「一緒に喜んでください」(花小金井キリスト教会2016年10月2日主日礼拝メッセージ)
ルカによる福音書15章1節から10節
このところ、どんよりとした曇り空が続いていましたけれども、今日は素晴らしい秋空になりましたね。
今、朗読されたルカの福音書の15章も、ある意味、13章、14章と、なんだかはっきりしない曇り空のようなイエス様の言葉、「うーん解釈が難しいなあ、どう読んだらいいんだろう」、14章の最後には、「家族や自分の命を憎まないなら、わたしの弟子ではない」というような、主イエスの言葉と向き合い続けながら、毎週福音書を読み進めてきて、今日の礼拝から、15章に入ったわけですけれども、ここにきて、どんより空を覆っていた雲が、一瞬途切れて、その隙間から、天の光が差し込んできたような、「天」の喜びの光景が垣間見えるような、イエスさまの言葉に、ほっとさせられる思いがするのです。
この羊と銀貨の、ふたつのたとえ話は、どちらもその終わり、まとめの言葉が、「天に喜びがある」という宣言で終わっているでしょう。
7節後半、「大きな喜びが天にある」、10節後半、「神の天使たちの間に喜びがある」。どちらも、「天の喜び」を高らかに主イエスは宣言しているのです。
今、わたしたちが生きるこの「地上」にあっては、雲が空を覆っていて、空が青いことなど、信じられない時のように、今は、わたしたちは「天」の素晴らしさについて、よくわからないし、とても、信じられないかもしれません。
でも、わたしたちもいつかは、その「天」に、招かれていくでしょう。
今月の23日には、「召天者記念礼拝」があります。「召天」とは「天」に「召」されると書くわけです。
今は目に見えなくても、愛するあの人、この人は、今、主と共に「天」におられる。
やがて、わたしたちも「天」にいって再会できる。その信仰と希望があるからこそ、「召天者記念礼拝」を行うわけです。
そして今日のイエスさまの言葉は、その「天」は、今、わたしたちの生きるこの「地」と、ある意味つながっているという話です。
なぜなら、一人の人が、この「地」で悔い改めるとき、「天」において大きな喜びがあると、主イエスは言われているからです。
わたしたちは、どうも「悔い改め」という言葉に、ネガティブな、否定的な、暗いイメージを抱いてしまいやすいのですけれども、ここで主イエスは「悔い改め」とは「喜びだ」と教えてくださっていることは、とても大切なことです。
そもそも、この「見失った羊」のたとえも、「無くした銀貨」のたとえも、言うまでもなく、
「あなたは悪いことをしたのだから、謝りなさい」という話でも、「反省文を書きなさい」というたとえ話ではないわけです。
見失われた羊や、なくしてしまった銀貨が、「自分の人生、間違っていました。懺悔します」と謝罪しました、というお話ではないのです。
そうではなく、むしろ、本来いるべきところ、あるべき自分を、見失ってしまった、「羊」そして「銀貨」のことが心配で心配で、
探し回っている持ち主がいて、その見失っていたものが、ついに見つかった時に、「ああよかった、ああよかった」と、「あなたも一緒に喜んでくださいよ」、「天にも大きな喜びがあるんですよ」「天使も喜んでいるんです」というお話なのだから。
イエスさまは、そういう「悔い改め」のイメージ、「喜び」というイメージを、今日のたとえ話をとおして、わたしたちに教えてくださっています。
「謝罪」させるのでも、「反省」させるのでもない、「悔い改め」のもっている「喜び」というイメージを、わたしたちは大切にしたいのです。
「反省させると犯罪者になります」という題名の本があるのです。著者は、岡本茂樹(おかもとしげき)という方で、刑務所で累犯犯罪者の更生支援をしている人です。
何度も犯罪を繰り返す人とたくさん出会ってきた岡本さんは、犯罪を犯した人に反省をさせるな―というのです。
「そんなバカな」とわたしたちは思います。徹底的に謝罪、反省させるべきだと、わたしたちは考える。
しかし、数多くの犯罪を犯した人を更生に導いてきた著者はいいます。
即座に「反省」を求めても、彼らは「世間向けの偽善」を身に付けていくだけであると。
そう言われると、わたしたちも、なんとなくわかる。
「謝れ」といわれて、とりあえずその場を取り繕うために、「ごめんなさい」ということがあるでしょう。
しかし、心の中では、イライラや怒りが、温存されてしまう、ということがあるでしょう。
岡本さんは、むしろその人が、「なぜそのようなことをしなければならなかったのか」というその時の気持ちを、怒りや悲しみ、苦しみを、聞くこと、理解することが、その人が本当の意味で、自分の罪と向き合い、立ち直っていために必要であることを、現場の経験を踏まえて、語られます。
まさに、主イエスが罪人と呼ばれ、人々から蔑まれていた徴税人や、遊女、悪霊に憑かれたといわれた人々に、
「なにをやっているんだ。反省せよ」と言われたのではなく、
ただ、その一人一人の友となられたあり方にも、通じます。
まさに、一人一人のその心の声に聞き、寄り添うことをなさった主イエス。
その主イエスの愛を受け、罪深い女と人々から言われていた女性は、ある時、食事をしていたイエス様の足元に駆け寄り、涙を流し自分の髪の毛で主イエスの足をぬぐいました。これこそ「悔い改め」です。
「悔い改め」。それは、その人の心の奥底を知っていてくださる、主イエスとの出会い。
あなたの心の怒り、悲しみ、痛みをすべて知り、受け入れ、ともにいてくださる主イエスの愛によって、
自分を守っていた心が、自分のことで精いっぱいだった、内向きの思いから解放され、神と隣人へと向けられはじめる、神の愛によるできごと。
それが「悔い改め」であるのです。
神の愛によって、この地上に生まれ、神に愛され、神を愛し、互いに愛を分かち合って生きる。
そのあるべき自分から、迷い出てしまった一匹の「羊」を、どうしても見つけるまで探さずにはいられない
羊飼いのように、主イエスは、いつも、わたしたちのことを、探しつづけ、今週も見つけてくださって、
この礼拝という場へと、大切に、抱きかかえるようにして、連れてきてくださった。
「見失われた羊」は、自分の力でがんばって、家に帰ってきたのではありません。飼い主が探して、見つけて「担がれて」帰ってきたのです。
「見失った銀貨」も、銀貨が自分で歩いてくるわけがない。女性が探して、見つけて、拾いあげて、もとの場所の帰ったのです。
わたしたちも、自分一人でがんばっても無理なのです。いや、むしろ自分が頑張らなければという思いこそが、神様とつながり、お互いがつながる、愛の関係から迷いださせてしまうのだから。
そして、だれも自分のことをわかってくれない、孤独だ、一人ぽっちだと、苦しませていくのだから。
もし、今、その孤独な心の痛みに苦しんでいるのなら、今もあなたを探し続けている、主イエスの声に、
福音に、心を開いてほしいのです。
主イエスは、いつもわたしたちを探しだし、神の子たちが、一緒に喜ぶ、天の祝宴へと、招かれるのです。
ルカの福音書の5章に、徴税人の「レビ」が、主イエスに招かれ弟子になった話がありました。
周りのみんなから、ローマの手先となって、仲間から税金を集める裏切り者、犯罪者のように、見下されいたレビ。
そのレビを主イエスは、ご自分の大切な弟子へと招きました。
レビは、周りの人がだれも信じてくれないなか、主イエスが信じ、主イエスが期待し、主イエスが、弟子に招いてくれたことが、本当にうれしくて、うれしくて、
彼はすぐに主イエスについていくのです。徴税人であったことを反省したり、謝罪などせずに。
むしろ、そのレビの喜びは、そのすぐ後に、自分の家に、沢山の、罪人と呼ばれる友達を招いて、イエスさまと一緒に大宴会を開かせた。
主イエスに信じてもらって、主イエスに期待してもらって、彼はうれしくて、すべてを捨てて、主イエスの後についていったのです。それこそが、レビ悔い改め。
わたしたちも、同じように主イエスに信じられ、期待され、招かれています。
疑われること、責められること、追い詰められることで、従うのではなく、
心配され、信じられ、あなたなら大丈夫と、なお期待されるとき、
人は、迷い出てしまった場所から、本当の自分の家へと帰っていくことができる。
信じ招いてくださった、主イエスの後に、したがって歩き始める。
それが「悔い改め」
教会。それは、主イエスに探されて、信じられて、招かれ、期待されて、神の家へと帰ることができた、
その神の奇跡、恵みを「一緒に喜び合う仲間」です。
「いいえ、わたしは悔い改める必要のない、99匹の正しい人の一人だから大丈夫ですよ。
だから、毎週教会に来ているんです。礼拝を守っているんです。
だから、わたしは悔い改める必要なんてさらさらないけれど、
でも、あの人は、教会にこないし、信仰も、いつもフラフラしている迷った羊のようだから、
罪人は、悔い改めないと、裁かれますよ。ええ、わたしはいいのよ、正しい99匹だから」
という話をイエス様がしておられるのではないことは、もう、十分おわかりでしょう。
そもそも、このたとえ話は、自分たちは正しいだと、自分を誇っていた、ファリサイ派の人々、律法学者たちが、
「この人は罪人たちを迎えて、食事までしている」とイエス様に不平を言ったことから始まった話なのです。
つまり、わたしは、いつも正しく、迷ったりしない99人のなかの一人です、という人々に向けて、イエス様はこの話を語ったのです。
あなたたち律法学者が、天の神様に認められたくて、がんばって正しく生きることよりも、
あのどうしようもないやつと、あなたたちが見下していた、あの人が、
本当の自分を取り戻して流した涙のほうが、はるかに「天において、大きな喜びがあるんだよ」と
そんな、律法学者たちへの、主イエスの皮肉の言葉にも、聞こえます。
今日のお話の一つ目のポイントは、「悔い改め」とは「天における喜び」であるということです。
そして今日の二つ目は、その喜びを「一緒に喜んでください」。「一緒に喜びあいましょう」ということです。。
なぜなら、ファイサイ派と律法学者たちは、一緒に喜べなかったからです。。罪人と一緒にいることを、どうしても喜べなかった。それはわたしたちにもおこることでしょう。
一緒にいる。一緒に食事をする。一緒に祈る。一緒に生きる。
100匹の羊がいれば、100匹全員が、神にとって必要で、大切。一緒にいてくれることが、神の喜びであるのに、
99匹の羊にたとえられる、99人の正しい人たち、ファリサイ派や、律法学者たちは、迷いだした1匹が返ってくること。一緒にいることを喜べなかった。
徴税人をはじめ、障害を持つ人、精神の病の人、重い皮膚病の人、異邦人、外国人、当時はそれらの人々を、罪人と呼んで、ユダヤ人の共同体から、排除していたのです。99匹のなかからに、その1匹は入れてもらえなかった。
それは、ルカの福音書が書かれたときの、教会にもあった課題だったとも聞きます。
自分たちとは違う一匹と、一人と共に生きるのは、難しい。できれば、同じような99匹、99人でやっていきたい。
イエス様の時代のユダヤでも、ユダヤ人の中で、そういう選別をして、あれは安息日を守らないから、罪人だ、これは病気になったから罪人だと、一匹、一匹の羊を、切り捨てていく、殺伐とした社会だったわけだから。
それは、やがて自分もいつか、その1匹になるかもしれないと、おびえて、崩壊していく社会じゃないですか。
蟻の生態について、不思議な話を聞いたことがあるのです。
100匹の働きアリがいても、なぜかそのうち数匹は、必ず、なにもしないでぷらぷらしだす。もっとも、実は、なにか深い意味があるのかもしれませんけど、人間から見ると、怠けているようにしか見えないわけです。
なので、そのぷらぷら蟻を、こいつは怠け者だと取り除いて、全部よく働く蟻にしてみても、しばらくするとその残ったうちから、また何匹かが、ぷらぷら蟻になってしまう。そこで、こんちくしょうと、また、そのプラプラ蟻を取り除いても、また、しばらくすると、残りの蟻の中で、数匹がぷらぷら蟻になる。
そして、どんどん、ぷらぷら蟻を取り除くとしれば、最後は、どうなりますか。蟻の共同体は崩壊してしまうでしょう。
神様は、深い目的と計り知れない意図があって、プラプラ蟻を存在させている。そのことが人間にはわからない。
そして、自分のはかりで計って、切り捨てるわけです。
ファイサイ派や律法学者たちがしていたことは、そういうこと。
自分たちは真面目な働き蟻だが、あの怠け者のプラプラ蟻はけしからん、罪人と切り捨てる。
これは1世紀のユダヤの話だけではなくて、今の私たちの社会の話でもあるのです。
役に立たない、1匹の羊を探している時間があったら、残った99匹を使って、利益を上げるべき。
そうやって、家庭が、会社が、国が、そういう損得勘定だけになれば、あの蟻の実験のように、
社会は滅びてしまうではないですか。
損得勘定を超えさせてでも、1匹を追い求める愛が、この世界からなくなってしまったら、
99匹をその場に残してでも、1匹を探し続けないわけにはいかない、主イエスが示された、神の愛が、
この損得勘定に満ち溢れた世界にはどうしても必要だから、
天の父なる神は、大切な御子イエスキリストを、この世界におあたえになりました。
それは、人の目には、まったくの大損にしか見えない、十字架に命を捨てる道を歩むために、
その十字架の道だけが、わたしたち一人一人を救い、この世界を救う唯一の道だからこそ、
主イエスは、その道を歩みぬくのです。
そして今、復活した主イエスは、わたしたちのなかに宿り、
わたしたちの心の奥底から、損得勘定を超えた、愛を、
なぜかはわからないけれども、どうしてもこの一匹を、この一人を見捨てられないという、
愛が湧き上がってくる。
この愛こそが、神の愛こそが、この世界を滅びから救う。
ゆえに主イエスは言われます。「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」のだと。