エゼキエル8章1節〜13節
夕礼拝では、先週に引き続きエゼキエル書を読み進んでいます。
神様に愛され選ばれたアブラハムから始まった、神の民イスラエル。
そして増え広がった神の民が、12部族連合から、統一王国となり、北と南に分裂し、北イスラエルはBC8世紀にアッシリアに滅ぼされ、南ユダは約200年後にバビロニア帝国に連れて行かれてしまう、いわゆるバビロン捕囚が起こる。
そのバビロン捕囚は、いっぺんにすべての民が連れて行かれたわけではなくて、3度にわたって少しづつ、移動させられたわけです。
その第一回目の捕囚で、バビロニアに連れて行かれた人の中に、預言者エゼキエルがいたわけですね。エゼキエルは祭司でもあったようです。
先週は、異教の地であるバビロニアに連れていかれたエゼキエルが、神から見捨てられたようなその状況の中で、天が開け、そこにさえ、なお神がおられることが示される、神の栄光の幻を見たという、出来事を読みました。
エルサレムの神殿でなければ、神を礼拝できない。こんな異教の土地に、我々の神はいないと失望している、その心の目が開かれて、そこにおられる神の栄光を見せられた。
この花小金井教会も、会堂建築のときに、この場所で礼拝できなくなったでしょう。そしてあちこちの会議室や家につどって礼拝をなさったでしょう。
この経験は、教会の歴史の中で、とても重要なことだと思うのです。つまり、どのような場所であろうと、環境であろうと、天が開き、心の目が開かれ、そこに神がおられることを、神の民として体験した出来事だと思うからです。
わたしもかつて東京の教会から、神社仏閣に囲まれた土地に、「捕囚になった」とはいいませんが、その場所でひっそりと捧げた数人の礼拝のなかにも、神がともにおられることに、心の目を開かさせられる、という体験を経て今があります。
エゼキエルという人も、バビロンの地に連れて行かれるなかで、心の目が開かれて、人の目には絶望的にみえるところにさえ、主がおられることを、幻として見るようになった、心の目が開かれた人であると、そういう見方もできるでしょう。
さて今日は、8章の出来事です。冒頭の「第6年」とは、バビロンに捕囚されてから、6年目の出来事考えられます。
自分の家に座っていたエゼキエルの前には、南ユダから一緒に連れ去られてきた長老が座っています。共に集って、故郷のこと。エルサレムの主だったリーダーたちがいなくなった、エルサレムは、神殿は、今どうなっているのか。そのことを思って、語りあっていたのかもしれません。
そのとき、主なる神の御手がエゼキエルの上に下り、人の有様をしたような、不思議な存在につかまれて、幻のうちにエルサレムの門の入り口まで、エゼキエルは運ばれていきました。
その城門の入り口には、「激怒を起こさせる像」が収められています。
さらに、北のほうに目をあげると、門の北側に祭壇があり、そこにも「激怒を招く像」が置かれていました。
さらに、壁に小さな穴があり、その穴を広げてみると、そこに入口があり、入ってみるとそこには、周りの壁一面に、地を這うもの、蛇でしょうか。獣の像。あらゆる偶像が彫りこまれていたのでした。
さらに、そこにおいて、イスラエルの長老たちが、シャファン子こヤアザンヤを中心にたっている。このシャファンとは、かつて南ユダが一時神への信仰を取り戻した時期、「律法の書」が発見されて、当時のヨシア王が、国から偶像を一掃するという、宗教改革があった、その発見された「律法の書」を、ヨシア王のまえで朗読した書記官。
しかし、今や、その息子のヤアザンヤが、先頭切って、偶像への礼拝を導いているという状況。
この光景、幻をエゼキエルに見せている、存在は言います。
12節
「人の子よ、イスラエルの家の長老たちが、闇の中でおのおの、自分の偶像の部屋で行っていることを見たか。彼らは、主は我々をご覧にならない。主はこの地を捨てられたと言っている」
大勢のものが、すでにバビロンへと連れ去られてしまった。この状況をみて、残った人々は、主はこの地を捨てられたのだと解釈した。
さらに14節では、豊穣の神、タンムズ神のために泣きながら座っていた女性。おそらく熱心に、異教の神に祈っていたのでしょう。
さらに、16節からは主の神殿の中庭、主の聖所という、もっとも神聖なところで、それにわざわざ背を向けて、東から昇る太陽を拝む人々。
これは、主なる神の鼻に、木の枝を突きつけ、さらに怒らせようとしているのだ。
それゆえに、わたしは憤り、いつくしみの目を注ぐことも、憐れみをかけることもしない。
彼らが私の耳に向かって大声を上げても、わたしは彼らに聞きはしない。
その言葉で、8章は終わります。
エゼキエルは、バビロン捕囚という試練の中に置かれても、なお、主に向き直ろうとしない、方向を変えようとしない、変わろうとしない、かたくなな民の姿を見せられました。
歴史家によると、バビロンという巨大な帝国に支配された南ユダの中では、大きく二つの考え方、グループに分かれていったそうです。
ある人々は、この苦難を、自分たちが主なる神から離れた罪によって起こったことと受け止め、変わろうとした人々。
そしてもう一つは、この苦難をもたらした、あのバビロンへの、反乱を主張する人々。
これを違う言い方で言い換えるなら、苦難の中で、自分自身が問われ、変えられて行った人々と、一方で、自分を問うことなく、むしろこの苦難という状況や環境を力づくで変えようとした人々。
おそらく、このときエゼキエルが見せられた人々の幻、姿は、後者の人々の姿でしょう。
この苦難におかれながら、悔い改めて、主に向き合うことなく、この苦難そのものを取くために、あらゆる偶像を持ち込んで、祈っていた人々の姿でしょう。
そして、そういう姿が、主を悲しませていること、怒らせていることに、気が付いていない。目が開かれていない。
だから、よりにもよって主の神殿のなかにさえ、偶像にむかって礼拝をささげ、祈ることができたわけです。
しかし、目が開かれたエゼキエルには、ここエルサレムにも、イスラエルの神の栄光があることが見えた。
4節にそう書いてあります。バビロンにつれて行かれたエゼキエルが、その地で見た神の栄光と同じものが、神に見捨てられた。神はこのエルサレムを捨てられたと、人々がいい、偶像を拝んでいた、まさにそこに、主の栄光は何も変わることなくあった。
エゼキエルには見えるけれども、ユダの民には見えない。
見えてさえいたら、偶像など礼拝することもないでしょう。
かたくなな心、自分の思いを押し通す心のゆえに、心の目が閉じたままのファリサイ派や律法学者たちが、目の前に、メシアとして主イエスが語っておられるのに、見ているのに、見えていない。
聞いているのに、聞こえていない。
主イエスが、耳のある者は聞きなさいと言われたのは、そういうことでしょう。
見えているのに見えない。聞こえているのに聞こえない。
見えないまま、聞こえないまま、的外れな方向に歩んでいくことのないように、心の目と耳が、主に向かって開かれることを、いつも、祈り求めたいのです。
まさかバビロン捕囚という出来事のなかに、主がおられ、主の御心があることを、受け入れられず、変わることを拒みつづけて、ボロボロになっていくユダの人々。
しかしある人々は、この苦難を、古い自分たちを捨てて、新しくされていく、悔い改めの恵みと受け止めて、実際、主によって、回復させられ、新しくなっていく。
こういう出来事は、教会の歴史の中でも、個人の信仰の歩みの中でも、小さなレベルで、小さなバビロン捕囚が、主の恵みとして、与えられたんじゃないかという、そんな経験を、皆さんもしておられるかもしれません。
この8章の主なる神様の怒りは、9章ではさらに激しくなり、エルサレムの民へを滅ぼさずにはおれない怒りとなって、降り注ぎます。
しかしそうであっても、究極的には神の民は、主によって回復されていくのです。37章には、有名な枯れた骨に、主の霊が注いで復活する幻をエゼキエルは見ます。
主なる神は、御自分が選び、祝福すると約束された民を、滅ぼしつくしたりはなさらない。それでは、御自分があなたを愛し、祝福するという約束を、御自分で破ることになってしまう。
神の愛と義のゆえにそれはできない。
神の怒りも、神とイスラエルの愛の関係への、裏切りに対する、怒り。
神の義、神の正しさを求めてやまない、神のお姿と理解できます。
エルサレムに祭られていた、「激怒を起こさせる像」と訳されている言葉は、他の翻訳では、「ねたみを引き起こすねたみの像」と訳されています。
神がねたむという表現が、誤解されやすいので、新共同訳では「激怒を起こさせる像」と訳したのかもしれませんが、「ねたみ」と訳すほうが、いいのではないかと、わたしは思っています。
この「ねたみ」と訳される言葉は、出エジプト記で「十戒」を授かったとき、神様がご自分について、こういわれたところに、最初に出てきます。
口語訳
20:5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
新共同訳
20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。
英語の訳では、ジェラス(嫉妬)という言葉もつかわれています。
「嫉妬」とか「ねたみ」という言葉は、悪い意味で、否定的、破壊的な感情。自分にないものを、羨んだりするような言葉のイメージがあるのですけれども、神が御自分のことを、わたしは「ねたむ神」と言われるときは、そうではなく、愛と信頼関係を壊す存在を、許さないという、そういう熱い愛の裏返しの表現としての「ねたみ」であり「怒り」なのです。
聖書はよく、神が夫で、イスラエルの民を妻のようにたとえることがあります。
夫である神様が、これ以上ない忠誠と熱き思いを、妻であるイスラエルに注いでいる。夫である神様は、決して浮気しない。イスラエルの民を愛しぬいている。
なのに妻であるイスラエルは、だんだん夫から心が離れ、あっちの男、こっちの男、あっちの偶像、こっちの偶像に、心を許して、夫である主に背を向けてきた。
「まあ、いいんじゃない」「彼女には彼女の人生があるんだから」「好きな人ができたんなら、その男と一緒になれば」
という夫は、妻のことを愛してなどいないわけです。
妻を熱い熱い思いで愛し続けている夫だからこそ、妻が愛を裏切っていくことを、許せない。許せないのは、愛しているから。怒るのは、愛しているから。どうでもいいとは、思えないから。
そういう夫と妻という特別な関係に、神とイスラエルはたとえられるほど、関係は深い。
神の怒りは、「関係」に関する怒りです。
関係があるから、怒られる。
関係を壊されたから、怒られる。
そして、関係を回復したいから、神は怒られる。
それが、神の「激怒」です。「激怒」せずにはいられないほどの、激しい愛「激愛」とでもいうものがあるわけです。
その激しい愛を受けているのが「神の民」であり、わたしたち一人一人。
その愛の証が、神の大切な御子イエスを、わたしたちのために、十字架につけられたという、人間の常識や想像の及ぶべくもない、愛。
まさに「劇愛」とでも表現するしかない愛を、すでにわたしたちは、受けている。
さて、そうであるとすれば、必然的にわたしたちは、ひとつの問いをいただくことになるのです。
わたしたちは、この神様の「劇しい愛」。熱い愛に、今まで、そして今、どう応えて生きてきたでしょうか、という問いです。
今週、また新たに、心の目、心の耳が開かれますように。
すでにわたしたちのなかに与えられている、神の栄光、神の激しいまでの愛が、
私たちの日々の現実のなかで、とどまることのない変化を、成長を、実りをみのらせてくださいますように。
まず、主に祈りもとめることから始めたいのです。