「もううしろをふりむかない」(花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

shuichifujii2016-02-21


ルカによる福音書9章57節〜62節


さきほど、Hさんの口からも、福音が語られ、今も生きて働いておられる主の恵みが証されました。

Hさんが礼拝の中で証をなさったのは、これで二度目でしょう。確か、一昨年の10月に、教会学校月間のなかで、教会学校のユースの証をなさったでしょう。

なぜそれを覚えているのかというと、おととしの10月は、まだわたしは山形の酒田伝道所の牧師をしていたのですが、ちょうどその日、花小金井教会がわたしにここでお話をするようにと招いてくださって、わたしがここでメッセージを語った、そのまえに、「今日は証があります」と、真っ白い服を着た女性が証をなさったのを、印象深く聴いていたからです。

たしか仕事が大変ななかで、でも教会にくると慰められて、自分には教会はなくてはならないものなんですと、お話をしておられましたね。

初めてお会いしたとき、そして、お別れの時、新しい旅立ちの時。確かにその一歩一歩を、主が導いてくださっている証に、感動します。


きっと新しい生活にむかう不安は、あるでしょう。だれだって、できれば住み慣れた場所で、親しい人々のなかに、とどまっていたいという葛藤を、主の招きをいただくときには、感じるものだから。

それは送り出す私たちもまた、同じです。できたら、まだ一緒に教会生活を送りたい。人の思いとしては、とうぜん、さびしい。

でも、それでも、わたしたちが笑顔で送り出すことができるのは、この出来事もまた、主イエスの招きだと信じているからです。

主イエスが招いてくださったのなら、主が責任をとってくださり、必ず、人の思いを越えて、神の国の、よい働きを進めてくださっていると、信頼し、委ねることができるから。わたしたちは、笑顔で送り出します。

そういう意味で、神に導かれていると信じる私たちは、だれもが、神に招かれた命を生きています。それをキリスト教用語で、「召命」というわけですね。

召す、命と書いて「召命」

人と人とが出会うのも、当たり前のことではなく、神の「召命」。

そして人と人とが別れるのも、新しい道へと招かれるのも、神の「召命」の出来事

私たちが今、この時代に、家族に、生まれることも、何一つ自分では選べない、神の「召命」

そしてやがて地上の歩みを終え、天に招かれていくのも、自分の意志を越え、神が招かれる「召命」の出来事でしょう。

そういう意味で、私たちはいつも、神に招かれた命を生きている。

いつも、主イエスは、神の言葉によって、出来事や出会いを通して、わたしたちを、招いている。新しい歩みへと、招き続けている。

今、わたしたちがここに集まっているのも、その神の招きの出来事。

今日も、自分の意志をこえて、自分をこの地上に生み出したお方が、ここに招いてくださいました。

この神の愛の招きへの信頼。

神の国は近付いた。この福音を信じなさいと、愛のゆえに招いてくださる主イエスへの信頼をもって、

私たちは、今日のルカの福音書の、一見厳しく聞こえてくる、主イエスの言葉を聞き取ります。愛の招きとして聴きとります。

さて、ルカの福音書を読み続けていますけれども、今日読まれた出来事は、話の流れから言いますと、いよいよ主イエスが、十字架に向かう旅を、エルサレムに向かう旅をはじめられた直後の出来事なのです。

覚えておられるでしょうか。前回の説教では、その途中でサマリアの村を通ったけれども、受け入れられなかったので、弟子のヨハネが、「天からの火を降らせて、彼らを焼滅ぼしましょうか」と、高慢に言い放った出来事を読みました。

 すでに主イエスに従ってきた弟子たちでさえも、今、主イエスがいったいエルサレムになんのために向かっているのか、誤解していたのです。

 主イエスは、ご自分はやがて苦しめられ十字架の上で殺されるが、復活するのだと、「神の救い」をなんども弟子たちに語るのに、弟子たちはその言葉に、心を開けない。いや、開かない。なにをいっているのかわからなかった。


 そんな弟子たちのの本心が表れたのが、「火で焼滅ぼしましょうか」だったのです。そういう神の力で、自分たちの願いを実現してくれる力ある指導者が、

今やエルサレムに向かって、動き出した。そういう自分たちの期待を胸一杯に膨らまし、主イエスに期待し、そういう神の国を期待した弟子たち。


そんな弟子たちと主イエスの一行に、加わりたいと、今日の冒頭、57節から、ある人がこういったわけです。

「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」


この素晴らしい言葉の背後に、自分の願いをかなえてくれる力あるお方という、主イエスへの誤解があったからこそ、イエス様はこのようにいわれます。

「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」


思い起こせば、母マリアから誕生したその時から、泊めてもらう宿屋もなく、家畜小屋で生まれた主イエスでした。


 人を救うという、神の愛の御心に従って、天の居場所を離れて、この居場所のない地上を、十字架の死に至るまで、安住することのない、枕するところのない人生を、歩まれた主イエス


「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」

これは、つまり、神の救いを成し遂げる主イエスの、その覚悟が語られているのです。

人間が、主イエスに従いますと、覚悟をするという話ではなく、

むしろ主イエスのほうが、罪に苦しむわたしたちを救うために、断固たる覚悟をして、この地に来られ、今や十字架に向かう、エルサレムへの旅に、

弟子たちの先頭をきって歩まれている。

主イエスこそが、天の父の御心に従う、断固たる覚悟を決めて、今、弟子たちの先頭をきって、歩いているのです


 それは、危険な山道を、先頭に立って羊を導く、羊飼いのように。獣と戦う覚悟をして、羊の先頭を歩く羊飼いのようにです。。


 さて、59節に進むと、今度は、別の人に向かって、今度は「わたしに従いなさい」と、主イエスが声をかけて、招いています。

ここでは「わたしに従いなさい」と、主イエスの側から招いています。

それは、私も断固たる覚悟で従っているのだから、あなたも断固たる覚悟で、私に従ってきなさいという招きでしょうか。

でも、よく考えてみたいのです。

皆さんも誰かに向かって、「わたしに従ってきなさい」と言ったことがありませんか。そういう人と、言われる人は、実際、どちらが大変ですか。

暗い夜道で、不安な子どもには、お母さんが、「大丈夫、お母さんについてきなさい」と言うでしょう。

おけいこ事でも、初めて生徒が学ぶ時には、先生が「大丈夫、先生と同じようにやってみなさい」というでしょう。

「わたしに従ってきなさい」という人のほうが、言われる人より、覚悟をしているものなのです。

道なき道を、先頭きって歩く人は、危険と苦難をまず自分が背負う覚悟がなければできないのです。

その覚悟があるからこそ、「わたしに従いなさい」と言えるからです。自分を信じ、従ってくる人を守る覚悟があってはじめて、「そのわたしに従いなさい」と言える。

主イエスが「わたしに従いなさい」と言うのは、責任をもって守り導く覚悟の表明です。

そういう意味で、主イエスの後について行くことこそが、自分が先頭きってあるくよりも、むしろ楽なのです。

雪の壁をかきわけて進む人の、その後を歩くようなものです。主の後に従って歩むことこそ、道を踏み外さず安全な、自由で解放される歩み

主イエスは、神ではないものを、神のように恐れ、縛りつけるこの世のあらゆる束縛から、わたしたちを解放し、自由にし、父なる神とつなげてくださる。

主イエスについて行くとは、本当の意味で、この世の何物をも恐れない、縛られないお方。権威も権力も恐れない、自由なお方の後に、ついて行くということだから。

その主イエスから、「わたしに従いなさい」と言われたとき、自由に「はい」と言えなかったのは、勇気がないのでも根性がないのでもない。なにかに心が縛られているからでしょう。

この人は言いました。「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」

さらに、次の人は、こう言いました。

「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と。

どちらの願いにも、共通する言葉があります。それは、「まず」という言葉です。

「まず、父を葬りに行かせてください」「まず家族にいとまごいに行かせてください」

この「まず」という言葉の原語のギリシャ語は、「まず第一に」という意味なのだそうです。

なによりもまず、第一にしたいものがあって、その次に、主イエスについて行きましょう、というなら、それは神の国に生きる自由人らしくない、ふさわしくない、という問いが、主イエスから投げかけられているのではないでしょうか。


神の国とは、死んでから行く場所のことではなく、今、すでに、主イエスとともに生きる人のところにやってきている、神の愛の支配のことですから。

だれも人間が人間を支配しない。神が神とあがめられ、人間が自由と解放を体験する現場ですから。


しかしまず第一に、これをしなければと、なにかに心が縛られていることが、わたしたちにもあるでしょう。

田舎で伝道していた時、小さな家の教会に、2年間もき続けてくださった男性がおられたのです。本当に不思議な導きで教会に来られて、毎週のように小さな伝道所の礼拝に来てくださったその方は、でも長男ゆえに、家の墓を守らなければならない立場だったのです。
お墓のことも、家族の理解も、神様が何とかしてくださるから、主イエスの言葉に従って、バプテスマを受けませんかと、なんどかお勧めしましたけれども、結局、「まず第一に」家の信仰を守らないわけにはいかないと離れて行かれました。

 どうかご理解いただきたいのは、主イエスは、父の葬りをしたいと言った人に、葬儀などどうでもいいと言われたのではないのです。家族にいとまごいをしたいと言った人に、家族などどうでもいいと、言われたのでもないのです。

「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」という言葉の意味については、さまざまな解説がありますが、正直、この言葉の真意は、わかりかねるところがあります。

けれども、一ついえることは、主イエスは、ここで、葬儀をしてはならないと言っているわけではないわけです。

そうではなく、あなたがしなくてもいい。だれかに任せなさいと、言われているのです。

あなたは、神の国を言い広めるよう、わたしは招いているのだから、といわれているのです。

これは、主イエスが、家族とか葬儀を、ないがしろにしている話ではなく、

もっと本質的には、この人にとっても、そして、わたしたち、一人ひとりにとっても、

すでに、主イエスに招かれている事実に向き合うこと。

それは、特別な招きという以前に、すべての人がすでにこの地上に生きるようにと招かれたことに始まっている、神の「召命」に

「まず第一に」向き合いなさいという、呼びかけの言葉として聴きとりたいのです。

この人にとっても、また、わたしたちそれぞれにとっても、主イエスは、それぞれの時に、それぞれの招きをしておられます。

わたしたちが、今、ここにいることも、神の招きでしょう。

わたしがいま、ここの教会の牧師であるのも、神の招き。召命だと信じて立たされています。

そう信じて、前の働きをすべてを託して、今、ここに立っています。

人間の思いで、わたしがこの働きをしなければならない。これは、わたしの責任だという思い。

そういう、結局は「わたしが」という「自分の思いの実現」こそを「第一」にしてしまいたがる束縛から、主イエスは、神の国に生きる者へと、わたしたちを解放なさる。

それが主イエスの招き。

この礼拝は、その現場です。

「まずこれを第一にしなければ」という、自分の思いや願いから、主イエスはわたしたちを解放し、

それは、あの人たちに任せなさい。あなたには、あなたの神の国にいきるものとしての使命があるのだと、招かれる。

わたしたちは、それぞれに主イエスからいただいた招きに応えて生きる、神の国に生きる民。仲間です。

自由に主イエスについて行く。それこそ、神の国に生きるわたしたちにふさわしい。

主イエスの後についていって、神の国の働きをはじめた、つまり、鋤に手をかけたわたしたちは、

もう、うしろを振り返りません。

ああしておけばよかった。こうしておけばよかったと、うしろをふりかえりません。

過去の傷や、悲しみや、後悔の上に、座り込んで、そこにとどまりません。

せっかく一度きりの、神に招かれ、与えられた人生ですから。

使徒パウロは言います。

「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」と

やがて、天に召される、「召命」の日まで、わたしたちは、後ろを振り返らず、前に向かって歩みます。

前に進んで旅立っていく、H家の家族のことを思うと、正直さびしいですが、同時にわたしたちは、心からの祝福を祈ります。

主イエスの後について行くのですから。ちゃんとすべての責任をとってくださる、主イエスの後に、その招きに応えて、まっすぐに、ついて行くのですから。


わたしたちも、それぞれに、神の招きにまっすぐに向き合い、応えて、今週も前に歩みだしていきます。