人間は本来、愛にこたえて、自発的に良い行動へと動機づけられるはずですが、(エフェソ2:10)
エゴに「囚われ」ていて、そうならないのが人間の実態であるわけです。パウロはそれを罪の法則(ローマ7:23)といいます。
つまり、聖書のいう罪の本質は、「悪いことをさせる力」ではなく、
神の愛に応答的に生きる、つまり善に生きる本来の「自分らしさ」に、生きられないように、罪の法則に囚われてしまっている状態
といえます。(ローマ7:15)
さてそのような視点で福音書を読むとき、主イエスの働きとは、その「囚われ」から解き放ち、人々を本来的な自己、神の愛に応答する人へと、解放する、「福音」を語っておられた、と理解できます。(ルカ4:18-)
当時、もっとも自分自身を縛る「囚われ」から自由にならなければならなかったのが、ファリサイ派や律法学者といわれる人々でした。
律法(トーラー)を守るといっても、律法は論理的な規則集ではなく、
矛盾やあいまいなこともあり、現実の生活の中で、守れているのかはっきりしないゆえに、
律法を具体的生活の適応するための解釈集として、ラビたちが定めたタルムード、ミシュナという教えが生まれ、
その「トーラーの解釈集、規則集」によって、人々を「囚われ」へとひきいれていった人々として、
福音書はファリサイ派や律法学者たちを描いています。(マルコ7:1-)
そういうあり方が、神の愛に応答的に生きる神の民らしさを見失なわせていたと福音書は語っているというのが、私の理解です。
人の心を縛りつけ、神の愛に応答的に生きるその人らしさを失わせる、「囚われ」の力は
実は「悪い行い」とか「悪癖」のような、目に見えるものであるより、
むしろ「良い行い」に「囚われ」ることのほうが、その「囚われ」ている実態が見えにくくされてしまい
根の深い問題と化してしまうことが、ファリサイ派律法学者たちと、主イエスとの対立という形で描かれていきます。
主イエスと対立していく彼らは、律法を守ると言いながら、彼らの解釈したいわゆる「人間の教え、きめごと」に「囚われ」、
その囚われから人々を解放しようと「福音」を語る主イエスを
憎み、策略し、十字架へと押し上げていくのです。
「囚われ」の恐ろしさ極まれりです。
さてどの宗教も、基本的に「良いこと」を説いているので、気を付けないとこの「囚われ」という罠にはまります。
自分たちだけが「良いこと」「絶対善」「救い」を所有していると「囚われ」やすく、洗脳されやすいのです。
その「囚われ」によって、皮肉なことに、その「良いこと」「絶対善」「救い」の源である神との「関係」が途切れ
人との「関係」が壊れていきます。カルト宗教は必ず他者との関係を破壊していく方向へと向かうように。
この「囚われ」を「罪」と理解するとき、「罪」の「悔い改め」とは「囚われ」からの解放、
神の愛に応答的に生きていく「自分らしさ」への方向転換、回復という理解も成り立ちます。(ローマ7:24-8:2)
そして、この福音の理解こそ、この「囚われ」の力に満ち満ちた時代に立てられた教会に
必要とされている理解であると、わたしは信じるわけです。