「御心を求めて祈る」(花小金井キリスト教会2017年9月3日主日礼拝メッセージ)

マルコ1:35-39
先週は、一週間のお休みを頂きました。

 母が佐渡島にいるものですから、新潟から佐渡に渡り、そしてまた新潟に戻って、そのまま日本海沿いを3時間ほど北上して、「酒田」の町に入り、わたしたち家族は、9年近くその町で開拓伝道をしていましたから、懐かしい人々と再会して、さらにそこから2時間ほど、内陸に入った山形教会で、先週の日曜日は、礼拝を捧げて、東京に帰ってきたわけでした。

 先週の日曜日は、花小金井教会の礼拝でも、旧約聖書バベルの塔から、メッセージがなされたと思いますけれども、山形教会も同じ聖書の箇所からメッセージをいただきましたから、場所は離れていても、主にあっては、不思議に繋がっていたのでしょうね。

 不思議な繋がりといえば、私たちの教会から福岡の西南神学部に送り出したT神学生から、わたしの休暇中にスマフォにメールが来たのです。そこには「結婚することになりました」という文章と、相手の彼女と、そのご両親とが一緒に映っている写真を添付してあって、「ご両親に挨拶にいってきました」と書いてあって、びっくりしました。

「あのどちらかと言えば、奥手だったT君が、いつのまに・・・」。
神様は、本当に人が思いもしなかったことを、なさいますね。
彼からの報告によれば、実は数年前、学生時代に青森で、クリスチャンの集まりの関係で、彼女と出会ってはいたそうなのです。でもそれいらい顔を会わせることなく、彼は東京、彼女は福岡。それっきりしばらく会っていなかったようですけれども、彼はなぜか、彼女のために祈るようになっていたのだというのです。彼女も彼女でそうだったようで、二人は、つきあってもいない頃から、不思議に祈りで繋がっていたようなのですね。

 人にはわからなくても、神様にあってはすでに二人は繋がっていて、神の時が満ち、結婚の決断へと導かれたと、そういうことなんでしょうね。

 それにしても、あの奥手のT君が結婚なんて・・・。すいません。本当に神さまのなさることは、人の思いを越えています。ほんとうに。

 さてもう一つ、主にあって繋がっている、というお話ですけれども、先週の水曜日に、教会員のNさんを、所沢の施設に何人かの方と共に、お訪ねしてきました。その時の写真も、ロビーに貼っていますので、後でみてください。

 去年から施設に入られて、教会の礼拝にきて、毎週顔をあわせることは難しくなりましたけれども、水曜日のお祈り会では、いつもお名前をあげて祈っていますし、そうやって、祈りにおいて繋がっているから、会いに行くこともできますでしょう。

そして、お体や、様々な弱さのために、この場所に来れなくなるということは、なにも特別な事ではないと思うのです。今、ここに集められているわたしたちのだれもが、いつかは経験することでしょう。

神様は、いつまでも弱くならない、限界のない「体」を、わたしたちに与えて下さったのではなくて、だんだん弱くなり、出来ることが少なくなっていく、そういう、限界ある体を、わたしたちに与えて下さっているわけですから。

この地上で、永遠に生きる体ではなく、この地上では、限界があり、弱くなっていく、自分一人では生きられない、そういう限界ある命を、生きるからこそ、

互いの繋がりが、どれほど大切であるかに、気づくことも出来るのですから。

そういう意味で、弱くなっていくことも、老いることさえも、神様から、そのように生きるように招かれた、「自分自身」を生きる。自分の召命を生きる、ということでしょう。

「召」す「命」と書いて、「召命」。神様から召された、自分の命、自分の使命ということです。
それはなにかを成し遂げることだけではなく、むしろ弱くされることも、老いることさえも、そのようの自分を生きるようにと、限界ある体を、神様から与えられている、わたしたちの「召命」を生きるということでしょう。

わたし去年から、50肩で、手が上がらないんです。わたしが着替えをするときに、「いててって」痛がっていると、妻が「かわいそうねぇ」って、いたわってくれます。
優しい妻です。

「弱さ」があるから、互いが必要であることも、支え合う喜びも、味わえるでしょう。

「神の似姿に造られた、人間の美しさ」が、この世界に現れ出るには、「弱さ」こそ必要。

そういう意味では「老い」もまた、神の招き。自分の「召命」を生きることのはず。

預言者イザヤの書のなかで、主なる神はこういわれます。

「わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」46:4

神が愛し、造ってくださったわたしたちを、神は最初から最後まで、背負ってくださる。

若さにあふれ、自由に選び、自由に動き回ることのできる日々も、

また、だんだん、できることも、選べることも、少なくなってしまったように思える日々も、
神は、何一つ変わることなく、私たちを愛し、持ち運んでいてくださる。

ほかの人と比べられない、ユニークな自分を、自分の召命を、生きるようにと、

主は、今日もわたしたちを招いて、言葉を与えてくださいます。


さて今日、朗読された神の言葉。マルコの福音書に記された出来事は、

神の子イエス・キリストが、朝早く起きて、天の父なる神に祈り、交わりをもたれていたという出来事でした。

その天の父との祈りの交わりのなかで、主イエスは、ご自分の「召命」を確認されて、こういわれます。

「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」と


「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」

そう語って、弟子たちを集めて、ガリラヤ地方で伝道を開始されたイエスさま。


その主イエスの語る言葉、福音は、律法学者たちの教えとはちがい、言葉と共に、人々の病が癒され、汚れた霊に憑かれた人が解放される、そういう「神の国のしるし」が伴う、宣教だったので、

ガリラヤの町の人々は、押し寄せるように主イエスのところにやってきたのでした。


その沢山の人々に、福音を語り、病をいやしておられた主イエス

病んでいる人に、ひとりひとり手を置いて祈られたのか、どうされたのかは、わかりませんけれども、「町中の人が、主イエスの泊まっておられる家の戸口に集まった」のですから、

おそらく、癒しても、癒しても、次から次へと、人々は群れをなしてやってきたのではないかと、想像できるわけです。

そして今日の聖書の箇所は、その沢山の人々に囲まれた状況から、逃れるようにして、朝早くまだ暗いうちに起きあがり、人里離れた所に退いて天の父に祈られた、主イエスの姿が、記されているのです。

「人里離れた」とは、もとのギリシャ語では、「荒れ野」という意味だそうです。

人が誰もいない場所。神様だけに集中する、そういう場所をイメージします。

おそらく、イエスさまが、朝早く起きたのは、誰からも離れて、ひとりになって祈るためだったのでしょう。

それは、弟子のシモン(ペトロ)たちが、祈っていたイエスさまを見つけ出して、「みんなが捜しています」と言ったことからも、分かります。

 まだだれも起きていない朝早い時間しか、イエスさまは一人になれなかったのです。みんなが起きてしまったら、またたくさんの人々の求めに応えなければならない。

朝、ちょっとイエス様の姿が見えないだけで、弟子たちはこうして捜し回ったわけですから。「みんなが捜しています」と、いうわけですから。

ひとりになるためには、朝早く起きるしかなかったはずです。そして、この一人になって祈るということが、この時イエスさまには必要だったのでしょう。


 私たちも、家庭、職場、学校、教会、あらゆる人との関係のなかで生きていますけれども、そのような人との関係のなかで、いつも生きつづけることの危うさを、感じたことはないでしょうか。

いつもだれか人の目を気にしながら、人の必要にこたえ、人からの承認を求めてしまう。

SNSといわれる、インターネットでの、絶え間のない人との繋がりのなかにいつづけることの危うさ。

また、いつも誰かに、なにかを求めて、影響され、傷つけられてばかりの状態。

人との関係のなかに、まるで飲み込まれるようになり、

本当の「自分自身」はいったい何をしたいのか、自分の本心は何なのか。自分は何のために生きているのかが、わからなくなってしまう。そういう危険もあるでしょう。

ナチスに抵抗したボンフェッファー牧師は、「交わりの生活」という本の中で、こういうことを言っています。


「一人でいることのできない者は、交わりに入ることを用心しなさい。」と

その人は、自分自身と、交わりとを、ただ傷つけるだけである。

神があなたを呼ばれたとき、あなたはただ一人で神の前に立ったのだ。

一人であなたはその召しに従わねばならなかったのだ。

一人であなたは自分の十字架を負い、戦い、祈らねばならなかったのだ。

そして一人であなたは死に、神に弁明するであろう。

あなたは、自分自身から逃れることはできない。


そうボンフェッファーは言います。とても強い言葉です。

人はひとりで神にまねかれ、一人で神の前に立つのだと、彼はいう。

しかし同時に、ボンフェッファーは、こうも言います。

「しかし、その逆の命題もまた真である。「交わりの中にいない者は、一人でいることを用心しなさい。」

あなたは教会の中へと召されたのである。召しはあなたにのみ向けられているのではなく、あなたは、召された者の教会の中で、自分の十字架を負い、戦い、祈るのである。

あなたは一人ではない。たとい死の時においても、あなたは一人ではない。最後の裁きの日に、あなたはイエス・キリストの教会の一つの肢(からだ)となるであろう。


そう、神の前に一人で立つと同時に、そのような、わたしたち一人一人が、教会という交わりに招かれ、召され、ともに生きるようにと、召されているのだと。

今、ここにいるわたしたちは、ひとりひとりが、神によってまねかれているひとりひとり。

人から認めてほしいからでも、承認されたいから、教会に集っているのではなく、

天の父なる神に、愛され、

「アバ父よ」「天のおとうさま」と呼ばせていただく、

神の子であることに、目覚めたからこそ、わたしたちは、ここにいます。

その神に愛されている、本当の「自分」を、ほかに比べようのない、かけがえのない神の愛する「自分」を、まっすぐに生きていく。

それこそ、神の御心。天の父の「親心」。

そういう意味で、神の御心を求めるとは、神に造られた本当の「自分」を生きる。召命に生きることを求めることでもあるのです。


 今日のメッセージのタイトルは、「御心を求める祈り」としましたけれども、
「御心を求める祈り」というと、とかく、

「自分は何をするのが神の御心ですか」
「あれですか、これですか」と、答えを求める祈りのように思われますけれども、

そういう、あれをするか、これをするかという、行いを越えたところで、

すでに、「天の父の御心」によって存在させられている、本当の「自分自身」を生きることこそが、神の御心であるのです。

人との関係のなかで、人の求めにこたえつづけ、人の言葉に振り回され、

本当の「自分」の使命は、召命がなんなのかを見失わないように、

神様との関係のなかで、「本当の自分」を生き、自分の召命、使命に生きる。

そのために、神の御子主イエスでさえも、時に、人から離れて、一人で祈る時間が必要だったのです。

そうであるなら、わたしたちもまた、一人、神と向き合う祈りが大切ではないでしょうか。

自分の召命を、使命を生きるために、天の父と、一人向き合う交わりの時間を持つこと。

主イエスが、一人、天の父と交わるなかで、人々の求めを振り切ってでも、ほかの町に行って宣教しよう。そのためにわたしは出て来たのだと、ご自分の召命に生きたように。

たとえ、その道の行き着く先には、十字架がまっているとしても、

「そのためにわたしは出て来たのだ」と、ご自分の召命に生きる勇気と力を、

主イエスは、天の父との交わりの中で、祈りの中で頂いたことを、覚えたいのです。


最後に、わたしの証をさせていただくことを、おゆるしください。

先ほども申し上げましたけれども、先週、休暇を頂いて、2年前まで開拓伝道をしていた「酒田」の町を訪ねました。

わたしたち家族が「酒田」を離れた次の年に、酒田の伝道所は閉鎖になってしまいましたから、

かつて、伝道所で出会った人々、そこでバプテスマを受けた人々を思うたびに、わたしたちの心は、今でも痛むのです。

 子どもさんが交通事故で重い障害をおうことになったお母さん。福島から自主避難をしてきた、母子家庭の親子さん、伝道所の子ども会で出会った人々は、救いを求める人ばかりでした。イエスさまの福音を伝え、一緒にお祈りした人々を、置いてきてしまった。

そんな思いが、わたしの中にも妻の中にもまだすこし、残っているので、夏休みになると、彼らに会いに「酒田」に足が向いてしまうのです。

また当時、全国の沢山の人たちが「酒田」にいたわたしたち家族のために、祈りつづけ、支えてくださっていました。

わたしたちが「酒田」を離れることは、その多くの人々の祈りも期待も裏切ることでもあったと、今、思っています。

そして、今日の聖書のメッセージの準備をするなかで、イエスさまが、町の人々がまだ必要として、探しに来たにもかかわらず、この町を離れ、ほかの町や村にいくと言い出されたことを、周りの人々は、どのように受け止めたのだろうかと、あらためて思ったのです。

「まだ病んで苦しんでいる、この人を、あの人を、置いていくのか。」
「まだ、あなたを必要としている人が、こんなに沢山いるのに、中途半端なまま、いきなりほかのところへいくと言い出すなんて、無責任じゃないか。」

 そんな町の人々の声が聞こえてきたのです。弟子たちの「なんだ、これからなのに、がっかりだな」という声が聞こえてくるのです。

 それは今思えば、最初に、わたしが、花小金井教会から牧師になるようにと招きを受けたとき、わたしの心の耳には、「無責任じゃないか」という声や、「がっかりだな」という声が聞こえてきて、心縛られていたのだと思います。

だから、自分は「酒田」から離れるわけにはいかない。自分がいなければだめなのだと、強く思い込んでいたのです。

しかしそれは高慢でした。自分がいなければだめなのだというのは、自分が神の代わりにでもなれると高ぶっていたのです。

人間は人間を本当には救えません。どんな人もやがて、その働きの途中で、天に帰っていく限界ある人間にすぎないのです。神が人を救うことに、委ねることを忘れていた。

やがて、そのことに気づくことができたのは、神のまえに、一人になって祈る祈りの中でした。

この自分は、神に愛されている。赦されている。

人の期待に応えなくても、自分のプライドを必死に守らなくてもいい。

あなたがどうであろうと、天の父の愛は変わらない。神の愛は変わらない。

神の前に一人静まり、神の愛に心開くとき、本当の自分自身。神の子とされているありのままの自分自身を見出していく。

そしてわたしたちは、人の期待にこたえるためでも、自分のプライドを守るためでもなく、

愛してくださっている、天の父の、その愛の御心に応えて、新しい一歩を踏み出していけるのです。


朝早くの祈りを祈り終えた、主イエスは、言われました。

「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。
そのためにわたしは出てきたのである」と