「わたしたちは主のもの」(花小金井キリスト教会 召天者主日礼拝メッセージ)

ローマ14:8-12

今、私たちは、「召天者記念礼拝」を主にささげています。
「召天」とは、天に召されると書きますね。
この地上に生きるようにと神が命を与え、さまざまな出来事、出会いを、
なによりも神の愛、主イエスとの出会いの恵みを頂き、やがて天へ招かれていく。
わたしたちは、聖書をとおして、この地上の人生とは、天に向かう旅路なのだと信じつつ、
今日「召天者記念礼拝」を、主なる神様に捧げています。

かつて、わたしたちと共に、地上を生き、喜び笑い、悲しみ泣いた、今は目には見えない人々を覚えつつ、
というより、実は、今は目に見えないその方々と共に、次元を超えて、
今生きるひとも、死んだ人々もなく、ともに、主なる神を礼拝する、わたしたちは民であることを、思い起こす。
それが「召天者記念礼拝」なのでしょう。
今、週報と共に、お手元に、先に天に召された方々の名簿をお配りしています。特に、わたしたちのつながりの中で、覚えたい方々のお名前を載せさせていただきました。
もちろん、ここにお名前は載らなくても、それぞれに、今は天におられる愛する方を、心に覚えてくださればと、思います。
今日は、お一人お一人のお名前を、読みあげることはできませんけれども、
名簿のお名前をみて、また、心の中で覚えておられる、愛する方々のお名前を、そっと心の中で呼んでみれば、
きっと、その方々と歩まれた懐かしい日々が、偲ばれるでしょう。
しかし、そういうわたしたちも、やがてこの名簿に名前が記される日が来ます。そして、後の人々が、わたしたちの名前を呼みあげては、ともに地上を生きた日々を偲ぶ、という日が来るのです。
この地上においては、生きることと死ぬことは、別々のことではなく、一つのこと。
あの人たちは、死んだ人。わたしたちは生きている人と、分けられるでしょうか。いいえ、わたしたちはみんな、この地上を生き、そして死に、天に旅立つ旅人です。
生きることも、死ぬことも、一つのこと。

そのことに気づく時、先ほど朗読された、使徒パウロの言葉は、あらためて、わたしたちに希望をさししめしてくれます。

9節で、パウロはこう言います。

「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」と

十字架につけられ、絶望のすえに死んだイエスを、父なる神は復活させた。

それゆえに、もはや死は絶望ではなくなり、むしろ新しい命への道筋となった。

この十字架に死に、復活したイエスを、わたしたちは、「キリスト」「主」と信じる仲間です。

キリストは死の絶望から復活した。ゆえに、死んだ人も生きている人もなく、キリストはすべての人の主なのだ。

わたしたちは、そう信じて、ここに集っています。

それゆえに、使徒パウロが「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。

と語る言葉を、自分のこととして受け止めたいのです。


わたしたちは、生きるにしても、死ぬにしても「主のもの」なのだ。

すでに死んだ人々も、今生きているわたしたちも、ひとしく「主のもの」なのだ。

しかし、この「主のもの」とは、具体的にはどういうことなのでしょう。

どのように受け止めればいいのでしょう。

今日の礼拝の冒頭では、詩篇100編が読まれました。

詩編を読んだ信仰者は、こう告白します。


「知れ、主こそ神であると。
主はわたしたちを造られた。
わたしたちは主のもの、その民
主に養われる羊の群れ」3節

と。

主がわたしたちを造られたので、わたしたちは「主のもの」なのだと、詩編は告白するのです。

この「自分は、主に造られた」というものを、わたしたちは、いつ感じとっているでしょう。

生まれたばかりの赤ちゃんの、小さな小さな指の先に、1ミリほどの爪がちゃんと生えているのをみて、神の創造の素晴らしさに気づく時でしょうか。

それとも、わが子のことはみんな知っている、分かっていると思いこんでいたのに、ある時、親が思いもしなかった才能を、子どものなかに見出す瞬間でしょうか。


それとも、わたしたちの体が、100兆個の細胞からなっていて、その細胞の一つ一つの中に、計り知れないほど複雑で緻密で、壮大なる設計図が、遺伝子に書き込まれている、ということを、最新の科学によって知った時でしょうか。


ある人は、なにを見ても、何を聞いても、偶然というでしょう。それも信仰です。

しかしわたしたちは、詩編100編とともに、こう信仰告白するのです。


「主はわたしたちを造られた。
わたしたちは主のもの、その民
主に養われる羊の群れ」

であると。


この信仰に立ち、さらにパウロは言いました。生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは「主のもの」なのだと。

パウロは、これを福音として語っています。わたしたちが「主のもの」なのは、パウロにとって、良い知らせなのです。

しかし、わたしたちは、「主のもの」と言われて、今、正直、どう感じるでしょう?

あらためて、自分自身の心を、探ってみてほしいのです。

わたしは「主のもの」という言葉に、自由や平安、愛と赦しを感じ取れるでしょうか。

それとも、なにか、自分の中に引っかかるものが、あるでしょうか。

「自分は、自分の命は、自分の人生は、わたしのものではないのか」という思いが、こだわりが、プライドが、執着がないでしょうか。


主イエスの有名な、「放蕩息子のたとえ」話をご存じでしょう。

父の財産を、自分のものにして、無駄に使い果たしてしまった息子の話です。

あの息子の姿は、天の父である神が、神の目的のために与えてくださった人生の時間を、

「自分のもの」にしてしまい、ただ「自己実現」のために、使い果たしてしまうことへの、問いかけでもあるでしょう。

わたしたちの命、人生は、ちっぽけな自分の理解を超えた、大いなるお方によって与えられ、託され、期待されている人生。

この世界を造り、導いておられるお方、偉大なる「主のもの」。


そのことに目覚め、神のもとに生きる、本当の自分へと、立ちかえった人々に、パウロは7節でこう告げるのです。

「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません」と

自分のためにいきる。自己実現という、どこまでも「小さな自分」にとらわれつづける人生から解き放たれ、

わたしたちには思いもしない、想像もできない、

普遍的で、永遠の価値ある、「主のもの」として生きる歩みへと、

エスキリストによって、目覚めたわたしたちに、

8節でパウロは語ります。

「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」


わたしたちは「自分のため」に生き、死ぬのでもなく。

「親のため」でも「会社のため」でも「国のため」でもなく、「主のため」に生き、そして死ぬのです。

ですから、わたしたちの人生を、他人がどう評価しようとかまいません。

ただ、わたしは「主のもの」ですと、日々、小さなことに忠実に、主のために生きていけばいいのです。

だれも、人のことを、「まるで自分のもの」のように評価したり、裁く必要はありません。

「あなたも」、「わたしも」「主のもの」なのだから。

「主のもの」として、尊敬しあい、認め合い共に生きる。

それが「主のもの」である、わたしたちの生き方です。

ですから、最後にパウロはこういうことを言いました。

10節
「それなのに、なぜあなた方は、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。」と


わたしたちはお互い「主のもの」なのですから、人を見て評価し裁かなくていい。それは「主のもの」を「自分のもの」にしようとする、高慢です。「主のもの」であるお互いを、侮ってはいけません。


箴言には、こういう言葉があります。

「貧しい人を嘲(あざけ)る者は、造り主をみくびる者」箴言17:5

「主のもの」であるあの人を、この人を、あざけることは、主を見くびること。

わたしたちはお互いに「主のもの」ですから、互いに敬い、共に生きるのです。

それが「主のもの」である、私たちらしい生き方。

しかし、つい、人のことを裁きたくなってしまうわたしたちに、パウロは言うのです。

わたしたちは、等しく「神の裁きの座」の前に立つのですと。


「神の裁きの座」と聞いて、なにか怖いイメージを抱きますか。


お寺にある地獄絵のような、閻魔大王の前にでも立たされるような
、ネガティブなイメージがあるでしょうか。

しかしパウロは、その光景を、イザヤ書を引用して、こう表現します。

11節
「主は言われる。
『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、
すべての舌が神をほめたたえる』

これが、「神の裁きの座」の現場です。それはまさに「主のもの」である人にとって、最高の希望でしょう。

この罪にまみれた、この世の価値観、偏った裁き、偏見から、解放され、

本当の真理、愛、正義のお方である、神の前に出ることができるのですから。

そんな資格などない、罪深いわたしたちの、その罪を、キリストが十字架の上で贖ってくださったゆえに。

「主のもの」となったわたしたちは、この世でずっと探し求めていた愛に、真実に、正義である神と、

顔と顔を合わせる感動と、感激に、ひざをかがめて、神をほめたたえることになる。

そんな「神の裁きの座」に、わたしたちはあこがれます。

人はわかってくれなくても、この地上の人生のすべてのあゆみを、喜びを苦しみを知っておられる神に、

そのすべてをさらけ出し、聞いていただける。

それが12節で言われている、自分のことを神に申し述べるという言葉の意味でしょう。

これは神様のまえに立って、「いいわけ」をするのではないのです。神はすべてを知っておられるのだから。

そうではなく、神の御子イエスキリストをおあたえになったほど、愛してくださっている、神の前に、

わたしたちは、誰にも言えなかったことを、墓場まで持っていくしかないと思っていた、心の中の痛みを、

安心して心を開き、天の親のまえに打ち明けられる、恵みの時。


わたしたちは、「主のもの」なのですから。天の親に愛されている、神の子。「主のもの」なのですから。


最後に、詩篇27編4節の言葉をお伝えして、メッセージを終わりにします。


「 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り/主を仰ぎ望んで喜びを得/その宮で朝を迎えることを」


これが「主のもの」であるわたしたちの希望。

やがて、先に天に召された人たちと共に、主の前に、顔と顔を合わせる朝がくる。

ああ、この日のために、この喜びのために、わたしたちは、この地上の人生を生き抜いてきたのだと、


やがてその人生の喜び、悲しみのすべての意味を悟り、

神をほめたたえる朝がやってくるのです。