仕事でも組織でも教会でも、
毎年ルーティーンで活動をまわしていると、視野が狭くなり、盲点(スコトーマ)ができるんですよ。
自分は見えているつもりで、見えなくなっている部分が必ずあるわけです。
だから、自分には見えなくなっているところがあるのだ、
とちゃんと気づいている人は、
外からの目で見てもらって、指摘してもらうことの価値がわかっているから、
さて聖書に出てくる、律法学者達は、
自分はちゃんと見えていると言い張って、自滅していくわけだけど、
宗教者は、「自分は見えている」「自分はわかっている」と、勘違いしやすいんです。
むしろ反対に、神の前に、自分は何も見えていない、わかっていないことに、だんだん気づいて
人の言葉にどんどん耳を傾けられるようになっていくのが、宗教者の宗教者らしさ、なんじゃないのかな。