今日は雨の中、教会の召天者記念礼拝を行うために、バスで富士霊園まで出かけました。
車で直接現地に赴かれた方々を含めると、総勢50名
例年、教会の墓地の前のスペースに、椅子を並べて、そこで賛美歌を歌ったり、聖書のメッセージを聞いたりして、礼拝を捧げるのです。
雨なのでテントを張っていただきましたが、とても50人がその狭いテントの中で礼拝をすることは無理。
そこで結局、礼拝はバスの中で行うことになりました。
納骨式もすることになっていたので、それは墓地の前でご遺族とともに短く行いました。
わたしも、参加されたみなさんも、バスのなかでの礼拝体験は、初めて。
バスの中で、賛美歌を歌い、祈り、献金をし、聖書の言葉にみんなで一緒に、耳を傾ける。
バスの席に座っている人々に、メッセージを語るという、なれない、いや初めての体験。
忘れがたい礼拝となりました。
メッセージを以下に記しておきますね。
召天者記念礼拝メッセージ
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
明日から新しい元号「令和」に変わるということで、いわゆる今日
なんだか、「最後の日」という言い方は寂しい感じがしますね。
「始まったものは、いつか終わりがくる」
「生まれたものは、いつか死を迎える」という、そういう寂しさで
天皇も人間ですから、当然といえば当然。
しかし、それでは、「西暦最後の日」はどうでしょうか?
イエスキリストが、この世界に誕生したことを覚え続ける西暦は、
おわるどころか、おそらく、これからも終わる予定はありません。
死から復活し、今も生きておられる、命の支配者。
イエス・キリストには、代替わりなどないからです。
そして、イエス・キリストに愛され、イエス・キリストを愛し、
この方の命、復活の命をいただいた人もまた、
たとえ死んでも生きるのだ。生きていて、イエスを信じる人は、死
イエスキリストの言葉を、今、わたしたちは聞きました。
思えば去年は、Fさんを天にお送りし、そして今年1月には
ここに集う方々の愛する方の名も、刻まれていることでしょう。そ
「地上最後の日」はやってきます。
ただ、聖書はその日のことをいわゆる「最後」とは言わないで、「
眠っているのであって、終わったのではない。
新しい始まりの日に向かって、ひと時の間、眠っているのだと、そ
その新しい目覚めのことを、聖書は「復活」と表現します。
復活こそ、死ぬべき人間にとって、究極の希望であり、
その「復活」は本当なのだということを、この世において、最初に
「イエスキリストは復活」した。それは同時に、私たちも、神が「
こうして遠く「教会の墓地」までやってきて、イエス・キリストの
今は見えない愛する人々も、そしてわたしたち自身も、
実は、「終わりの日」などこない、永遠の命。
復活のいのちに、今すでに、与っていることを、
上を見上げて確認するため。そして感謝を献げるために、この場所
ところで、話は変わりますが、今年1月に天に召された、Aさんは、花小金井教会のメンバーの中で、教会からとても近い所に
よく小さなリュックを背負って、街中を散歩しておられました。わ
ですから、わたしは今でも、街中を歩く時に、Aさんの面影のあ
特に、白髪で神の毛がくるくるしている女性の方とすれ違うと、一
そのたびに、Aさんは、今も生きておられるという、そんな感覚
逆を言えば、それほど、急なお別れでした。
今、朗読していただいた聖書の箇所は、ラザロという男性が亡くな
マルタとマリアという姉妹がいて、ラザロはその兄弟です。
そして、この3人とイエスさまは親しい関係だった。
しかし、ラザロが重い病気になり、死にそうになったとき、イエス
亡くなった後、4日たってからイエスさまは、ラザロのところに駆
ですから、お姉さんのマルタは、すこし残念な気持ちもあったので
この姉さんのまるたの気持ちは私たちも分かる気がします。
もしあの時、そばにいてあげることができたら。
もしあの時こうしてあげていたら。
もし、あの時・・・
愛する人の死の悲しみの故に、もしあの時、こうしていたら、愛す
そういう思いが湧き上がってきてしまうことを、経験することがあ
私自身、一人暮らしの父を見送ったあと、そういう思いになったこ
そうやって、過去を振り返り、答えなどあるわけのない問いを、な
その辛い問い。どうしてですかと、問わずにいられなかった、マル
その心の思いを、イエスさまは、まっすぐに受けとめてくださいま
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死なな
しかし、この悲しい出来事は、悲しみで終わらなかった。
それは、マルタが、このような言葉を語ったからです。
「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神は叶えてくだ
これは驚くべき、信仰の言葉です。
きっと、ラザロが病気の時、マルタは必死になって、ラザロが死な
しかし、その必死な祈りも願いもむなしく、ラザロは死んだ。
にもかかわらず、マルタはここで、なお神を信頼しているのです。
それは、自分の願いをかなえてくださる方として、神を信頼してい
そうではなく、今、目の前にいるイエスの願いを、神は聞いてくだ
どういうことか?
それは、神を信じる自分の祈り、その熱心さに、神が応えてくれる
たとえ、自分の願い通りではなくても、なぜ、今、このようなこと
なお、イエス様。あなたの愛の思い、あなたの真理こそが、
神の御心とまったく一つであるゆえに、
必ず実現する日がくることを、信じていますという、信仰、信頼な
先ほど、読み上げられた、一人一人のお名前の背後には、それぞれ
その人生、歴史は、本人にとっても、家族にとっても、まったく思
思いもしなかったこと。思いもしなかった時。そんな、人間の思い
しかし、にもかかわらず、ここに集ったわたしたちが、
こうして、そのかたがたの名を読み上げ、神への感謝の礼拝を献げ
わたしたちの思いや願いを超えて、そのお一人お一人の人生に、歴
ただ、イエスさまの愛の御心が、実現しますようにと、愛する人を
この、マルタのように。わたしたちも。
そして、そうやって、イエスさまへの、信頼の告白をしたマルタに
イエスさまは「あなたの兄弟は復活する」と告げ、
さらに、
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも
いきていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。こ
このような言葉を、確信を持って宣言できる存在を、わたしたちは
死んでも生きる命。ゆえに、死ぬことのない命。
地上の死とは、「眠り」であり、やがてくる新しい始まりの日に、
イエスを信じ、信頼する命は、もはや死ぬことのない命にいきてい
「あなたはこのことを信じるか」「信頼するかと」と、この問いか
すでに、眠りについた人々、そしてやがて眠りにつくわたしたちも
神への信頼に生きるいのちに、生かされています。
それは、たとえるなら、お母さんのおなかの中にいる赤ちゃんのよ
神によって守られ、生かされ、養われ、すやすやと眠りながら、
やがて時が来れば、新しい世界へと生まれていく。
赤ちゃんは、お母さんのおなかの中に入るときは、お母さんがあま
わたしたちが、神が見えない、神がわからないのは、神が遠くに折
さきに眠りについた、あの人、この人が、見えなくなってしまった
遠くの世界に入ってしまったからではなく、あまりに近くにいるか
やがて、天にいけば、わかるでしょう。
なんだ、あの方も、この方も、こんなにそばにいたのかと。
気のせいだとおもった、あの時の、あの白髪の女性は、あなただっ
そして、あの一番辛かったとき、さびしかったとき、支えてくれた
あなたは、だれよりも、わたしたちのそばにいてくださったのです
イエスキリストも、そしてイエスさまを信じる一人一人も、
死ぬことなく、いまも、生きているのだから。
祈りましょう。