バスの中での礼拝

今日は雨の中、教会の召天者記念礼拝を行うために、バスで富士霊園まで出かけました。

車で直接現地に赴かれた方々を含めると、総勢50名

 

例年、教会の墓地の前のスペースに、椅子を並べて、そこで賛美歌を歌ったり、聖書のメッセージを聞いたりして、礼拝を捧げるのです。

 

雨なのでテントを張っていただきましたが、とても50人がその狭いテントの中で礼拝をすることは無理。

 

そこで結局、礼拝はバスの中で行うことになりました。

 

納骨式もすることになっていたので、それは墓地の前でご遺族とともに短く行いました。

 

わたしも、参加されたみなさんも、バスのなかでの礼拝体験は、初めて。

バスの中で、賛美歌を歌い、祈り、献金をし、聖書の言葉にみんなで一緒に、耳を傾ける。

バスの席に座っている人々に、メッセージを語るという、なれない、いや初めての体験。

 

忘れがたい礼拝となりました。

 

メッセージを以下に記しておきますね。

 

 

 

召天者記念礼拝メッセージ

ヨハネによる福音書 1117~27 

さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。 

マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。 

マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 

 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 

エスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。 

エスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 

生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 

マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 

 

 

明日から新しい元号「令和」に変わるということで、いわゆる今日は「平成最後の日」なのだそうです。

なんだか、「最後の日」という言い方は寂しい感じがしますね。

「始まったものは、いつか終わりがくる」

「生まれたものは、いつか死を迎える」という、そういう寂しさでしょうか。

天皇も人間ですから、当然といえば当然。

しかし、それでは、「西暦最後の日」はどうでしょうか?

エスキリストが、この世界に誕生したことを覚え続ける西暦は、エスキリストが十字架につけられ、死んだ西暦30年でおわりましたか?

おわるどころか、おそらく、これからも終わる予定はありません。

死から復活し、今も生きておられる、命の支配者。

イエス・キリストには、代替わりなどないからです。

そして、イエス・キリストに愛され、イエス・キリストを愛し、

この方の命、復活の命をいただいた人もまた、

たとえ死んでも生きるのだ。生きていて、イエスを信じる人は、死ぬことがないのだと宣言する、

エスキリストの言葉を、今、わたしたちは聞きました。


思えば去年は、Fさんを天にお送りし、そして今年1月には、Aさんが、天に招かれ、教会の墓地に、その名前が刻まれることになりました。

ここに集う方々の愛する方の名も、刻まれていることでしょう。そして、もしかして、やがてわたしたち自身の名も、ここに刻まれる日。

「地上最後の日」はやってきます。

ただ、聖書はその日のことをいわゆる「最後」とは言わないで、「眠りについた」のだと、表現するのです。


眠っているのであって、終わったのではない。

新しい始まりの日に向かって、ひと時の間、眠っているのだと、そう告げるのです。

その新しい目覚めのことを、聖書は「復活」と表現します。


復活こそ、死ぬべき人間にとって、究極の希望であり、

その「復活」は本当なのだということを、この世において、最初に示された、神の出来事が、十字架に死に、墓に葬られた、イエスリストの「復活」であったのです。


「イエスキリストは復活」した。それは同時に、私たちも、神が「復活」させてくださる、希望と約束の出来事。

こうして遠く「教会の墓地」までやってきて、イエス・キリスト名によって、神に礼拝を捧げるのは、

今は見えない愛する人々も、そしてわたしたち自身も、

実は、「終わりの日」などこない、永遠の命。

復活のいのちに、今すでに、与っていることを、

上を見上げて確認するため。そして感謝を献げるために、この場所にやってきています。


ところで、話は変わりますが、今年1月に天に召された、Aさんは、花小金井教会のメンバーの中で、教会からとても近い所に住んでおられました。


よく小さなリュックを背負って、街中を散歩しておられました。わたしはスーパーに買い物にいくと、よくばったりお会いしたものです。

ですから、わたしは今でも、街中を歩く時に、Aさんの面影のある方を見かけると、一瞬ドキッとします。

特に、白髪で神の毛がくるくるしている女性の方とすれ違うと、一瞬「え」っと、ドキッとすることが、なんどかありました。

そのたびに、Aさんは、今も生きておられるという、そんな感覚を感じたものです。

 

逆を言えば、それほど、急なお別れでした。



今、朗読していただいた聖書の箇所は、ラザロという男性が亡くなり、墓に葬られ、4日も経っていたという話から始まっています。

マルタとマリアという姉妹がいて、ラザロはその兄弟です。

そして、この3人とイエスさまは親しい関係だった。

しかし、ラザロが重い病気になり、死にそうになったとき、イエス様は、ラザロのそばにいなかったのです。

亡くなった後、4日たってからイエスさまは、ラザロのところに駆けつけることになります。

ですから、お姉さんのマルタは、すこし残念な気持ちもあったのでしょう。「もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」と言いました。

この姉さんのまるたの気持ちは私たちも分かる気がします。

もしあの時、そばにいてあげることができたら。
もしあの時こうしてあげていたら。
もし、あの時・・・

愛する人の死の悲しみの故に、もしあの時、こうしていたら、愛する人は死ななかったのではないかと、そういう仕方で、自分を責め、人を責めてしまう。

そういう思いが湧き上がってきてしまうことを、経験することがあるかもしれません。

私自身、一人暮らしの父を見送ったあと、そういう思いになったことがありました。

そうやって、過去を振り返り、答えなどあるわけのない問いを、なげかけてしまうという、心の傷を感じることもあるでしょう。


その辛い問い。どうしてですかと、問わずにいられなかった、マルタの思い。

その心の思いを、イエスさまは、まっすぐに受けとめてくださいました。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」

しかし、この悲しい出来事は、悲しみで終わらなかった。

それは、マルタが、このような言葉を語ったからです。


「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神は叶えてくださると、私は今でも承知しています」と。

これは驚くべき、信仰の言葉です。

きっと、ラザロが病気の時、マルタは必死になって、ラザロが死なないようにと、神に願い、祈ったはずです。

しかし、その必死な祈りも願いもむなしく、ラザロは死んだ。

にもかかわらず、マルタはここで、なお神を信頼しているのです。

それは、自分の願いをかなえてくださる方として、神を信頼しているのではありません。

そうではなく、今、目の前にいるイエスの願いを、神は聞いてくださると、そのように信頼しているのです。

どういうことか?

それは、神を信じる自分の祈り、その熱心さに、神が応えてくれるという、神を動かそうとすることが、神への信仰なのではなく、

たとえ、自分の願い通りではなくても、なぜ、今、このようなことがという、出来事を前に、

なお、イエス様。あなたの愛の思い、あなたの真理こそが、

神の御心とまったく一つであるゆえに、

必ず実現する日がくることを、信じていますという、信仰、信頼なのです。


先ほど、読み上げられた、一人一人のお名前の背後には、それぞれの人生、歴史があった。

その人生、歴史は、本人にとっても、家族にとっても、まったく思い願ったとおりだったとは、いえないこともあるでしょう。

思いもしなかったこと。思いもしなかった時。そんな、人間の思い通りにはならない人生を、歴史を、お一人お一人が、歩まれたに違いない。


しかし、にもかかわらず、ここに集ったわたしたちが、

こうして、そのかたがたの名を読み上げ、神への感謝の礼拝を献げているのは、

わたしたちの思いや願いを超えて、そのお一人お一人の人生に、歴史に、イエスキリストの愛の御心は、ちゃんと実現しているのだと、信頼しているからです。

ただ、イエスさまの愛の御心が、実現しますようにと、愛する人すべてゆだねたからです。


この、マルタのように。わたしたちも。

そして、そうやって、イエスさまへの、信頼の告白をしたマルタに

エスさまは「あなたの兄弟は復活する」と告げ、

さらに、

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
いきていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と宣言なさったのです。。


このような言葉を、確信を持って宣言できる存在を、わたしたちはほかに知っているでしょうか。



死んでも生きる命。ゆえに、死ぬことのない命。

地上の死とは、「眠り」であり、やがてくる新しい始まりの日に、目覚めるまでの、いっときの「眠り」についたにすぎない。

エスを信じ、信頼する命は、もはや死ぬことのない命にいきている。


「あなたはこのことを信じるか」「信頼するかと」と、この問いかけに、
すでに、眠りについた人々、そしてやがて眠りにつくわたしたちも、「はい、信じます」と答えることができる、

神への信頼に生きるいのちに、生かされています。

それは、たとえるなら、お母さんのおなかの中にいる赤ちゃんのように。
神によって守られ、生かされ、養われ、すやすやと眠りながら、

やがて時が来れば、新しい世界へと生まれていく。

赤ちゃんは、お母さんのおなかの中に入るときは、お母さんがあまりに近すぎて、見えないように。

わたしたちが、神が見えない、神がわからないのは、神が遠くに折られるからではなく、あまりに近いからかもしれません。

さきに眠りについた、あの人、この人が、見えなくなってしまったのは、
遠くの世界に入ってしまったからではなく、あまりに近くにいるからかもしれません。

やがて、天にいけば、わかるでしょう。

なんだ、あの方も、この方も、こんなにそばにいたのかと。

気のせいだとおもった、あの時の、あの白髪の女性は、あなただったのですねと、天にいったら、わかるかもしれない。

そして、あの一番辛かったとき、さびしかったとき、支えてくれたあの人は、あの歌は、あの言葉は、イエスさま、あなただったのですね。

あなたは、だれよりも、わたしたちのそばにいてくださったのですねと、分かる日が、きっとくる。

エスキリストも、そしてイエスさまを信じる一人一人も、

死ぬことなく、いまも、生きているのだから。

祈りましょう。