み言葉と祈りこそ

 最近、わたしの書棚にあった本を手にして読み返していたとき、以下の文章に目が止まりましたので、長文ですがご紹介します。

 

「・・注目すべきことは、福音主義教会の衰退が始まったのは、どんな犠牲を払ってでも<世のための教会>になろうと試み始めた時からである! 1944年に「教会は他者のために存在するときにのみ教会である」と書いたのはデートリッヒボンヘッファーであった。

1945年以降の福音主義教会は、この言葉を心に刻んだが、残念ながらそれは半分の真理でしかなかった。何故かと言えばこの「他者のための存在」であろうとして、自分が教会であることをだんだんと忘れていったのである。そして、ますます社会活動と、楽しみを与えることに埋没していった。デートリッヒボンヘッファーがしかしそこで言おうとしていたことは、少なくとも、世俗性の次元と共に、教会の次元をも同じように真剣に取り上げるということであった。およそここで発見ということを語ることを許されるとすれば、であるが、それがまさに彼の発見であった。

ボンヘッファーは獄中にあって、他の囚われの人々の間にあって、完全にこの世的に生きなければならなかった。しかしそれにもかかわらず、看守からも囚人の仲間からも、一人の司祭でもあるかのごとく、告解を聞くことを求められた。ここには、一人の<教会の人>が生きており、ただひとり、毎日、聖書と祈りによって自分を養っているという噂が広まったのである。まさにこのような祭司的なものこそ、今日にかけているものであると、私は寂しく思う。」

(「慰めの共同体・教会」クリスティアン・メラ−)

 

 著者のクリスティアン・メラ−はドイツのハイデルベルグ大学で実践神学を教えていた神学者です。さてドイツの教会の衰退を憂う著者のこの言葉は、ドイツだけのことだろうかと、思わされます。

教会がボンヘッファー言葉に触発され、教会から地域の人々へと届こうと取り組んだその歩み。しかしいつしか「教会であることをだんだん忘れ」「社会活動」「楽しみを与える」ことへと埋没し、結果的に教会が衰退していくことになったのだと告げるこの神学者の言葉に、正直驚いています。 

 

さて「世俗性の次元」と「教会の次元」という言葉を、わたしなりの理解で以下のように表現してみます。

 

①「世俗性の次元」・・・目に見えること。役立ち、すぐに変化する事柄。

            物質・肉体的次元、奉仕活動、ボランティア、楽しみ、交流

            政治・経済活動など・・・

 

②「教会の次元」・・・目に見えにくく、一見役立たず、すぐに変化しない事柄。

           礼拝、霊性、信仰、精神、主にある交わり、祈りなど・・・・

 

 おそらく戦後のドイツの教会は、戦前に自分たちがヒトラーに迎合してしまった反省から、「教会は他者のために存在するときのみ教会である」と言ったボンフェッファーの言葉を、教会の社会活動、政治活動という、目に見える具体的な働きに積極的に取り組むことと、受け止めたのでしょう。その反面、目に見えにくい霊的な事柄がおろそかになり、結果的に教会は衰退していったのではないかというこのメラーの指摘は、重要な問いとして私の耳に響いています。

 

「一人静まって祈ること」「互いのために祈ること」「み言葉を求めて、聖書に向かうこと」「共に主を喜ぶ交わりに生きること」「心を尽くして礼拝を捧げること」「主を証しつづけること」「自分自身を主に捧げること」・・・・

 わたしの理解では、このような「教会の次元」と言われる目に見えにくい事柄をこそ大切にし、深めていく日常の営み、修練なしに、「世俗性の次元」としての、目に見える奉仕や働きという「実り」も実らないし、実ったようにみえても結局残らないのではないか、と思っているのです。

 

「主の教えを愛し

その教えを昼も夜も口ずさむ人。

その人は流れのほとりに植えられた木

ときが巡りくれば実を結び

葉もしおれることがない。

その人のすることはすべて 繁栄をもたらす」詩篇1:2−3)

 

この詩編は、主のことばを心にとどめ、祈り、黙想する営みからこそ、しおれることのない「実り」が実ることを歌っています。

 

今の教会の姿、また私たち信仰者一人一人の姿も、今までみ言葉に聴き、祈りつづけてきた「実り」です。そうであれば、5年後10年後の教会、また私たちの姿も、今日聞いたみ言葉、祈った祈りの積み重ねによってやがて「実っていく」姿なのです。

つまり、今日のみ言葉と祈りへの取り組みが、未来の教会、わたしたちの姿を形作っていくのです。

 

「私は余りに仕事が忙しいので、毎日3時間祈らなければ決して働くことができません」と言ったのはマルティンルターでした。

様々な課題を抱え、問題山積みのこの現代日本。そのただなかに「地の塩、世の光」として主に招かれているわたしたち。目にみえる問題、課題が大きければ大きいほど、わたしたちに必要なのは、み言葉であり、祈りであり、共に主を見上げる礼拝であることを、もう一度心に留めたいのです。