神のゆるしか人間のゆるしか

「ゆるし」は、キリスト教神学における中心的なテーマの一つであり、「神のゆるし」と「人間のゆるし」の関係は長らく議論されてきました。本稿では、「神のゆるし」の強調が必ずしも聖書的ではないとする議論を通して、「人間のゆるし」の意義について考察します。

新約聖書におけるイエスの教えは、しばしば「神のゆるし」ではなく「人間のゆるし」に重点を置いています。マタイの福音書6章12節では、主の祈りの中で「私たちも自分に負い目のある人をゆるしましたように、私たちの負い目をおゆるしください」と語られています。この祈りでは、人間のゆるしが神のゆるしに先立つものであることが明確に示されています。さらに、イエスはこの祈りを補足する形で「もし人の過ちをゆるすなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをおゆるしになる」(マタイ6:14-15)と述べ、人間のゆるしが神のゆるしの条件であるかのように強調しています。この視点は、従来のキリスト教神学における「神のゆるし」に対する過度な依存を問い直すものです。

日本語において、「赦し」と「許し」のように、神と人間のゆるしが区別されることがあります。しかし、これを過度に区別することは、聖書が意図する「ゆるし」の本質を見失わせる危険があります。イエスの教えは、神学的な抽象概念としての「神のゆるし」以上に、人間関係における具体的な行動としての「人間のゆるし」に焦点を当てています。つまり、ゆるしは、人間同士の関係においてこそ実践されるべきであり、それが聖書的なゆるしの理解であるといえます。

さらに、「神のゆるし」を絶対視することは、神学的にも哲学的にも問題があると指摘されています。例えば、神秘主義神学の伝統では、「神はゆるしを必要としない」という考えが存在します。ノーウィッチのジュリアンによれば、神との合一が完全であるため、神に対する罪の可能性がなく、したがって「神のゆるし」も成立しないとされます。このような視点は、「神のゆるし」に過剰に依存する神学の限界を示唆しています。

また、人間のゆるしには、被害者の視点から考える重要性があります。フランスのカトリック教会が第二次世界大戦中のユダヤ人迫害に関し、被害者であるユダヤ人ではなく神にゆるしを求めたことは、デリダから批判されています。この事例は、「神のゆるし」に依存することが、被害者の傷や正義に向き合う責任を回避するものとして機能しうることを示しています。

結論として、ゆるしは人間の行為としての性質をより強調すべきです。神学的には、神のゆるしも存在しますが、それが人間のゆるしを代替するものではありません。イエスの教えに倣い、ゆるしを人間同士の関係性の中で実践し、それを通じて神の意志を体現することが、ゆるしの本質を理解する鍵となるのです。

 

参考文献:「ゆるしの神学と人間学」森本 あんり PDFファイル