使徒言行録4:32-5:11
先週は聖路加国葬病院の日野原重明先生が、105歳で天に召されたましたね。
100歳を過ぎても、現役の医師であられたし、そのほかにも、対談や講演活動など、10年先の予定まで決まっていたと聞いていましたから、
どこか、日野原先生だけは、この地上を永遠に生きるんじゃないかと、わたしは、そんな錯覚さえしていましたけれども、日野原先生も、天に召されたのかと、感慨深かったのでした。
もちろん、クリスチャンであられたから、今も、永遠のいのちを、生きておられるわけですけれども、地上のいのちは、やっぱり終わる時がくる。
日野原先生は、子どもたちを集めて「いのちの授業」ということをなさっていたことがあって、そこで子供たちに、「いのちってなんだと思う」と問いかけると、子どもたちは、心臓に手をあてるのだそうです。
すると先生はこういった。
「それは違います。心臓はいのちではなくて、単なるポンプです。いのちは、あるけれども、目に見えない。
命とは、わたしたちが持っている時間です。
そして平和とは、人が与えられた時間を壊されてしまわないことです。
人間は限られた命を持つ生き物です。
人のために使った時間と、自分のために使った時間のバランスはどうですか。
あなたが持っている時間を、いのちを、できるだけ人のために使いましょう」と、教えておられたそうです。
とてもシンプルで、まっすぐな言葉ですね。
そして、ご自分もその言葉のとおりに、神様が与えてくださった時間を生ききって天に帰られたのでしょう。
イエスさまはいわれました。
、「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったりさび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい」
「そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」
「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」
一方、ルカの福音書では、こういう表現になっています。
「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる。
自分の持ち物を売り払って施しなさい。すり切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなた方の富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」
ルカの福音書のほうが、直接的ですね。「自分の持ち物を売り払って施しなさい」というのですから。
ちゃんと、天の父が、喜んで神の国をくださるから、自分の持ち物を売り払って施したらいい。
それが、すり切れない財布を持つこと。尽きることのない富を、天に積む生き方なのだと、
ルカは主イエスの言葉を、記します。
同じルカが書いた、使徒言行録の、今日の箇所とも、共通するメッセージがありますね。
。
今日、朗読された箇所は、主イエスの復活を信じた人々の、その最初の生活の姿を、ルカが報告している箇所でした。
32節
「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだという者はなくすべての共有していた。」
こういうことが、最初の教会に起こったのだと、ルカは記します。
主イエスの復活を信じる、ということは、頭の中の理屈にとどまらず、このような生き方として、現れ出たのだと、ルカは記すのです。
あのイエスの十字架の死。もうすべてが終わってしまったはずの、あの絶望から、神は、新しい希望を引き起こされた。
イエスは復活し、今、私たちの中で生きておられる。
その確信を、聖霊によっていただいた人々は、
この、信仰において、心も思いも一つになったのだ。
さらに、互いの持ち物をさえ共有して、互いに支え合い、共に生きる仲間となるという、驚くべき生き方として、現れ出たのだ。
このことを、ルカはここに書き記さないわけにはいかなかったのでしょう。
この奇跡的な人々の集まりこそが、主イエスの復活の、証であったわけだから。
ですから、これは人間の思想とか哲学、ヒューマニズムで、成り立っている仲間ではない、ということです。
33節からさらに、読んでみます。
「使徒たちは、大いなる力を持って主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」
この、誰一人貧しい人がないようにと、持っている物を分かち合い、分け合う仲間は、同時に、非常に力強く主イエスの復活を証している仲間でもあったのです。
自分の所有を放棄してまで、互いに分かち合わせる力。
いのちも、時間も、もちものも、実は本当の所有者は、自分ではなく、神であるのだと、分かち合わせた、人々の間には、
復活の主イエスへの信仰があった。
これは大切なポイントです。
以前、使徒言行録3章を読んだ時、「美しの門」に座っていた足の不自由な男性が、立ち上がり歩き出すという奇跡がありました。
あそこにおいても、金銀を求めていた男性に対して、「私たちに金銀はない」「金はない」とペトロとヨハネは言い。
しかし、わたしたちが持っているものをあげようと、「ナザレのイエスの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言いました。
復活のイエスの名が宣言され、そして信じられるところに、神が引き起こしたとしか思えない、奇跡が起こったのだと、ルカは報告しました。
そして、今日のところでは、同じ主イエスの名を信じる人々の中で、自分のものという所有意識からも解放され、一緒に生きていきたいと願う人々が現れた。
36節に、バルナバと呼ばれていたヨセフが、自分の畑を売って、その代金を持ってきたあります。
おそらく、バルナバだけではなく、何人もの人が、そうせずにはいられない思いで、自分の持ち物をもってきて、分け合ったのでしょう。
そこに、打算とか、損得勘定はなかったでしょう。
損得勘定をしたら、畑という財産を売ってしまったバルナバは、明らかに損なのです。
そんな、損とか得とかを越えて、共に生きていきたいと、思わせる、何かがここに起こった。
ただ、イエスの名を信じる信仰によって、神はこの奇跡を、見せてくださった。
復活の証として、神様が見せてくださった共同体。
そして今でも教会は、ここまですべてを分かち合うことはできなくても、
聖霊に導かれるとき、不思議に、互いに分かち合うことが喜びとなる、そんな仲間であることは、なにも変わっていません。
自分が損をするとか、得をするとか、そういう損得勘定ではなく、神様に愛されていることの喜びで、互いに分かち合いたいと願う仲間。
ここに新しい教会堂が建っているのも、ここに集う一人一人が、持てるものを分かち合ったからでしょう。
毎週の礼拝が、守られているのも、わたしたちが、自分の持てるものを、分かち合っているからでしょう。
ですから、教会は、今でも、損得勘定ではなく、聖霊によって、心動かされた人々の集まり、群れ、共同体なのです。
互いに支え合い愛し合うことで、「あなたがの間に、本当に主イエスは生きておられるのですね」と証する仲間なんですね。
さて、今日の聖書のお話は、残念ながら、この素晴らしい状態では、終わりませんでした。
この生まれたばかりの、まっすぐな信仰者の集まりのなかに、早速大きな問題が発生します。
アナニアとサフィラ夫婦の死という出来事です。
このお話は、いつ読んでも怖い箇所ですね。
私自身、できればここから話すのは避けたい。このお話さえなければいいのにと、思ったことがあります。
この二人の夫婦の末路が、こういうことで終わってしまったのは、いったいなぜなのでしょう。
アナニアとサフィラも、自分たちの土地を売って、仲間たちのところに持ってきたわけです。
別に、自分の土地を売ってもってくる義務は、これっぽっちもないのです。
売ろうと、売るまいと、そもそも彼らのものなのだから、自分の好きにしたらいいと、ペトロはいいます。
では、なにが問題だったのでしょう
3節に、こうあります。
するとペトロは言った「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか」と。
「ごまかしたこと」が問題だというのです。
そして、その「ごまかし」は、人を欺いたようだけれども、そうではなく「神を欺いたのだ」とペトロは言います。
ペトロのこの強い言い方に、わたしたちは困惑します。
確かに、「土地を売ったお金のうち、少し自分の分もとっておきたい。」とアナニアとサフィラは思ったのでしょう。
そうなら、そう正直に言えばよかった。
そもそもアナニアとサッフィラのお金なのだから、あなた方の思い通りにすればいいと、ペトロもいっている。
ところが、その本当の自分の心をかくしつつ、模範的なバルナバにしたがって、自分たちも、すべてを捧げましたと、いってしまった。
そういう意味で、これは、「偽善」ということが、問題になっているのでしょう。
偽善。つまり、偽って、自分をよく見せようとする態度に、
もっとも鋭い批判をなさったのは、主イエスだったことを、思い出します。
自分たちこそ、神に従い、捧げて生きていると、誇っては、
民衆を見下げていた姿を批判して、
ある時こういうことを言われました。
「施しをするときは、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」と。
人からほめられるために捧げるものなど、神への捧げものにはならないと、イエス様はいわれるのです。
そして、アナニアとサフィラの問題も、ここにあったのではないでしょうか。
すべて捧げたと偽って、自分たちをよく見せようとしてしまった。そこに、サタンに心を奪われた、ということがあったのでしょう。
「偽善」。それは、神は私の心のすべてを知っておられるということを忘れてしまうところから、生まれてくるのではないでしょうか。
主イエスは、こういうことを言われたことがあります。
「あなた方が祈る時は、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と
神は、わたしたちが人に見せている外側ではなく、わたしたちの内側、こころの奥の、隠れた部屋にいて、すでにすべてを知っておられる、天の親なのだと、言われます。
人には見せていない、いや見せられない、罪やけがれ、闇を抱えた、自分の心のその全てを、すべて知っておられる神に向かって、
天の父よと祈る、神との愛の関係にいれていただく。
自分の全てを知っておられる方に、赦されている、愛されている、神の子とされてている。その喜びと平安から、ただただ、神の愛にこたえて生きる人となる。
それが、主イエスの名を信じる人々のなかに、引き起こされる奇跡。信仰の奇跡。
そして、アナニアとサフィラも、自分自身の心の奥底を、すべてを知っておられるお方のことを、見失いさえしなければ、嘘や、ごまかしなどする必要はなかったはずです。
自分の弱さも、罪も、そのありのままを、すべて知り、赦しておられる神の愛をみうしなう。それがサタンに心奪われるということでしょう。
そうなってしまえば、人は、偽ってでも、自分を飾り、よく見せずにはいられなくなってしまう。
このままで神に愛されている平安も、喜びも、見失って、自分を偽り、飾らなければいられなくなってしまう。
結局、この二人の夫婦は、「倒れて息絶えて」しまったのです。
このタイミングの良さに、この二人が、神によって裁かれたのだと、そう読まれてしまうことがあると思うのです。
もしそうなら、ルカは、そうはっきり書くと思うのです。
「神に打たれた」とか「神に裁かれた」とか、書いたでしょう。
ルカはこの後、使徒言行録の12章において、ヘロデ王が急死したときの出来事のなかで、はっきりと、「主の天使がヘロデを打ち倒した」という書き方をしています。
ところが、今日の箇所では、アナニアとサッフィラが息絶えたことについては、ルカは「主の天使が打った」とは書かないのです。
これは大切なことです。
ここで息絶えたのは、本当の自分を偽ってでも、自分をよく見せないではいられない、不安とストレスのなかにあった、二人であったのだから。
ペトロのこの強い言葉が引き金で、息が絶えてしまったと考えても、不自然ではないでしょう。
もちろん、それは想像でしかありませんが、少なくとも、神の裁きとはルカは書いていないのだから、そう断定してはいけないと思うのです。
ただ、いえることは、この時の教会にとっては、これは、辛い出来事でありました。
最後の11節のところで、ルカはこう記します。
「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」と。
このアナニアとサフィラの事件は、最初の教会にとって、非常に大きな出来事、忘れられない出来事として、記憶されたはずです。
そして、このあと使徒言行録には、同じような出来事は起こりません。
教会になにも問題はなかったわけではないでしょう。嘘や偽善がまったくないということは、なかったでしょう。この後も、たくさんの問題があったでしょう。
でも、第二、第三のアナニヤ、サフィラの事件は、もう起こらない。記されないのです。
ですから、こういう出来事は、このとき一度きりの出来事であった。そういう意味でも、これは神の裁きとは考えられません。
もし神の裁きであるのなら、このあと、何度もこういう出来事が起こらなければならないし、わたしたち自身も、自分は大丈夫かと、不安にならなければならないでしょう。
わたしたちも、アナニアとサフィラのことを笑えないではないですか。
ただ、なぜ、この教会の一番最初の場面で、こういう出来事が起こったのだろうかと思うのです。
いやむしろ、教会が生まれた一番最初であったからこそ、ここで、嘘や偽善が入り込まないようにと、教会は対決したんじゃないか。
ここまでペトロは、強く、だんことして、対決しなければならなかったのではないか。そう想像するのです。
それは、私自身、開拓伝道の経験の中で、教会に最初に集まる人々が、本当に、その後の教会の土台として、実に重要であることを、肌で感じてきたからです。
最初の数人のなかで、互いに偽り、偽善が入り込んでしまったら、もう信じ合う仲間、祈り合う共同体としては、立ちゆかなくなってしまうのです。
ある時、その苦しみを感じさせられて、人々の中に入り込んできた、嘘や偽善と、対決させられた経験を、私自身してきたからです。
今思えば、牧師として言い過ぎてしまったこと、反省すること、失敗が沢山あります。
妻からは、いつも、牧師は言葉に気を付けなさいと、怒られます。
ペトロのこの叱責の言葉も、あまりにも厳しい。言いすぎじゃないか。こんな言い方をされたら、ショックを受けて、心臓が止まってしまうんじゃないかと思う。
正直「ペトロよ、あなたこそ、その昔、主イエスを裏切ったじゃないか。忘れてしまったのか」と、言いたくもなります。
そんな辛く悲しい、教会にとっても、ペトロにとっても、これは失敗じゃないのかと言いたくなるような出来事を、なぜ、ルカは書き残したのでしょう。
想像することは、おそらく、後の教会に対して、神と人のまえに、嘘や欺きのない、共同体であることを願って、その痛く、悲しい教訓として、ルカは書き残したのではないか。それが私の考えです。
結果的に、それほど長い人生を生きられなかった、アナニア、サッフィラの夫婦も、
長い人生を歩み抜かれた、日野原先生も、
そして、それぞれに与えられた人生の時間を生きている、わたしたちひとりひとりも、
神に愛され、神の霊をいただいて、この地上を生きる大切な時間を生きているのは同じです。
そのいのちの時間を、偽りと、見栄で、自分をよく見せなさいと誘惑する声に、
心惑わされたくはないのです。
自分以上に、自分のことを知っておられる、主を欺けるわけがないのですから。
自分以上に、この私を知っていてくださるお方。
その罪も汚れも、すでに赦していてくださるお方。
わたしたちの罪を背負い、十字架に死なれたイエスを、復活させた神を、私たちは信じます。
わたしたちは、神に赦され、愛され、今日も生きるようにと、いのちの時間を与えられています。
ゆえに、いつ人生の時間の終わりが来ても、
それが、長く感じても、短く感じても、
すべては、神の愛と赦しのなかで、生かされてきた時間。
神が生きてほしいと、与えて下さった、自分自身の命を、
偽ることなく、ありのまま、共にあゆんでいきたいのです。
それが、サタンではなく、聖霊に導かれて生きる、
わたしたち生き方なのですから。