「命の書」(2016年5月22日夕礼拝メッセージ)

黙示録20章7節〜15節

 朝の教会学校と同じ個所からメッセージを語ることにしたので、黙示録からのメッセージをしているわけですけれども、そうでもなければ、なかなか黙示録からメッセージを語ろうとはしなかっただろうなぁと、いうのが正直な気持ちです。

解釈がむつかしい。注解書なども参考にしますけれども、その注解書もさまざま。立場によって解釈が違うこともままあります。

今日は、7節〜読みましたけれども、教会学校では1節から読んでいて、そこには、いわゆる1000年王国といわれる、やがて、クリスチャンがキリストと共に1000年の間、この地上を統治するということばがあって、これがまた、さまざまに解釈されているわけです。

1000年を文字通りに、1000年と取るのか、長い時期と取るか。この出来事は未来のことなのか、象徴的な表現なのか。

わたしたちが、教会学校で参考にしている聖書教育では、これを「文字通りに千年と考える必要はなく、主の慰めと平穏が、最後の審判の前に、聖徒に訪れる約束の時、と読むのがよいでしょう」とまとめています。わたしもその線でいいんじゃないかと、受け止めています。

そして、先ほど読んだ個所につながっていくわけです。

7節8節
「この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴクとマゴグを惑わそうとして出て生き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。

「ゴクとマゴク」といういい方は、旧約聖書エゼキエル書38:2に出てくるそうですけれども、神に敵対する勢力をイメージさせているのでしょう。

9節
「彼らは地上の広い場所に攻めのぼっていって、聖なるものたちの陣営と愛された都とを囲んだ。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽くした。」

スペクタル映画のワンシーンのようです。敵に囲まれた、絶体絶命の時、天から救いの日が下ってきて、敵が焼滅ぼされる。

10節
「そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる」

悪魔、獣、偽預言者。悪の指導者たちが、すべて集められて「火と硫黄の池」。滅びの中に投げ込まれた。

クライマックスは、ある意味、あまりにもあっけない形でおわります。「天からの火が下ってくる」。「火と硫黄の池に投げ込まれる」

これでは、反撃のしようもない。圧倒的な力の差です。それができるなら、なぜ、もっと早く、悪い物を天の火で焼いてくださらないのか。火と硫黄の池に投げ込んで下さらないのか、と言いたくもなる。

旧約聖書ヨブ記も、最初に神様とサタンの会話があって、神様はなぜか、サタンをそこでは滅ぼさないで、サタンの自由にさせてしまう。あのヨブという男は、信仰深そうに振る舞っているけれども、それは状況がよくて、恵まれているからそうなのであって、試練にあったら、病気になったら、きっと神を呪うでしょうと、そういう言いがかりをサタンがしてきたので、神様は、それならサタンの思い通りにしてみたらいい、ただしヨブの命だけは、奪ってはならないといわれて、ヨブはさまざまな試練のもとに置かれてしまうわけです。

ここに描かれていることも、正直それはないでしょう、と思う。なぜ、神様はサタンがなすがままにさせるのだろう。そのまま泳がせるようなことをなさるのだろう。

初めから、サタンなど滅ぼしてくださればいいのに。それがわたしたちの思い。

神様が愛なら、全能なら、どうしてこの世界には、悪があるのですか。この問いは、神義論といって、古くから答えのない問いなのですけれども、今日の聖書の個所の、サタンの敗北ということも、「天から火を下させ」、「火と硫黄の池に投げ込まれる」ことがお出来になるのなら、なぜ、もっと早くして下さらないのか、ということは、人間には答えられない問い。

それがわたしたちが、神様を信じるときの葛藤、霊的な苦しみにも、つながるのでしょう。神様の時と、わたしたちの時は、違うし、神様の御心と、わたしたちの願いも違う。

初代教会は、すぐにでも主イエスが天から戻って来られると信じていたんです。つまり、この黙示録の出来事。天から火が下って、敵が焼滅ぼされるのは、もうすぐだ。そして主イエスが、王として来てくださり、正しくさばいてくださるはずだ。その時は、もうすぐだと思っていた。


それから、もう2000年以上もたってしまいました。まだ、主イエスはやってきていません。

そして、今までもなんども、これこそ主イエスがこられるしるしではないかと、大きな疫病とか災害とか戦争があるたびに、言われてきましたけれども、外れてきました。

今も、世界のあちこちで地震が起こっているのは、主イエスが来られるしるしではないか、という人がいるようです。

しかし、主イエス御自身が、福音書の中で「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」といわれたように、

人はわからないし、わからなくていい。

ただ、どんなにこの世界に希望が見えなくても、ちゃんと神様は、神様の最善の時に、神様の責任において、決着をつけてくださる。

決定的で、圧倒的な力で、悪いものを滅ぼしてくださる。その約束だけを握って、ある意味ことばは軽いですけれども、気楽に、任せて、生きていけばいいのです。


ただ、ちょっと気になるのが、そのサタンの滅びの後に続く、最後の裁きについての、描写ですね。

11節
「わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。」

玉座に座っておられる方は、神さまでしょう。天も地も、神の前から逃げてしまうというのは、どういうことなのか。新しい天と地がやってくる準備じゃないか、というせつもあるけれども、よくわかりません。

12節

「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。いくつかの書物がひらかれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた」

わたしたちは、死んだあとは、すぐに天国に行くという理解をしていたりしますけれども、13節には、死んだ人々が、海や「よみ」という場所から、でてきて、命の書に書かれていること。生きている間に行ったことに応じて、裁かれて、そして新天心地。いわゆる神の国、天国に入るというのが、黙示録の語っている流れであるわけです。

そして、「死もよみ」も火の池に投げ込まれてしまう。そして命の書に名前がない者も、火の池に投げ込まれると記されています。

怖い描写ですね。自分は大丈夫なのかなと、心配になりますねぇ。

でも、「命の書」に名前を書かれるのは、神様ですから、わたしたちがどんなにじたばたしても、どうしようもない。

神様の愛を信じて、委ねていればいいことです。

「行いに応じて裁かれる」ということばも、なんだか心がチクチクします。すべてを見通しておられる、神様の前には、都民の税金を何に使ったかを隠せないのと同じで、わたしたちも、人には隠せても、すべてを知っておられる神様の前に立たされたなら、なにも言えないでしょう。

でも、それならそうと、なぜ、わたしたちを、こんな罪の誘惑の多い地上に、生まれさせたんですかと、言いたくもなる。

ある人は、貧しい環境に生まれて、どうしても罪を犯さないと、生きていけなかったという人もいるんじゃないですか。

生まれた環境がわるくて、愛されなくて、いじめられて、自分もまた、悪いことに手を染めて行ってしまったという人も、いるんじゃないでしょうか。

みんな、自己責任。あなたの行いに応じて、裁かれますといわれても、自分は生まれた環境も、場所も、人間関係も、なにも選べないのに、

罪の言い訳はしたくないけれど、そういう行いをするには、それなりの理由もあった。もし、違う環境に置かれていたら、そんなことはしなかったかもしれない。

いや、むしろ、なぜ最初から、天に生まれさせてくださらなかったのですか。裁くくらいなら、初めから、天に生まれさせてくださればいいのに。

そんな疑問を感じたことはないですか。

この地上に生まれさせて、逐一、命の書に、あの人は、こんな悪いことをした、こんな悪いことをいったと、記録しているのが、神様だとしたら、わたしたちは、そんな神様のおられる天に行きたくないじゃないですか。

天にいっても、逐一、チェックされたら、いやだから。

最後の裁きってなんなのだろう。命の書って何なのだろう。なぜ、この不完全で罪深い地上に生まれて、裁かれるために、生きなければならないんだろう。


みなさん、どう思うでしょう。どのように、ご自分を納得させていますか。


最後に、わたしの信じていること、解釈をお話して終わりますね。

「最後の裁き」という言葉を聞いた時のイメージが、わたしたちのなかで、悪すぎるのだと思うのです。

「裁き」というと、すぐに罰を下されるとイメージするでしょう。裁かれるというのは、罰を与えられるということと、ほぼ同じ意味になっている。

でも、そうじゃないでしょう。罰を与えるなんて、どこにも書いていないんです。神様がまがっていたものを、ちゃんと正しくまっすぐにしてくださる。

不完全だったものを、完全にしてくださる。そういうイメージの方が、近いでしょう。それは怖いことではなくて、むしろありがたいこと。感謝なことです。

主イエスが、福音書の中で、毒麦のたとえ話をなさいました。善い麦として植えられたのに、なぜだかわからないけれど、サタンがやってきて、毒麦を植えて行った。

それをしった家来が、主人に、サタンが毒麦を植えました。抜きましょうかと行ったときに、主人は、いや、抜かなくていい。今抜くと、良い麦まで抜いてしまうから、そのままにしておけと言ったのです。

それは、やがて刈り取りの時に、ちゃんと神様が悪い麦と良い麦を、きれいに分けて、悪い麦を取って、きれいな麦畑にしてくださるから。

それが、神様の御心だから、人間はかってに裁かなくていい。神に任せておけという話です。

そう、わたしたちは、良い麦として、この地上に神が植えてくださったのです。わたしたちは、もともとよい麦。神に愛されている良い存在。

でも、なぜだかわからないけれど、この地上を生きるプロセスの中で、サタンに悪さをされてしまう。毒麦が生えてしまうこともある。悪い思い、悪い行い。人を傷つけ傷つけられるということを、味合わなければならないこともある。

でも、神様はだからといって、その悪い麦をすぐには引っこ抜かない。それは神の責任でちゃんと最後に、整えるからということでしょう。

天からの火をもって、ちゃんと焼いてくださって、美しい麦畑にするよ、ということでしょう。それが、この地上に良い麦を植えてくださった、神様の御心であり、責任なのだから。


命の書に記されていることに基づいて、行いに応じて、神様はちゃんと最後に、美しい麦畑になるように、整えてくださる。完成させてくださる。

そして、新天心地に入る。これが神のご計画なのだから。


この希望に生きる人は、もちろん命の書に名前が記されています。

なぜなら、その人は、こんな毒麦だらけの自分さえ、神はちゃんときれいにしてくださると、

神の愛を信じている、人なのだから。