「知っていただきたいことがあります」(花小金井キリスト教会 2017年6月11日主日礼拝メッセージ)

使徒言行録2章14節〜36

今日も、はじめての方がおられますね。
ひとり一人、神様の霊の促しを受けて、
聖霊の風に吹かれて、ここに集まってきました。

先週はペンテコステの礼拝でしたね。
十字架に死に、復活したイエスさまは、今や、「聖霊」として、あの弱々しかった弟子たちの上に、降られ、宿られた。

すると、弟子たちは、口々にその「神の偉大な業」を語り始めていく。

その「神の偉大な業」つまり「福音」は、あの時から2000年も経った今日も、今、この場所で語られ、聞かれている。

そう思いますと、わたしたちは、実に大きな、神の救いの歴史の中に、生かされているのだなと、思うのです。

ひとりひとりの人生も、山あり谷ありですし、つい、目の前の出来事で、心がいっぱいになって、失望してしまうこともありますけれども、

でも、そんな私たちの人生にも、あの2000年前から吹いている、聖霊の風に吹かれている、神の大いなる救いの業。「福音」の恵みを受けている、人生。

聖書ははるか昔のお話のようであるけれども、時をこえて、同じ、聖霊の風が吹くことで、聖霊が働かれることで、はるか昔に書かれた、聖書の言葉は、

今、この時の、私たちの現実に繋がる、生きている、神の言葉となるのです。

 そうでなければ、今に至るまで、この福音のために、人生を捧げる人が現れたりはしないではないですか。

週報に書きましたけれども、今月の最後の日曜日、25日は、伝道者になるために学んでいる神学生を覚えて祈る、「神学校週間礼拝」に、

今年はOさんという、神学生をお招きするのです。

土木の道を歩んでいたOさんは、会社の社長さんもしていたことがあるようですけれども、60歳の時にバプテスマを受けて、クリスチャンになって、しかも、すぐに夜学の東京バプテスト神学校に行き始めているのです。
いったいなにが起こって、そういう人生の大転換がおこったのだろう。その秘密を知りたい方は、25日の礼拝を楽しみにしていてください。

ただ、それぞれのユニークな人生の、状況や出来事は、ちがっても、わたしたちも、今ここにいるということは、その背後に「聖霊」の風が吹いていることであるし、そうでなければ、人は、イエスキリストを信じることも、礼拝することも、できないし、

かたちだけしてみても、それは、むなしいだけのことです。。

2000年前に、イエスが十字架に死に、骨になってしまっただけならば、その人のために、自分の大切な時間を、人生を使うなど、むなしいことではないですか。


しかし、聖霊風が吹くとき、イエスは確かに今も生きておられることがわかる。腑に落ちる。確かに今、自分の人生を導いていることが分かる。そして、この方に従って生きることこそ、最高に幸いな人生であることが分かる。腑に落ちる。


そんな聖霊の風に吹かれた、最初の弟子たちは、もはや黙っていられずに、「福音」を語りだしました。


それを見ていた周りの人々は、その光景に驚き、そして言うのです。

「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と。

聖霊の風が吹いてるのに、


その聖霊の風に吹かれた弟子たちを、外側からながめているだけの人たちは、

「あいつら昼間から、よっぱらってんじゃないか」としか、認識できなかった、というお話です。

そして、今日、朗読された箇所へと、お話は続くわけです。

「酔っぱらっている」と批判された、ペトロたちは、立ち上がって叫びました。


ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください」と。

「いまは朝の九時なのだから、わたしたちは、酒に酔っているんじゃないんです。

これはヨエルが預言していたことなんです」と言いました。

自分たちは「酔ってはいない」が、これは「ヨエル」の預言なんですって、こういう面白いところだけを、覚えて帰らないでくださいね。


旧約聖書にヨエル書という預言書があるのです。ペトロは、そのヨエル書から自由に引用しつつ、この出来事の意味を語るのです。


「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻をみ、老人は夢を見る」

そう昔、ヨエルが語っていた、すべての人に神の霊が注がれるということが、今、実現したのですと、ペトロはいう。


ポイントは一つ。旧約聖書の時代は、預言者とか王とか、選ばれた特別な人に、神の霊が注がれるということはあったけれども、

今や、すべての人に神の霊が注がれる、新しい時代が始まったのです。
という、ここに大切なポイントがあるでしょう。


このときのユダヤは、律法学者などの、エリートだけが、聖書を解釈し、教えることができる権威を、独占していたわけですが、

ペトロは、ヨエルの預言を引用して、


「いや、若者でも、老人でも、僕でも、なんであろうと、神はどのような人にも、聖霊を注いで、神の御心を、主イエスの心が、わかるようになる、新しい時代がやってきたのだ。


学者の権威や、古い言い伝えに縛られ、神殿礼拝を守る組織を、維持することで、ガチガチになっていた当時のユダヤ教

そして、それは、ユダヤ教だけの話ではなくて、後のキリスト教会も、いつのまにか、使徒の権威とか、教会が大きくなって、組織が固まっていくと、


初めのころの、自由な聖霊の働きが、聖霊の風がわからなくなっていくわけです。

この使徒言行録を書いたルカは、そういう時代の教会に向けて、もう一度、あの聖霊の風に自由に吹かれたあの原点に、立ち返ろうと、テオフィロの教会に向けて、この使徒言行録を書いたとも、いわれるわけです。


やがて1500年ほど経って、教会がすっかり、人の権威や組織の論理で、がんじがらめになった時には、

また聖霊の風が吹いて、「ルター」とか「カルバン」などの、宗教改革者たちの口を通して、

全ての人に神の霊は、注がれるのだ。

聖書は、教会の権威によって解釈するだけではなくて、ひとりひとりが、聖霊に導かれて読み、神の御心を聡里、主イエスを通して、ひとり一人が、直接、神と交わり、祈ることが出来ると、

宗教改革をおこして、プロテスタント教会が生まれたわけでした。


わたしたちはそのプロテスタントの中でも、その、ひとり一人に神の霊、聖霊が働くということ、ある意味徹底した教派なんです。

ひとりひとりに神の霊が注がれて、新しく生まれた人々が集まったら、牧師や神父がいなくても、昔からの伝統につながらなくても、そのあつまりは教会なのだと、集まった人々が、最初のバプテスト教会だったわけだから。

わたしたちバプテスト教会こそ、まさにこのヨエルの預言を、この時代に徹底していきている教会なんです。

牧師だけに聖霊が与えられているのではない、みんなに同じ聖霊が与えられている。

だから、牧師に権威など必要ないのです。聖霊に導かれて語るときに、聖霊に導かれている人々は、ちゃんとわかるわけだから。

硬直した権威主義に心が縛られて、

「あいつら、新しい酒に酔っぱらっている」という人々のなかで、


神さまはいつも、霊の息吹、聖霊の風に吹かれた人々を通し、

新しい神の働きをなさるのです。


わたしたちは、みんな、神の霊に吹かれ、神の幻と夢を語るひとり一人。

あざける人の側ではなく、喜んで、あざけられる、聖霊の風に吹かれる一人一人。

 さてペトロは、これはヨエルの預言が実現したのだと、語った後から、ながい説教、いわゆる「演説」を始めています。


この長いメッセージの中心は、こうです。

あのナザレのイエスは、十字架の死から復活させられ、今や王座につかれたのだ。ということです。

エスは、いまや主であり、メシア、この世界を救う救い主として、、王座に座られたのだ。


これがペトロの演説の中心です。簡単に言えば、「イエスは復活し、今も生きて、あなたを、この世界を救う、王となったのだ」ということです。

教会は、このメッセージを、「福音」として語り続けてきた集まりです。

これは、信じたら天国に行ける、というメッセージではないのです。死んだ後のことではなく、

むしろ、今、イエスは生きておられ、この世界を救う主、メシア。王となっておられるというメッセージ。

それをペトロは、ダビデの言葉、旧約聖書詩編から、いくつか引用しつつ、宣言するのです。。

これは説明でも、解説でもありません。宣言です。

そもそも、ペトロは、聖霊によって、神の働きを語っているのですから、神のなさったことを、人間が解説することなど、できるわけがありません。

ペトロは、説明ではなく、宣言するのです。

神は、十字架に死んだイエスを、復活させ、この世界の主、王、メシアとなさったのだと。

そして、私も今、この神の技を、説明などできません。ただ聖霊に導かれるままに、宣言するしかありません。

ペトロのように、「聞いてください。知っていただきたことがあるのです」といい、

「主イエスは、生きておられるのです。この世界の主は、イエスです。イエスはメシア、あなたを、世界を救うキリストです」

そう宣言するのが、わたしの役割です。

この使徒言行録を調べてみると、実に28回も、ペトロやパウロの説教、演説が出てくるのです。全体の3分の1が演説でしめられている。

ルカは、演説のもつ力を、よく分かっていたんじゃないか。

現代に生きる私たちも、演説のもつ力を、知っているのではないですか。
リンカーン大統領の有名な演説。
「人民の人民による人民のための政治」というフレーズは、だれもが忘れられない言葉でしょう。

バプテストの牧師。マーティン・ルーサーキングの有名な演説。

「私には夢がある」「I have a Dream」という歴史に残る演説を、知っておられるでしょう。

最後の部分は、こうでしたね。

「私には夢がある。いつの日かジョージアの赤土の丘の上で、かつて奴隷の子孫たちと、かつての奴隷所有者の子孫が、同胞として同じテーブルに着くことができる夢を」

この幻。夢。あの、預言者ヨエルが、若者は幻を、老人は夢を見ると語った、言葉を彷彿とさせる、すべての民が共に生きる、究極的な平和という幻。夢にも通じる。

キング牧師は、アメリカの歴史、そして憲法を、彼に働く霊の導きのなかで、再解釈した。そして、本当の自由、平等へと、人々の心を、奮い立たせた。


さて、かつては、主イエスを見捨てて逃げ去った過去をもつペトロは、

あの主イエスを十字架へと追い込んでいった、自分たちの裏切りも含めた、あの一連の出来事は、歴史は、

実は、神が、主イエスをその死と絶望から、起き上がらせ、復活させられ、この世界を救うという、神が定めた救いの計画、ストーリーだったのだ。

この「救い」を実現するために、つまり、イエスをメシア、キリスト、救い主となさるために定められていた、出来事、歴史であったのだと、

ペトロは、ダビデ詩編の言葉を引用し、聖霊に導かれて、それを再解釈しながら、力強く「宣言」したのです。

「彼はよみにすておかれず、その体は朽ち果てることがない」というダビデの語ったこの言葉は、キリストの復活を前もって語ったのだと、ペトロは、そして教会は、聖霊に導かれて、その言葉を再解釈しつつ、

ペトロは、その自分が語る言葉を、自分の存在をかけて裏付けて、

こう告げたのです。

「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」と。

「証人」と訳されたギリシャ語は、「殉教」という意味が含まれている。命をかけて、ペトロは、教会は、証言し、

そして、宣言するのです。

十字架についたイエスは、この世界の主であり、私たちを救う、メシアとなられたのだと。


カトリックの司祭で、晴佐久昌英(まさひで)という神父がいます。彼は今、日本のキリスト教のなかで、とても注目されている神父です。

彼が書いた「福音宣言」という本の、プロローグの言葉を、すこしご紹介させてください。

「福音は、説明ではなく、宣言である
宣言されて初めて福音は福音になり、
宣言して初めて福音を福音にできる。

福音とは説明によって理解するものではなく、宣言によって実現するものだからである。

迷子になって泣いている子どもにいくら「母の愛」について説明しても、泣き止むはずもない。しかし、母親が現れて我が子を抱きしめ、ひとこと「もうだいじょうぶよ」と言えば、ぴたりと泣き止む。

親が子に、語りかける。こどもの幸せのために、それ以上のなにが必要だろうか。

神は、語りかける方である。まことの親として、すべてのわが子に、無限の愛をもって語りかける方である。神のことばは完全だ。「光あれ」と語れば光があり、「生まれよ」と語ればこのわたしが存在する。世界とは語りかけられる存在であり、人間とは語りかけられるために存在する。
語りかけられることと、愛されることは、同じことだ。

またほかの書籍には、彼がその「福音宣言」を実践している、こんな証がありました。それをご紹介して、メッセージを終わりとします。


「二人の娘を残して、この世を去っていかなければならない母親の気持ちというものを、想像できるだろうか。

不治の病の告知を受けたその母親は、恐れと絶望の中で心を閉ざしていた。

若くして夫を病で失ってからは、娘たちのために必死に仕事と家事をこなしてきたというのに、末期と宣告されたのである。絶望して当然という状況だろう。

そういう方にお会いして、何かを語らなければならない神父の胸中というものも想像していただけるだろうか。

その母親の絶望を見かねた友人の紹介で、ある日の夕方、ぼくは病室をお訪ねすることになったのである。

初めてお会いする方、しかも信者でない方をお訪ねするのは気を遣うものだが、ましてこの状況となれば、ますます気後れする。

ぼくは、病室の前で胸に十字を切り、扉を開けた。

母親は、まさしく絶望していた。 一目見てそれがわかるという状況だった。彼女は焦点の定まらぬ目で、顔もあげずにつぶやき続けた「夫だけでなく、なぜわたしまでも……」「きっと治してみせると頑張ってきたのに……」「娘のことを思うと……」

そのような現場では、安易な慰めや、その場しのぎのことばは通用しない。つまり、人間の考えや工夫などは通用しない。通用するのはただひとつ、ここで語られる「神のことば」のみである。

ぼくは彼女の手を握り、まっすぐに目を見つめ、キリストになって宣言した。

「今日、ここにわたしを遣わしたのは、神です。神はあなたを愛しているからです。あなたに福音を伝えるためです。神はあなたを望んで生み、わが子として育て、今も限りない親心で生かしています。神の子であるあなたは死にません。永遠のいのちを生きるのです。もうすぐあなたは天に生まれ出て、二人の娘のために、生きていたとき以上に働くことができる。天のご主人とともに、今以上に娘たちを守ることができる。まことの親を全面的に信じて、安心してください」


三十分ほどの話だが、話すうちに、彼女の顔が目の前でみるみるうちに輝き出した。それは、劇的というしかない変わりようだった。地下牢から救い出されて、いきなりまぶしい春の野辺に躍り出た人のようだった。涙も出ないというこわばりが解けて、初めて彼女の目から涙があふれ出た。

一週間後、本人のたっての希望で、彼女の洗礼式(バプテスマ式)を行った。二人の娘に囲まれて、母親は確信に満ちた声で宣言した。

「わたしは、まことの親である神を信じます。神の愛そのものであるイエス・キリストを信じます。神の親心である聖霊を信じ永遠のいのちを信じます!」洗礼の水をかけられた彼女は、娘たちを見つめながら明るい声で繰り返した。「お母さん、うれしい。本当に、うれしい!」

三週間後、彼女は亡くなった。安らかな最期だった。告別式で長女があいさつした。「母は洗礼(バプテスマ)で救われました。バプテスマ式のとき、母の顔は本当に輝いていました。母の人生において、あんなに明るい顔は見たことがありません」

この世にうれしいことは数あるけれど、どんなこともやがては消えていく。

最もうれしいことは、永遠なるものに触れ、永遠なることを信じることではないか。あの輝く顔は、間違いなく永遠なる世界の輝きを宿していたと思う。

「あいつら、酒に酔っているんだ」と、あざけるだけの人々に、

ペトロは「知っていただきたいことがあるのです」と立ち上がり、力強く宣言します。

あの方は、いきているのです。死んだままじゃないのです。

エスは復活させられたのです。本当なのです。

わたしたちは皆、そのことの証人なのですと。