ギャップはあるよね

 牧師をやっていると、言っていることとやっていることがちがうよ、って言われることがよくありますよ。妻にもいわれますしね。ちょっと傷つくけど事実だからしょうがない。

牧師は特にそうだとおもうけれど、自分が聖書からメッセージで語ったことと、自分の行動が噛み合わないときや自分の中にあるギャップを、いつも感じているものだから。

理由は簡単で、聖書は「神の言葉」であるなら、神の言葉と行動が完全に一致する存在は、ただイエス・キリストのみだから。

もし、牧師が「自分も出来ないのに、こんなことを言ったら気が引けるから」と、聖書を語りながらも、「ただ自分ができそうな範囲だけ」とか「自分が受け入れられる範囲だけ」にしておこう、なんておかしいでしょう。

「自分が言ったことと、自分の生活、行動が一致できそうな範囲の言葉」を語るのが牧師は務めじゃないんだから。

 聞く人も、そんな「牧師にできる範囲の言葉」「牧師が理解できる範囲の言葉」を聞きにくるわけじゃなくて、イエスが語られた「神の言葉」そのもの聞きたくて、求めているわけだから。

もちろんまず牧師自身が、一人の聴衆として、イエス様の言葉を求め必要としているわけだから。

だから、ただ牧師が自分にできそうなこと、自分が受け入れ理解できること。つまり、自分の中から出てきた言葉だけを、語って、それを自分で聞いているだけなら、何も変わらない。ただの独り言にちかいでしょう。

聖書のメッセージを聞いて、従うか従わないかはともかく、それを一番必要とし、一番最初に聞くべき聴衆の一人が、当の牧師なのだから。

いずれにしろ、相手は神の言葉です。あのイエスの言葉なんです。

相対的な、人間の哲学でも思想でもない。完全に聖である神の言葉。

その意味では、罪人の一人でしかない牧師は、もう自分のことを棚に上げなければ、到底語れないにきまってる。

たとえば

「敵を愛しなさい」しかり

「悲しむものは幸いだ」しかり

「互いに愛し合いなさい」しかり


 わたしも、メッセージで語るイエス様の言葉と、自分自身の行動や生活のギャップを感じることは、日常茶飯事。当然ある。自分がなさけないなーという現実に直面させられることはいつものこと。だから、こんなものがイエス様の言葉をかたっていいのか、という恐れもある。いや、なければむしろ危ない。自分は、自分が語る言葉を、完璧にいきていると勘違いしているわけだから。


だから、牧師って、礼拝において語ること、言っていたことと、自分自身の生活や行動のギャップは、どうしてもあるんですよ。その自分でもどうしようもない部分、罪の現実に蓋はできない。

でも、であるからこそ、その自分ではどうしようもない部分を、罪を、汚れを知らされるほどに、そんな自分が、十字架による神の赦しをいただいている、という信仰の土台に、引き戻されるし、人がなんといおうと、自分を存在させた天の親から、赦され愛されている確信は、ますます揺るがなくなるんです。

逆説的だけれども、ダメな人間だと自覚しているから、自分を棚に上げて、神の言葉を語るしかないし、その言葉によって照らされた自分の罪への、ゆるしの恵みである十字架に人一倍すがる。


聖書の言葉は、だれがかたろうと、神の言葉は神の言葉として、それを聞いた人の中で生きて働き、良い実を結ばせる。神が働かれるから。


ただそのことを信じて、牧師であろうと信徒であろうと、ある意味「自分を棚に上げて」大胆に、まっすぐイエス様の言葉を語るだけなんです。