と、答えを提供する国語の先生じゃないわけですから。
むしろ、そうやって、「この聖書の物語の、答えは何ですか」と答えを求める人間のありように、それでいいんですかと、問いかけたいわけです。
このマリアとマルタのお話の、すぐ直前にある、よいサマリア人のお話。
受難週の前の、3月前半にメッセージをいたしましたが、覚えておられますか。
有名な「よいサマリア人」のたとえ話の時にも、イエス様のところに、律法の専門家がやってきて、答えを求めにきたのです。
「なにをしたら、永遠の命を受け継ぐことができるのですか」と
答えを求められたイエス様は、「はい、これが答えだ」と答えましたか。いいえ答えませんでした。反対に、質問したのです。
「律法には何とかいてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と。
あなたは、どう読んでいるか。これが、イエス様の答えです。
それでもさらに、律法の専門家が、「それじゃあ、わたしの隣人とはだれですか」と、また答えを求めてきたときも、イエス様は、「ほれ、これがあなたの隣人だ」とは言われずに、よいサマリア人のたとえ話を始められたでしょう。
そして最後に、だれが追い剥ぎにあった人の、隣人になったと思うか」と、またイエス様は質問した。
答えたのは、律法の専門家自身でした。
自分が本当に腑に落ちたことこそ、聖霊が働いて、その人の中に与えてくださった悟りだから。
ですから、主イエスの言葉と、本当に出会う、ということは、
答えを手に入れることではなくて、
むしろ反対に、あなたのなかで握りしめてしまった、きまりきった考え、常識、ここはこう読むものだという、その答えで、いいんですかと、問いかけてくる。
それが、主イエスの御言葉との、生きた出会い。
さて、マルタとマリアの物語に戻りたいのですけれども、その前に、この短い出来事が置かれている、物語の流れをすこしみておきたいのです。
この出来事は、イエス様が、いよいよ、天に上げられる時期が近づいたのだと、エルサレムへ向けて旅をはじめた、その途中の出来事でした。
イエス様は、町や村を旅しながら、これから行く町や村に、先に72人の弟子を遣わされて、福音を語りながら、旅をしていたのです。
その伝道の旅路は、まるで、「狼の群に小羊を送り込むようなものだ」とイエス様は言われるほど、厳しい旅路を歩まれていたのでした。
町や村に遣わされた弟子たちは、家に迎え入れてもらいながら、福音を語ったのです。泊めてもらい、出されたものをたべ、世話をうけながら、人々に「神の国はあなたがたに近づいた」と「福音」を宣言しながら、旅をしておられた。
中には、イエス様たちを受け入れてくれない場所もあった。つらい思いもしたことでしょう。
それだけに、家に迎え入れてくれた人々に、「福音」を語ることができるのは、どれほどの喜びであったことでしょう。
家に招き入れてくれて、話を聞いてくれる人との出会い。それがどれほど弟子たち、そしてイエスさまを力づけたことでしょう。
そんな旅の途中で、このマルタとマリアの家に、イエス様の一行は、迎え入れられた、という話の流れになっているのです。
ヨハネの福音書にも、マルタとマリアとイエス様のやりとりがでてきます。そして、そこに描かれているイメージは、マルタとマリア、そしてイエス様は、以前からとても親しい間柄であったように読めるわけです。
しかし、このルカの福音書では、そういう文脈ではなくて、
イエス様と弟子たちが、「福音」を伝えたいのだと、受け入れてくれる家を転々としながら、エルサレムに向かう、その厳しい旅の途中。
まさに、イエス様一行を、家に迎え入れ、「福音」を危機、もてなした姉妹の物語。
それがこの物語の文脈です。
冒頭の、38節にあるように、イエス様一行を迎え入れたのは、マルタでした。
当然、イエス様と弟子たちが、伝道の旅をしていることを、「神の国の福音」を伝えることこそが、目的で、自分たちの村にやってきたことを、マルタは知った上で、家に迎え入れたことでしょう。
それは、厳しい旅の途中にあって、どれほどイエス様と弟子たちを慰め、力づける、奉仕であったことでしょう。
マルタが「もてなし」をした。この「もてなし」と日本語に訳されたもとのギリシャ語は、デアコニア。仕える。奉仕と、訳される言葉です。
伝道の旅の途中。なかなか話を聞いてくれない、家に迎え入れてもくれない、そういう厳しい旅のなか、家に迎え入れて、話を聞き、旅の疲れをいやそうと、たち働いてさえくれる、二人の女性との出会い。
この出会いは、イエス様と弟子たちにとって、実に喜びであり、励ましと、力を与えられたことでしょう。
今、わたしは、みなさんが聞いてくださっているから、はなすことができるわけです。わたしが、山形の酒田という田舎にいたときは、同じ話をしていても、教会を訪ねてきて、福音の話を聞く人は、なかなかいないわけです。
日曜日の礼拝で、妻と子どもたちだけにむかって話す。
子どもたちが幼稚園で小さかったときには、ほとんど妻に向かって話しているようなもの。
これは実にきついですよ。誰がきついのかと言えば、聞く方がきつい。
でも、妻がそこでずっと、わたしのかたる福音を、聞き続けてくれたから、わたしはその状況の中で、失望せずに、絶望せずに、とどまり続けることができたのは、間違いないんです。
ある牧師さんは、誰も来ないときは、壁に向かって説教したと、聞いたことがありますけれども、わたしには無理ですね。壁に向かって、神はあなたを愛しているといっても、壁に愛は伝わらないでしょう。
「神の国の福音」「神はあなたを愛している」
この福音を聞いてほしい。信じてほしい。受けれいてほしい。
そう願って、それこそすべての生活を、人生を、その一つのことを伝えることに、つぎ込むようにして、旅をしていたイエス様と弟子たち。
そのイエス様一行を、家に迎え入れて、イエス様の前に座って、その話に聞き入っていた、マリアの振る舞いが、どれほど、どれほど、主イエスにとってうれしいことだったか。
まさに、そのことのために、旅をしていたのだから。神は遠くにおられるのではない。神の国はあなたがたに近づいているのだ。
この福音の喜びを、希望を伝えたくて、旅をしていたイエス様にとって、座ってその話に聞き入ってくれる、マリアの奉仕は、喜びであったにちがいない。
マリアにとって、それが必要であったというだけではなく、主イエスにとっても、それは喜びであった。
主イエスの前に座って聞く。
それは、なにもしていないことではなく、主イエスの愛を受け止めようと願って座る、大切な奉仕ではないでしょうか。
ただ、このとき、マルタには、そうは思えなかった。
イエス様の前に座るより、彼女には大切な奉仕があった。
それは、「もてなし」と訳されていますけれども、先ほど申し上げたとおり、これは「仕える」という言葉。「奉仕」です。
具体的に何のことなのかは、わかりません。とにかく「仕えること」にせわしくたち働いたマルタ。
そしてマルタの目には、イエスさまの話を聞いているマリアのしていることは、「仕えている」ようには、見えなかったのでしょう。
マルタは主イエスに訴えます。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、なんともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」
わたしたけが、もてなし、「奉仕」つまり、わたしだけがあなたに「仕えている」のです。なんともお思いにならないのですか。
そう訴えるマルタ。
マルタには、マリアが座って話に聞き入っていることに意味が、わからない。主イエスに「仕えている」ことが、わからない。
当時の社会の常識にしてみても、旅人を迎え入たなら、もてなしをするのは、当時の女性の、当然の振る舞い、常識。
そういう当たり前。「答え」に照らせば、マリアの行動は、間違いです。
そして、その間違いに、バツをつけないイエス様に、マルタは疑問をぶつけます。
「主よ、わたしの姉妹は、わたしだけにもてなしをさせていますが、なんともお思いになりませんか」
こんなことでいいんですか。そうマルタは疑問をぶつけます。
マルタが握っている答え。こうあるべき姿。常識。その正しい答えのとおりに、主イエスにも、マリアにも動いてほしい。
マルタは言います。「手伝ってくれるようにおっしゃってください」と
もちろん、マルタのしていることも、大切な奉仕。でも、マリアのしていることも、大切な奉仕であることが、見えていないマルタ。
もし、マルタが、マリアのしていることの大切さがわかったら、その奉仕を取り上げようとはしなかったでしょう。
わたしが握りしめている、価値観、答えに縛られてしまうと、むしろ、主イエスが大切にしていることが、見えなくなってしまう。
そして、「多くのことに思い悩み、心が乱れていった」マルタ。
ああ、そのように、心が縛られてしまったマルタこそ、束縛から解放する「福音」の言葉を、解放の言葉を、必要としているのです。
マルタこそ、主イエスから、御言葉を、心を解き放つ福音を聞かなければなりません。
ですから、主イエスはマルタの問いに、答えないのです。
そうではなく、マルタに向けて、み言葉を、語られます。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と
「マルタ、マルタ」。二度名を呼ぶのは、親愛の情です。大切なあなたへの、言葉を語るのだという呼びかけ。
そして、言葉を語られます。
「マルタ、マルタ あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と。
主イエスは、慰めの言葉を語ったのではなく、あなたのその考えは違うのではないかと、責めるのでもなく、
マルタ、マルタ あなたは今、多くのことに思い悩んでいる。心を乱している、のだと、
マルタ自身が、気づいていない、彼女の心の状態、感情に、気づくことばを、向き合う言葉を語られました。
「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」
主イエスの言葉は、鏡のようです。自分では自分の顔を見ることができないように、人は誰かが語ってくれる、自分への言葉を通して、自分を知ります。
人の鏡はゆがんでいることもあるでしょうが、主イエスの鏡はまっすぐです。
マルタは、主イエスの御言葉という鏡の前に、今の、自分自身の状態を見せられていきます。
「マリアはまちがっている」と思っていた、その自分の心こそが、乱れていたことに。
自分自身では気づけない自分の心、感情に気づかせる、御言葉を、「マルタ、マルタ」と、深い愛を示しながら、主はマルタに語られます。
マルタは今、自分に語られている御言葉を聞いているのです。
御言葉を聞く。それは、まず、自分では気づけない、本当の自分自身と出会い、向き合わされることです。
さらに、主イエスはマルタに、御言葉を語られます。
「必要なことはただ一つだけである」
「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と
マルタはこのイエス様のみ言葉を、すぐに理解できたのでしょうか? 納得できたのでしょうか?
「ああ、マリアのようにイエス様の前に座って、み言葉を聞くことだけが、ただ一つ必要なことなのだわ」と、
そのような「答え」を、主イエスの言葉から、マルタは受け止めたのでしょうか?
そしてそれが、この物語の「答え」でしょうか?
この物語は、この問いに答えないまま、つまり、解釈を加えないまま、
ただ「必要なことはただ一つだけである」「マリアは良い方を選んだ」という主イエスの宣言で終わるのです。
そして、大切なことは、実はこの物語が「答え」を語らないまま、「宣言」で終わるからこそ、
わたしたちは何度も何度も、この主イエスの「宣言」を聞きつづけているのだ、ということです。
「自分は答えをしっている。」。「必要なことはただ一つって、結局、こういうことでしょう」と、自分の考え、解釈を固定化できないからこそ、
なんどでもこの主イエスのみ言葉を聞き続け、対話をつづけるしかないわけですから。
「必要なことはただ一つだけ」と言われた主イエスの言葉は、その時その時、わたしたちと対話を求めているのです。
主イエスのみ言葉を聞くということは、まさに、主イエスとの、愛の対話であり、愛のコミュニケーション、交わりそのもの。
それが、み言葉を聞くということ。
主イエスの前に、座って話を聞いていたマリアがしていたことも、
心を乱してしまっていた、マルタと主イエスのやり取りも、
そのすべては、このイエスを、家に迎え入れることを選び、主と呼んだ女性たちの、大きな愛の選びが、まずあってのこと。
それは、今、ここに集っているわたしたち一人ひとりにとっても同じことです。
やがて十字架の上で死に、復活し、今も生きておられる主イエスを、
わたしたちも自分の心の家に迎え入れ、「主よ」と呼ぶ仲間だからです。。
そんなわたしたち一人一人の名を、主イエスは呼び、今も語りかけ、対話したいと願っておられるでしょう。
そして、教会の仲間の交わりの中で、聖霊が導いてくださるとき、
「必要なことはただ一つ」というみ言葉は、その時々に、その人の具体的な現実のなかに、働く言葉となるでしょう。
主イエスのみ言葉を聞き、自分で答えをみつけ、応えて新しく歩み始めるのは、
ほかのだれでもない、わたしたち自分自身なのですから。