「神のものは神に返しなさい」(花小金井キリスト教会2月19日主日礼拝メッセージ)

ルカによる福音書20章20節〜26節

先週は、春一番も吹きました。ますます、梅の花の美しい季節となりましたね。

この教会の二階に、牧師家族は住んでいるわけですけれども、牧師館の玄関を出ますと、すぐお隣さんの庭の美しい梅が、わたしを「おはよう」と出迎えてくれて、心穏やかになるのです。

まあ、「梅の花」のほうは、そんなつもりはないでしょうけど、わたしは毎朝、「梅さんありがとう」って思いなんです。感謝です。

ただ、神が置いた場所で咲いているだけの花。でも、神が置いたところに咲くならば、

神が与えた命をまっすぐに、神に向かって生きていくならば、その命は実に豊かに、神によって用いられるのでしょう。

 さて、今朗読された、ルカの福音書のなかにあった、主イエスの言葉。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉は、大変印象的な言葉で、心に残ります。

 水曜日の夜のお祈り会の時にも、集う方々と、この箇所を読みましたが、そこで、ある方が、自分自身のこととして、この「神のもの」を、神様にお返ししていくのが、人生だと思っているといわれて、素晴らしいなぁと、感動いたしました。


みなさんは「神のものは神に返す」という主イエスの言葉を、どのように受け止められるでしょうか。


自分で造ったわけではない命を、一度きりの命を、「花」は「花」として、「わたし」は「わたし」として、置かれたところでいきる。

いつの間にか、自分の努力で手に入れたと思いこんでいる、仕事も財産も人間関係も、すべては神が、この地上を生きる間のひととき、貸し与えてくださっているのではないか。

最後はすべて神様にお返しして、わたしたちは天に帰っていくのではないか。

そういう気づきを、「神のものは神に返しなさい」という言葉からいただきます。

わたしたちは、神様から預かった良いものを、大切に管理して、育てて生きる管理者なのだ。それをバプテスト教会は、英語でクリスチャンスチュワードシップと言ってきました。

わたしたちは、自分の命、人生の、オーナー、持ち主ではなく、忠実な管理者、スチュワードなのだ。

本当は、神のもの。いつかはお返しするものなのに、自分のもののように勘違いして、自分のもの、自分のものと、囚われ、握りしめ、縛られたりしない。


そういうわたしたちの生き方としてのイメージを、この「神のものは神に返しなさい」という主イエスの言葉から、受け取ることもできるでしょう。


ただ、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉は、様々に解釈する人がいて、

ある人は、「政教分離」の教えではないかと読む人もいるのです。国はくに、宗教は宗教というわけです。

またある人は、「皇帝のもの」とは、ローマ帝国への税金。そして「神のもの」とは、神殿への税金。どちらも権力ある者が、弱いものから搾取しているもの。そんな搾取への批判を、イエス様はしているのだと、読む人もいる。まあ様々です。

ただ、この言葉だけを抜き出して、あれこれいっているだけでは、的を外してしまうでしょう。

福音書とは、十字架の死、そして復活へと歩まれる、主イエスこそが、わたしたちを救うお方なのだ。メシア、キリストなのだということを、物語っているのですから。

そういう、神による大きな愛と救いのストーリーが、今やいよいよ終盤にさしかかっている。主イエスエルサレムに入場され、このあと捕らえられ、不当な裁判の末に、人々に罵られるなか、十字架につけられ死んで行かれる。

しかし、その主イエスの歩みが、絶望に至るようなみえたその人生の意味が、やがて復活によってひっくり返る。わたしたちを罪の滅びから救う、メシア、キリストの生き方であったことが、やがて明らかになる。

この神による救いのストーリーのなかで、今日の主イエスの言葉を「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われる主イエスの言葉を、イメージしたいのです。

言い換えるなら、神のものは神に返しなさいと言われた、主イエスご自身こそ、十字架に至るまで、まさに、神のものを神に返しきられた、神の御心に生き抜かれた、人生であったからです。

主イエスはなぜ、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのか。

それは、律法学者や祭司長がつかわした、回し者によって、主イエスの言葉じりをとらえて、「この男はローマに反逆するものだ」とローマの総督に訴え、引き渡し、始末したいと思ったからでした。

回し者によって殺そうとした、などというと、最近マレーシアで起こった、回し者による暗殺事件を連想してしまいますけれども、そこに横たわっている罪の本質は同じではないでしょうか。

つまり、その人にいてもらっては困る。人間が人間の存在を否定する。その罪の極みが、殺意であるわけだから。

主イエスは、エルサレムに入ったあと、「わたしの家は、祈りの家でなければならない」と、神殿の境内で商売をしていた人を追い出されます。
これは神殿を中心にした秩序のなかに生きていた人々には、決定的に許せない行為。ここにおいて、祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと話し始める。あいつにいてもらっては、わたしたちが困る。消えてもらおうと策略を始めたのです。

そして、今日の聖書の箇所の直前で、イエス様は「ぶどう園と農夫」のたとえを、人々にお話になった。

主人のぶどう園を任された農夫たちが、主人が遠くの旅に出かけている間、ぶどう園を自分のものにしてしまって、主人がつかわした僕を追い返し、傷つけ、最後に息子をつかわすと、「あいつは跡取りだ、殺してしまおう。そうすれば財産は我々のものだ」と殺してしまった。

このたとえ話を聞いた、律法学者と祭司長達は、イエスさまが、自分たちへの当てつけで、このたとえを話していると気づいたのです。それで、イエスを殺そうとするが、民衆の目を恐れて、手を下さなかった。

そこで、何とか殺してしまいたいと思っていた彼らの、次の策略が、この「回し者」によって、言葉じりをとらえて、ローマの総督の権力によって、殺してしまおうという話なのです。

この「回し者」の武器は、毒針でも毒ガスでもなく、「正しい人を装って、まじめな質問をする」という武器でした。

それは、秘められてた「悪意」など、ひとかけらも感じさせない巧妙な武器です。それゆえに、実に罪深く、汚れた武器といえる。

正しい人を装った回し者は、慇懃無礼にこう質問します。

「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」

実に丁寧な質問です。主イエスの教えていることは、正しく、えこひいきなく、真理に基づいて、神の道を教えています。素晴らしいと、持ち上げている。

そのうえで、この回し者は上手に質問する「皇帝に税金を納めるのは、ユダヤの律法に適ってしますか、いませんか」

エス、ノーで答えてくださいと、罠にはめた。

エスといえばどうなるか。ローマ皇帝に税金を納めなさいといったなら、主イエスの周りに集まっている民衆の期待を裏切ることになる。ローマ皇帝は、自分のことを「神」としているのだから、そんなローマに支配され、税金を取られることは、ユダヤの人々には耐えがたい屈辱。
エスは、そのローマから解放するメシア・キリスト、王なのだと信じて集まっている民衆は、イエスが、ローマに税金を納めなさいといったなら、みんな離れ去るだろう。イエスの影響力もなくなるだろう。

もし、イエスが、ノーといったなら、ローマに税金を納めてはならないといったなら、ローマへの謀反を企てる危険人物として、ローマの総督に頼んで、始末させればいい。

エスといっても、ノーといっても、どちらを答えても、主イエスの存在、影響力を、抹殺することができる。

人間の罪とは、明らかに目に見える暴力とか、暴言ということに現れるだけではなくて、むしろこういうスマートなやり方で、人を潰すということもあるわけです。

組織の中で、上手に人にやめてもらうように、策略するということもあるでしょう。

心の中にある、本当の思い。あの人にいてほしくない。いてもらったら、わたしが困る。家族が困る。会社が困る。学校が困る。教会が困る。

あの人にはいてほしくない。

そういう、目の前の人の存在を否定しながら、しかし、だれにもばれないように、「正しい人を装う」という深い深い罪に、

わたしたちは蓋をしてきてはいないでしょうか。向き合っているでしょうか。

主イエスは、この人間が抱えてしまっている「あなたにはいてほしくない」しかも、神の言葉を語るものなど、「いてほしくない」と抹殺せずにはおられない、深い罪のまえに、その質問の前に立たされている。

さあ、答えなさい。イエスなのかノーなのか。どっちなのか。

主イエスは、この罪深いたくらみを見抜いていわれます。

「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか」

彼らは答えます「皇帝のものです」と。

それなら、皇帝のものは皇帝に返したらいいと主イエスは言われます。

彼ら自身が、「皇帝のものです」というのだから、それなら

皇帝のものは、皇帝に返したらどうかといわれた主イエスの答えに

回し者たちは、言葉じりをとらえて、訴えることはできなかったでしょう。

だから、答えとしてはこれで良かった。「皇帝のものは皇帝に返しなさい」という答えで、回し者の策略からは、逃げることができた。

ところが、それに加えてイエス様は最後に、「神のものは神に返しなさい」と加えられたのです。

ただ、この場をうまく切り抜けるためだけなら、「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言うだけでも十分だった。

しかしイエス様はさらに、「神のものは神に返しなさい」といわれます。
ただ、この場を切り抜ければいいという以上の答えを、主イエスはなさいます。

「神のものは神に返しなさい」

これは、決定的に「神のもの」は「神のもの」であることを認めなさいというメッセージです。

それはまず第一に、「神のもの」を「自分のもの」にしていた、律法学者や祭司長達への、強烈なメッセージであった。

主人のぶどう園を任されながら、主人の留守の間に、自分のものにしてしまった、農夫たちのように。

主人がつかわした、僕たちを次々に殺し、最後には、自分の息子なら敬ってくれるだろうとつかわした、神の御子を、主イエスを殺そうとしている律法学者や祭司長たちへの、強烈なメッセージ。

「神のものは、神に返しなさい」

主人が信頼し託したのに、信頼を裏切って、主人のものを、自分のものにしてしまう。神のものを、自分のものだと言い張ってしまう。

神がつかわした、神の子をさえ、いてもらっては困ると、抹殺してしまう。

これは、律法学者たちの罪だけでしょうか。わたしたちも、自分に神が与えてくださった命を、賜物を、人生を、自分のものと言い張って、主イエスの言葉に耳を塞いで、神の言葉を、抹殺してはいないでしょうか。
「神のものは、神に返しなさい」

主イエスは、ご自分が殺される覚悟で、語られているのです。

「神のものは神に返しなさい」と

神に与えられた一度きりの「命」。

神の形、神の銘が刻まれた、「神のもの」である、あなた自身の人生を

「神のものは、神に返して生きる」ようにと、主イエスは命をかけて、言われます。

 自分のものは自分のもの。自分の立場、自分のプライド、自分の力で生きてきたと、自分、自分と、自分にこだわらせる罪に縛られた人間にとって、

「神のものは、神に返しなさい」と言われる主イエスの言葉は、痛いのです。聞きたくないのです。主イエスにいてもらいたくないのです。十字架につけずにはいられないのです。

主イエスは、そのわたしたちの罪のゆえに、十字架につけられていきます。その苦しみの中、主イエスは祈られる。

父を彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、分からずにいるのですと。

「神のものは、神に返しなさい」と言われた主イエスこそ、その言葉の通り、ご自分の命、その生き様をすべて、天の父へと返された。捧げられた。

その主イエスを、神は復活させ、わたしたちを罪から救う、救い主となさいました。

わたしたちは、この罪あるまま、主イエスによって、罪ゆるされ、神のものを自分のものにすることから、罪から解放されたのです。

神を神として、神のものを神のものとして、神に返し、神に捧げ、神の愛に応えて生きる人生へと、わたしたちは、さらに歩み出していくのです。

先週、わたしたちの教会は、礼拝のあと、午後に信徒の集まり、信徒会を開きました。そのなかで、わたしたちの教会のNさんが、東京バプテスト神学校の、専攻科に進むに当たって、神様からその道へと、召されたことを、証してくださいました。

先週その証を聞くことができなかった方もおられるでしょうから、ご本人の承諾を得ましたので、証の一部ですけれども、ご紹介させてください。

「子育て時代は、家族そろって毎週教会に集うことを一番の楽しみとしてきました。ようやく子ども達も順々に巣立ち始めた頃、日頃病気知らずの元気な妻に、急に重い病気が発覚、一年余りの闘病生活の末、2008年7月に60才で召天しました。」

奥様との別れの出来事をきっかけに、もう一度信仰の原点に戻ろうと、バプテスト神学校で学び始められたNさんが、本科の学びを終えて、いったんは、これでもう十分と思われていたけれども、さらに専攻科へと進む決心をなさったことを、このように証してくださっていました。

「このたび、専攻科入学の動機となったことは、妻が病により召される数日前、しかもホスピスへの転院が決まった時のことです。なお、妻は希望していたホスピスに転院が果たせないまま天に召されていきました。そのときに私に残した最後の言葉

「幸せだった」
「安らかに天国に行きたい」という言葉が、またあらためて思い出されました。

ところで、わたしが今後さらに高齢になり、あるいは重い病を負い、人生の終わりの時を間近に迎える時、果たしてわたしは「主イエスキリストにある信仰により、真に自分の人生を自分で総括し、終わりの時を平安のうちに受け入れ、永遠の命の確信を得ることができるだろうか?」と、自らに問い直しています。

妻の最後の言葉は、まさにこのことを、私に問いかけ、宿題として残してくれたと改めて思い直しました。

また郷里に長崎に、昨年11月に100才の誕生日を迎えたクリスチャンの母がいます。数ヶ月ごとに訪問するたびごとに、母は私に「召されるそのときはいつだろうか? 苦しいのだろうか」と不安を問いかけます。わたしは真剣に母の波瀾万丈の人生が、主にあって平安のうちに終わることができるようにと、今、なんと声をかけたらよいかが、問われています。

この人生の最大のテーマ「生と死、永遠の命と信仰」を、まず自らの課題として真正面から問い直し、またクリスチャンの信仰の根源を求めることが大切であることに気づかされています。

さらに、教会での高齢者や重い病を持っている方々へ、み言葉による慰めと平安が与えられるように、その方々が、人生の総括と召されるそのときへの心の備え、すなわち「永遠の命の信仰」へと導かれるために、寄り添いと援助の働きが必要とされており、

「その働きに、わたしが召されているのではないだろうかと、思っています。」

「その働きに、わたしが召されているのではないだろうかと、思っています。」


あたらめて、証を読ませていただいて、かつて、どう祈ったらいいのか、祈りの言葉さえ失った、奥さまとの離別の悲しみ、

もう立ち上がれないほど、打ちのめされた、深い深い悲しみを、

しかし、その深い悲しみを知ったものとして、今、神の慰めと希望の言葉、永遠の命の言葉を、

語るものとして、人々と寄り添い、援助する働きのために、「わたしは召されている」とさえ言わしめ、

悲しみから立ち上がらせ、新しい一歩を踏み出すようにと招かれる、復活の主イエスの働きに、

わたしは、心からの畏れをもって、主のみ名をあがめ、賛美するのです。

「皇帝のものは皇帝に。そして、神のものは神に返しなさい」


冬の厳しい寒さを突き破るようにして、一番に咲く「梅の花」が、人の心を慰めるように。

神に活かされ、神に与えられた命を、神が置かれた場所で、精一杯、神に向かって、花を開いて生きるなら、

なにができてもできなくても、ただ、神が咲かせた花として、

冬の厳しさ、死の絶望を乗り越え、咲いた、花として、

ただそこに咲いているだけで、この世界を慰める存在として、活かされる。

天の親である神から、あなたは、わたしのもの。あなたを愛していると、いっていただく一人一人として、

神のものとしていただいた、感謝と喜びを、ただただ、神に返していく。

恩返しをしていく人生を、

主イエスの足跡をたどりつつ、

わたしたちは、今週も新たに、歩んでいくのです。