ルカによる福音書15章11節〜
雨の日曜日となりました。
先週の日曜日は素晴らしい秋空で、あちらこちらで運動会があって、教会のこどもたちも、家族の方もそちらに行かれたりして、少しさびしかったんですよ。
ちょうど、聖書の箇所も、「見失われた羊」のたとえばなしでしたしね。
でも、羊飼いのイエス様に探されて、今日もわたしたち、神の羊である、一人一人、こうして集まることができました。感謝です。
そういうわけで、先週の礼拝から、ルカの15章に入ったのです。15章は、イエス様の三つのたとえ話からなっているんですね。
「見失った羊」「無くした銀貨」そして、今日の「放蕩息子」のたとえ。
みんな、見失ったものを、見つけたときの、大きな喜びのお話です。
そして、そもそも、この3つのたとえ話をイエス様が始めたきっかけ、というものがあるわけですね。
15章の最初に、こう書かれています。
「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。」
この、ファリサイ派の人々と律法学者たちの、不平、不満。それがきっかけだったわけです。
徴税人とか罪人と呼ばれていた人々が、イエス様の話を聞こうとして集まっている。そのことを、喜ぶところが、白い目で見ていた人たちがいたわけです。
その不平を言っている人たち、怒っている人たちに向かって、要するにイエスさまは、
「あなたたちも、一緒に喜ぼう」と、招いてくださっている。
わたしは、この三つのたとえ話は、そんなイエス様の招きだと、読むのです。
今日の「放蕩息子のたとえ」話も、最後に父親が言いますね。
32節で
「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて喜び楽しむのは当たり前ではないか」
と。
弟が返ってきたことを、父のようには喜べない兄に、「怒っていないで、一緒に喜ぼう」と諭す父。
「いなくなっていた弟が、見つかったのだから、祝宴を開いて喜び楽しむのは、当たり前じゃないか。」という父
怒っていないでわたしと一緒に喜ぼう。それが当り前。
そう告げる父。そして、この父親のようなお方が、あなた方の神、天の父。天の親なのだと、イエス様は教えてくださっているのでしょう。
わたしたちの教会が、今年度のみ言葉として、選んだみ言葉にもあるでしょう。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」ローマ12章15節
この喜ぶ人と共に喜ぶという、天の父、天の親の「あたりまえ」を、「本当にそうだ。それがわたしたちの当たり前だ」と言いあえる集まりのことを、「神の国」というのだろうなと、わたしは思っているわけです。
しかしこの主イエスがたとえ話で語られた、天の父、天の親の「あたりまえ」は、ファリサイ派、律法学者たちにとっては、とても「あたりまえ」とは思えなかったはず。
だから、あんな徴税人や罪人などと、一緒に食事をするとはなにごとかと、不平をいうわけです。
彼らは、このたとえで言うなら、放蕩息子の兄だったわけだから。
真面目に家に残って働いていた兄は、思ったでしょう。
父が生きているうちに父の遺産(いさん)を金に換えて、家を出ていったあの弟。
しかも、遠い国にいったということは、
自分たちの仲間とカ、伝統とか、受け継いできた生き方とか、価値観を、みんな捨てたということだから。
当時の真面目なユダヤ人にとって、こんな生き方は、あり得ない。
ローマという外国人に支配されるなか、必死になって、ユダヤ人としての伝統、律法、価値観を、それこそ命がけで守ってきた人々にとって、
こんな弟のような生き方、仲間を捨て、異教の地に出ていくとは、なにごとかと、いう話に聞こえたんじゃないか。
結果として、この弟は、異教の地で、すべてを失い、飢饉(ききん)に見舞われ、
ついに、ユダヤ人として最低のところにまで落ちる。ユダヤ人が忌み嫌った豚の餌でも食べたいという、これ以上下がないという、底までついて、弟は我に返って父のもとに帰ってきたという、このたとえ。
もしかしたら、ファリサイ派や律法学者たちは、自分たちには関係がないと思って、聞いていたのかもしれない。
でも、よく考えてみれば、そもそも、ユダヤの民そのものが、民族として、この放蕩息子のように、家を飛び出し、どん底を経験し、そして戻ってきたということを、経験しているわけです。
朝の教会学校に出ておられる方は、今、エゼキエル書を読んでいますでしょう。
神に愛され、導かれてきたイスラエルの民は、やがて、神から離れて、偶像を拝むようになる。
そんな王様が、次から次へと続くなか、国は北と南に分裂し、北はアッシリアに滅ぼされ、南ユダは、バビロニアという大国に、責めこまれて、民が、バビロンに連れさられてしまう。そしてその苦難の中で、信仰を取り戻して、やがてエルサレムに帰ることになる。
この、いわゆるバビロン捕囚とは、ある意味、父である神から離れた弟が、外国にいって苦しい思いをして、やがて我にかえって、帰ってくるという、放蕩息子と同じではないですか。実は、ユダヤの民全体が、この放蕩息子を経験している。
悔い改めて、新しく生きるという経験を、すでにしている。
ところが、それから長い年月がたつなかで、イエス様の時代には、いつのまにか、弟から、兄になっていたのです。
つまり、もうあんな神から離れるような失敗はしない。どんなことがあっても、律法を守る。守れるように細かく規則を決める。そんな律法学者たちが現れてきた。
そうやって、頑張って自分の力で神の教え守るなら、神は愛してくださる。律法を守らなければ、神に見捨てられる。
そんな考え方になっていくのです。
かつては弟だったのに、放蕩息子だったのに、エルサレムという家に帰ってきたら、だんだん放蕩息子の兄のようになっていく。
そこから、ファリサイ派や律法学者という、兄の代表のような人々も現れてきたわけです。
そんなファリサイ派や律法学者たちにとって、この放蕩息子の弟を受け入れ、無条件に受け入れてしまう父を、
自分たちの神であると、イメージするのは、難しかったでしょう。
たとえ話のなかで、この兄が、父の振る舞いを、まったく理解できなかように。
この兄は、この祝宴が始まっている時にも、畑仕事をしていたのです。
実に真面目。父の言いつけを守りぬく人。
ところが仕事が終わって帰ってくると、歌え踊れの、祝宴をしていたわけでしょう。
自分は父の言いつけを守って、畑仕事をしていたのに・・・。
いったいこの祝宴はなんなのかと聞いてみれば、あの家を捨てて出ていった、罪深い弟が、帰ってきて、
父が喜んで祝宴を始めたのだという。
それを聞いて、兄は怒り、祝宴をしている家に入らなかった。とても一緒に祝えなかった。
なだめに来た父に、兄は、自分の怒りの理由をぶつけます。
「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけにそむいたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰ってくると、肥えた子牛を屠っておやりになる」
今までお父さんに喜ばれるようにと、一生懸命生きてきた。
言いつけにそむいたことは一度もありません。
なのにあの、お父さんを苦しめ、悲しませてきた、弟が帰ってきたら、こんなに盛大な祝宴を開く。肥えた子牛さえ屠って。
僕には子山羊一匹くれなかったのに。
これが兄が怒っている理由。
彼が頑張ってきたがゆえに、誰にも負けないほど、一生懸命父の言いつけを守ってきたがゆえの、怒りともいえる。
でも、兄は誤解しています。
父は、なにも、この兄が嫌いで、子山羊一匹をケチって来たわけじゃないのです。
父は兄にこう言います。
31節
『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」と
父はすでに、自分のすべてを兄に与えたいと思っている。子山羊一匹ケチっている話ではないのです。すべてはお前のものだとさえいうほどに、父は兄を愛してきたし、愛している。
しかし、その父の愛が、兄の心に届いていなかったのです。誤解されていた。
父に愛されていると、兄は思っていなかった。思えなかった。
だから兄は、「あなたは子山羊一匹くれなかった」というのです。
あなたは、わたしを愛していない。いうことを聞かせてこき使う、ひどい人だという、
心の底に秘めながら、言えなかった、その恨みが、怒りが、
弟が返ってきたことをきっかけに、噴き出した。そう読める。
兄は、父を恐れていたのかもしれません。頑張らなければ愛されないのだsと。
ゆえに父に愛されたくて、言いつけを守ってきた。
しかしその鬱積(うっせき)したまりにたまった叫びが、ここで爆発した。そう読める。
宮台真司という社会学者が、ある対談のなかでこんなことを話していました。
東大や医学部という高学歴の学生のなかに、沢山売春をしている子たちがいる。フィールドワークで、その子たちの話を聞いてみると、最初は好奇心から、そういうことをしたと言うのだけれど、深く話をしていくと、ほとんどの子たちが、親への恨みを口にする。この親でなければ、自分には違う道があったのでないかという恨みから、彼女たちは性の世界に乗り出していく、ということを言っていたのを聞いたことがあります。。
親に喜ばれる子、がんばり、ほめられる子でありつづけ、親も子育てに成功したと思うエリートの子たちの中に、ふつふつとした親への恨みがため込まれている。
それは、神の律法に、そむくことなく、従順なる優等生を生き続け、ユダヤのエリートとなった、ファリサイ派、律法学者たちのなかに、ふつふつとため込まれた、神に対する恨み、怒りにも通じる。
主イエスは、この放蕩息子の兄の姿をとおし、その真面目なエリートの仮面のなかに隠されている、ファリサイ派、律法学者たちの、神に対する、自分の中にある本当の思い。恨み、怒りに、向き合わせておられるように、わたしには、読めるのです。
この兄の、父への恨み、怒りの言葉は、あなたがた、ファリサイ派 律法学者たちの思いじゃないか。
あなたがたが、嫌いなのは、実は徴税人でも罪人たちでもなく、神ではないのか。
この兄の怒りが、弟に向かうのではなく、父に向ったように。
ファリサイ派、律法学者が心の底で恨んでいたのは、怒っていたのは、神であった。
それはやがて、神の御子、主イエスを、十字架へと押し上げていく、怒りとして、明らかになっていくのです。
しかし今日申し上げたいことは、福音は、まさにこの、怒りをぶつける兄への、父の言葉にあるのです。
父は兄に言います。
『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」と。
父は、兄を支配し、恐れさせて、無理やりいうことを聞かせてきたのではない。子山羊一匹もあげないほど、ケチだったわけがない。
わたしのものは全部お前のものじゃないか。だれよりも、いつも、お前のそばに、一緒にいたではないか。
この父の愛を、兄は誤解していました。
すでに父に愛されていることを信じられなかった。真面目に頑張らなければ、愛されないと、自分を追い込んできた。
そんなファリサイ派や律法学者たちへ、また、この兄のように、
すでに愛されていることを、信じられないで、頑張っているすべての人に、
この、「天の親心」が届きますように。
『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」
この「天の親心」が、ファリサイ派、律法学者たちの心に、届くなら、
「徴税人や罪人と一緒になぜ食事をするのか」と、不平が口に出ることもないでしょう。
不平が出るのは、自分自身の心の欠乏状態なのだから。
どうかこの「天の親心」「神の愛」が、届いてほしい。主イエスはその思いで語っておられるのではないか。
放蕩息子も、その兄も、天の親にとっては、かけがえのない子なのだから。
天の親を喜ばせようと、悲しませようと、天の親の愛は、変わらないのだから。。
地上の親の愛は、限界があります。愛に条件がつきやすい。
愛に条件がつくと、わたしたちは、愛されようと、その人の喜ぶことをするでしょう。
親であれ、上司であれ、先生であれ、夫であれ、妻であれ、なんであれ、
その人が喜ぶことをして、わたしも愛してもらいたいと、条件付きの愛に支配され、
その人に嫌われることをすれば、傷つき、失望する。
条件付きの愛は、人を支配し、傷つけ、自分らしさを見失なわせるのです。
しかし、そんな条件付きの愛に傷つき、支配されているわたしたちに、
主イエスは、今日のこのたとえ話をとおして、
天の親の愛には、条件などないのだと語ってくださっている。
御自分の子を、放蕩息子であろうが、真面目な兄であろうが、分け隔てなく、愛しぬかれるお方こそが、天の親なのだと教えてくださっている。
これが福音です。
そして、神が、この父親のように、無条件に、無償の愛で愛される証拠。
それが、主イエスの十字架です。
昔、「ラスト・エンペラー」という映画がありました。
中国最後の皇帝に選ばれた幼い子。彼は、1000人の宦官に仕えられながら、贅沢三昧の不思議な生活を送っています。ある時、その子の兄弟が聞きました。
「あなたがよくないことをしたら、どうなるの」と。すると彼は言いました。
「僕がよくないことをすると、他の人が罰を受ける」と。そして、それを証明するために、彼が壺を割ると、しもべの一人がぶたれるという、映画のシーンがあるのです。
これが、強いものが弱い者を支配する、この世の原理。
しかし、神はそれをひっくり返された。
しもべであるわたしたちが、間違いを犯し、罪を犯したその罰を、王である主イエスが背負うことで、わたしたちは赦された。これが十字架の福音。
神が人を愛し、赦されるのに、条件もなく、無償であるその理由は、
その愛と赦しを与えるお方自身が、わたしたちの罪の裁きを、引き受けられたからです。
罪を犯し、神を悲しませ、神を恨みさえし、背を向けつづける、その人間の手にかけられて、
十字架の上にあげられた主イエスは、こう祈った。
「父よ彼らをお許しください。彼らは自分がなにをしているのか、わからないのです」と
その十字架に死んだ主イエスを、神は復活させたのです。
人間が神に謝ったからでも、悔い改めたからでもなく、よい行いをしたからでもない。
そうではなく、神が、人間の罪によって死んだイエスを、復活させたのです。
神がイエスを復活させた。神がすべてを回復なさった。
神による復活。
これこそが、神の愛というものが、人間の行いや条件で、変わることのない証です。
今、あなたが、どのような境遇におかれていても、どのような状況であろうと、
今までどのような人生を歩んできたとしても、
主イエスの十字架と復活のゆえに、わたしたちは、天の親に愛されている子とされたのです。
この信仰に、主イエスの言葉によって目覚めていく。それが救いです。
神に愛されている「子」になることが救いなのではなく、
すでに神に愛されている「子」である、自分へと立ち返ることが、救い。
放蕩息子が、父の子であることに立ち返ったように、
そして、放蕩息子の兄もまた、神に愛されている「子」であることに、立ち返ってほしい。それが、このたとえ話を語られる主イエスの心。
わたしたちはすでに、神に愛され、赦されている、神の子です。
そのことに目覚め、
あの人もこの人も、兄も弟も、一緒になって、神に愛されている「子」である、本当の自分に、立ち返ったなら、
これこそ、まさに祝宴を開いて喜び祝う出来事。
この神の「子」に立ち返る喜びが、「当たり前」となる神の国が、
きますように。
32節の、父の最後のことば。
32 「あの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」