「死の彼方から響く声」(2016年11月6日花小金井キリスト教会 主日礼拝メッセージ)

ルカによる福音書16章19節〜31節

先週の礼拝では、無事にT君の西南神学部の試験が無事に終わりましたと、ご報告しましたけれども、うれしいことに、今日は、無事に合格しましたと、ご報告できることを感謝しています。後で、報告の時間に、本人から、ひとこと言ってもらいましょうね。

Tくんは昔学生のころ、生きることに絶望して、死ぬことばかり考えていたあるとき、街角でギデオン協会の人が配っていた、一冊の聖書を手渡されて、聖書のみ言葉に出会って、救われて、その救われた自分の命を、神様のために使いたいって、キリスト教のラジオ局で働いてきたけれど、でもやっぱり、目の前の一人の人に、どんな田舎にいってでも、福音を語りたいって、牧師になろうと、新しい一歩を、踏み出していく。

死にそうだったT君に、聖書を渡してくれた、名前はわからないその人は、まさか自分が渡した聖書が、こういう実りを生み出しているとは、夢にも思っていないでしょう。そして、これから牧師になっていくT君をとおしてどれほどの豊かな実りが、この世界に広がっていくか。その名前のわからない、聖書を手渡したは、知る由もない。

さて昨日は、はれるやキッズがあったんですよ。土曜日の子ども会ですけれども、昨日も、先々週も、こどもはうちのY希くんだけだったんです。そのたった一人のために2時間、担当の人が、一緒に過ごし、遊んでくれました。思いっきりYくんの友達になってくれました。一人のために。

その貴重な時間が、やがてどれほど豊かな実りを、この世界にもたらすかは、天の神様だけがご存じ。

目の前の一人の人の喜び、悲しみを、共に喜び悲しむ仲間になろう。
それが私たち教会が、今年度大切に握りしめている、み言葉です。
そしてそれは、今日与えられた聖書の言葉、ラザロと金持ちのたとえ話のテーマでもあるわけです。


単純にこの聖書の話を読むなら、なにやら死後の話をしているように思うでしょう。

生きているうちによい思いをした人は、死んだあとは陰府に落ち、生きているうちに悪い思いをした人は、死んだあと、よい思いができる。

そんな話に読めてしまう。

でも、最近の聖書の学者の中で、この話が、死後の話を語っていると解説する人はいないのです。

そもそも、こういう死後の話、教訓的なたとえ話は、イエスさまのオリジナルではなく、どの国にもあるお話です。もちろん当時のユダヤにもあったのです。

似たようなお話で、「ファリサイ人と 徴税人バル・マヤンのたとえ話」というものがあったそうです。

おそらく、貧しいファリサイ人と、金持ちの徴税人が、死んだあとにどうなったか、というお話でしょう。

主イエスは、そのような当時のユダヤの人々のなかに、語り継がれていたお話、死後のイメージを、ここで「あえて」たとえ話として、使っているのです。

それは、死後の話をしたいからではなく、むしろ別のメッセージを伝えるためなのです。主イエスはよくこういうことをなさいます。

たとえば主イエスが語られた「種まきのたとえ」。あの話も、当時のユダヤ地方の種まきの話をしながら、実は、神の国の話をしておられたわけです。神は、み言葉の種を、どんな土地にも蒔いているし、神はちゃんと30倍、60倍、100倍に実らせるという、福音を語るために、あえて、みんながよく知っている身近な、種まきの話を使われる。

それがイエスさまのやりかたですから、今日の、この金持とラザロの話も、みんながよく知っていた、まずしいファリサイ派と、金持ち徴税人のお話を、逆につかって、なにかを伝えようとしておられるわけです。

そもそも、死後の世界が、本当にこういうものだとしたら、不安になりませんか。

「こんなわたしは、陰府におちるんじゃないか」と思ったり、「あの人はわたしよりお金持ちだから、きっと陰府だね」なんて、変な話になるでしょう。

そもそも、こういう死後の考え方。つまり、生きている時に苦しんだ人は、死んでからいいところに行き、生きている時に、よい思いをした人は、死んでから悪い所に行くという、こういう考え方を突き詰めていって、テロを起こしたのが、あのオウム真理教だったわけですから。

「ポア」するという言葉がはやりましたでしょう。「ポア」とは、仏の世界に送るということです。サリン事件を引き起こし、人を殺したのも「ポア」するため。

なぜなら、苦しんで死んだ人ほど、極楽浄土に行けるのだから。この考え方は恐ろしいのです。苦しめて殺してあげたほうが、死んだあと幸せになる。「ポア」してあげましょう、なるのだから。


どうかくれぐれも、主イエスは、そういう事を教えておられるのではないことを、知っていただきたい。

そもそも、わざわざこんな死後の話をしなくても、こういう話は、当時よく知られていたわけです。そのよく知られていた話を、イエスさまは「あえて」使って、だれかに、大切なメッセージを伝えようといている。

ここに注目していただきたい。

その「誰か」とはだれでしょうか?

それは、まず、この話を直接聞いている、ファリサイ派の人々なのです。


先週のメッセージでは、すこし前の聖書の箇所を読みましたね。

そこでは、「金に執着するファリサイ派」の人々が出てきました。彼らは、イエスさまが、「神」に仕えるか、「金」に仕えるか、どちらかなのだと言われたのを聞いて、あざ笑ったという、お話でした。

あざ笑った彼らは、もちろん自分たちは、だれよりも神に仕え、神を第一にし、神の律法を守っていると思い込んでいたわけです。

しかし、実は「神」ではなく「金」に執着し、「金」に仕えているんじゃないかと、

さらに、この「ラザロと金持ち」のたとえ話を通して、主イエスは問いかけておられる。


その前提で読むと、この不思議なお話も、すっきりしてきます。

なにが不思議かといえば、この貧しいラザロが死んだあとに行く場所は、天国ではなくて、アブラハムのすぐそばと言われているでしょう。

アブラハムのそばにいく。それは当時のユダヤ人、とくに熱心な信仰者、ファリサイ人たちにとっての希望だったのです。

自分たちユダヤ民族の始祖。信仰の父、アブラハムに連なっている自分たちこそ、死んだのちにアブラハムのもとに行けるのだ。

しかし、汚れた異邦人や、裏切り者の徴税人、律法を守れない罪人、重い皮膚病を患う人、貧しい人は、きっと罪を犯しているのだから、死んだなら、陰府にくだることだろう。

そういう考えかたを、ファリサイ派の人々はしていたようなのです。

エスさまは、あえて、彼らのその考えを使って、むしろ話を逆転させた。

アブラハムのちかくに行ったのは、あなた方、ファリサイ派の人たちではなくて、むしろ、あなた方が見下していた人とたちだったというたとえにして語っている。

つまり、このいつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちは、

「神」に仕えているようでいて、実は「金」に執着しているファリサイ派。あなた方のことだろうと、問われている。


このたとえ話の中の後半、金持ちが陰府の苦しみの中で、自分の兄弟5人が、こんな苦しいところに来ないように、ラザロをつかわしよく言い聞かせてくださいと、言うでしょう。

ところが、その願いに対する答えは、「モーセ預言者」に聞け。つまり律法に耳を傾けよ、ということだった。

モーセ預言者」つまり、神の御心、神の律法を、ファリサイ派と律法学者たちは、自分たちが守れる都合のいい教えに変えてしまった。

彼らが守っていたのは、律法ではなく、自分たちが作り出した人間の教えにすぎない。

 だからちゃんと「モーセ預言者」、神の律法に耳を傾けよ。

これがこのたとえ話の中心メッセージ。

もう律法はわかっている、十分知っていると聞き流さず、

「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛しなさい」というこの律法の理想に、真摯に耳を傾けるなら、

自分がいかに、その理想から離れているか、神も、隣人も愛せないものであるかに、気づくでしょう。

目の前の「ラザロ」を愛してこなかった自分に、気づくでしょう。


 今日のたとえ話のなかでラザロは、金持ちの家の門前にいたとあります。すぐ近くに「ラザロ」はいたのです。

そしてこの金持ちは「ラザロ」の名前を知っていたのです。知っていたからこそ、彼は「ラザロ」を遣わしてくださいと、いったわけだから。

 「ラザロ」とは、見ず知らずの貧しい人のことでも、どこか遠くの、名も知らない人のことでもなく、すぐそばにいる、名前を知っている人のこと。

 ファリサイ派の人々にとっては、あの汚れたものたち、と見下し、切り捨てていた、徴税人や遊女、罪人とよばれた、すぐそばにいた人々。

 そしてそういう人々から離れ、自分たちが作った安全な囲いのなかで、ある意味「贅沢に遊び暮らしている金持ち」のようだったファリサイ派の人々。

ですから、これは、お金持ちとか、貧しいということを超えた、神様の前における、生き方の問題。

ですから、わたしたちには関係ないとはいえません。いつの時代も、こういうファリサイ派的な生き方。自分の心地よい場所を守り、その心地よい囲いの中で、お城の中で生きながら、すぐ近くにいる「ラザロ」を切り捨てていることが、きっと、わたしたちにもあるはずだから。


モーセ預言者」に耳を傾ける。

もうわかっています。知っていますと、耳をふさがないで、

今日、いや今、聞こえてきた、神の言葉に、耳を傾け、悔い改めたいのです。

今、目の前にいる「ラザロ」に、身近にいる「ラザロ」に、自分は何をしてきたのか。何をしてこなかったのかと。

なにも、死んだ「ラザロ」がよみがえって、幽霊のように脅かさなくても、主イエスは復活し、今も生きて、今日、今、神の言葉を語っておられるのですから。


今、主イエスをとおして、聞こえてくる神の言葉に、まっすぐに心を開き、耳を傾け、

わたしたちの身近にいる、「ラザロ」と、つながりましょう。

友となりましょう。わたしたちの近くに、神がおいてくださった「ラザロ」と。

それは、お金の関係。上から下へと、恵んであげるという関係ではなく、

共に神に愛されている神の子として、友となるということです。横の関係でつながることです。

先月の礼拝で、「不正な管理人」のたとえを読みました。

そのたとえのなかで、主イエス

「不正な富を用いても、友人を作りなさい。」とさえ言われました。

それが、永遠の住まいに迎え入れられるあなた方にふさわしい生き方だと。

お金は、人と人とがつながるために使うのだと。

人と人とを争そわせ、バラバラにする金の使いかたではなく、人と人とがつながるためにこそ、使う。

それが、神に仕えるあなたにふさわしい。

さらに、あの人と、この人と、神があなたのそばに置いた「ラザロ」と、つながるために、与えられた時間と富をつかいたい。

それが、永遠の住まいに、迎え入れられる、わたしたちの生き方だから。


十字架に死に、しかし復活なさった、死の向こう側から響ていくる、主イエスの声に、

今も生きておられ、語りつづけておられる主イエスの声に、

モーセ預言者」100パーセントを実現した、主イエスの声に、

今日、わたしたちは耳を傾けます。


今日、あなたの門前(もんぜん)に、だれが座っていますか。

昨日のはれるやキッズには、3年生のラザロくんが座っていました。

そして、10年ほどまえ、死にそうだった一人のラザロくんに、道端で聖書をわたした人がいました。

今日、わたしたちの門前には、だれが座っていますか。

今も生きておられる主イエスの声が、

モーセ預言者」の声が、聞こえますか。