ルカによる福音書14章1節〜14節
9月になりましたね。わたしたちの教会は、9月を教会学校月間として過ごします。
大人から、子どもまで、小さなグループになって、聖書のみ言葉に聞いて、互いに語り合う、それが教会学校。
「ええ、日曜日なのに、また「学校」ですか」と、初めて来られた方は思われるでしょうね。
「教会学校」という言い方は、慣習ですから、ほかにいい言い方があったら、それでもいいんです。
いまどき、知識を得ようと思ったら、インターネットをはじめ、いくらでも情報、知識を得る手段はあるわけです。
効率からいうなら、聖書を勉強するのも、参考書を一冊買って、一人で勉強したほうが早いでしょう。それはそれでどんどんしていただいたらいい。
しかし、教会にきて、小さなグループで、顔と顔を合わせて、神の言葉としての聖書を読み、心の中に湧き上がってきた思いを、分かち合い、聞き合うという、この「教会学校」という現場は、聖書の知識を得るという、お勉強会とは、決定的に違うんです。
何が違うのか、わかりますか。
これは、決して一人ではできないということ。つまり、神と人との人格的な、出会い。そして交わり、交流の現場だから。
一人ひとりが生きている現実。その人生の積み重ねのなかで、作られてきた人格と、まったく違う人生を生きてきた、人格が、
目に見えない、主イエスを真中に、出会い、向き合い、語り合い、交流し、高めあい、支えあう、実に素晴らしい、現場なんです。
なかなかそういう理想通りにはならないこともあるけれども、時に、その人の心の奥底の言葉に、喜びに、嘆きに、痛みに出会い、心と心がつながるという、深い喜びを体験することもある現場。
この一緒にささげる礼拝。一緒に神の言葉を聞き、神に祈り賛美を捧げる礼拝は、もちろんいうまでもなく大切。
しかし、一緒に礼拝をささげながら、横に座っている人と、全く出会うことなく、関心もないというなら、それは実にさびしく、もったいないことではないですか。
先ほど朗読されたルカの福音書の出来事。長い個所でしたが、前半は「安息日」に起こった出来事でした。
主イエスの時代の安息日とは、まず会堂に集って、ともに礼拝する日です。
イエス様も、安息日には、会堂でみ言葉を教えることがあったと、福音書にあります。
その安息日に、イエス様が食事に招かれたというのは、おそらく、昼間の礼拝が終わった後の食事のことだと言われます。
わたしたちも、礼拝の後に一緒に食事をしますけれども、そんな、礼拝後の食事を一緒にしませんかと、ファリサイ派のある議員に、イエス様は招かれたのではないかと、想像できます。
そう考えるなら、とても複雑な思いになります。
今、一緒に神を礼拝したばかりなのに、そのすぐ後に食事に招いて、人々が、イエスさまのすることを、うかがっているという、なんだかいやな雰囲気が漂ってくるわけです。
なぜかその食事の席には、水腫の病の人がいて、イエスがこの人を治すんじゃないか。そんなことをしたら、安息日にしてはいけないことを、なぜするのかと、責めるつもりで、人々は、イエスの様子をうかがっていた、ということでしょう。
今、一緒に神を礼拝したばかりなのに。ああなんと、虚しい礼拝なのだろう。そう思います。
礼拝において、神の言葉と新しく出会い、集まってきた人々と出会い、わかち合い、つながり合おうとしない、形だけの礼拝。
そして、その礼拝の後の、喜びとカ分かち合うということとは、正反対の、実に冷やかな雰囲気の食事。
安息日は、労働から解放され、神に愛され生かされている、命の喜びを、ともに分かちあい、つながりあう日なのに。
「あいつはなにか失態をしないか。ボロをださないか。問い詰めてやろう」という心に囲まれた食事など、おいしいわけがないでしょう。
でも、イエス様は、招かれた食事を断わることなく、ご一緒なさるのです。イエス様はいつも、御自分を開いて、出会おうとしておられる。
ところで、その招かれた議員の家に、なぜ水腫を患う人がいたのかは、わからないのです。水腫というのは、皮膚の下に水がたまる病気でしょうけれども、ある説教者の解説によれば、この水腫という病は、当時は、不道徳な生活の結果と、思われていたようだと、ありました。いずれにしろ、汚れというものに、触れないように気をつけていた、ファリサイ派の人々の食事の席に、この水腫の人がなぜいたのかは、よくわからない。
家族だったんでしょうか。でも、癒されたあと、この人は、自分の家に帰っていくので、家族とも思えない。
想像の翼を広げて、もしかしたら、その人は、会堂の片隅で、一緒に礼拝をしていた人だったのかもしれない。
そして食事に招かれたイエス様が、その人に向って、
「今、あの議員に食事に招かれたんだけで、あなたも一緒にこないか」と誘った。
どうですか、この説は。
わけ隔てなく、人とつながる主イエスなら、あり得そうな話ではないですか。
「あなたも一緒にいこう。」
礼拝堂の片隅で、水腫という病のゆえに、だれからも声をかけられずに、いつもひとりさびしくしていたこの人に、
イエス様は、声をかけてくださった。
もちろん、これは想像です。本当のところはわからない。
ただ、ひとついえることは、イエスさまは、この病の人を受け入れていたけれども、聖書の専門家たちは、そうではなかったということです。
律法の専門家、ファリサイ派の人たちにとって、この水腫の人は、
あのイエスが癒すか、癒さないか。それを試すためだけの、ある意味道具としてしか、みられていないからです。
その証拠に、主イエスが彼らに向かって、
「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」と問われたとき、彼らは、じっと黙っていたでしょう。答えなかったでしょう。
さらに、5節で
「あなたたちの中に、自分の息子が牛か井戸に落ちたなら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらないものがいるだろうか」と問われたときも、
なにも答えなかったでしょう。答えようとしなかったでしょう。
なぜ答えないのですか。だまっているのですか。そんなに難しい質問ではないのに。
「ああ、そういわれればそうですね。」とか、「わたしは、もちろん助けますよ」とか、
もしかしたら、「実は、本当に、隣の子どもが井戸に落っこちたんですよ。あわてて引き上げました」
と、そんなやり取りが、起ってもいいはずなのに、起こらない。シーンと押し黙っている。
なぜでしょう。イエスさまは、あなた方は、どうおもうのかと、問うているのに。
やり取りをしようとしておられるのに、何も答えない。答えることができない。
なぜでしょう。
みなさんも、経験があるのではないですか。何を言われても、じっと黙ってしまうことが。
それは、心を開いている状態ですか。そうではなく、むしろ、ぎゅっと心を閉ざし、自分を守っている時ではないですか。
律法学者たちは、主イエスから、あなた方の考えは、「本当にそれでいいのか」と問われて、
黙ってしまう。それは、心を閉じてしまっていること。
自分の考えが問われて、恐れ、自分を守っている。
自分の考えとは違う、主イエスの問いかけに、心を開いて、耳を傾けられない、律法学者たち。
彼らこそ、わたしたちの花小金井教会の、朝の「教会学校」に出るべきです。
安息日はこうあるべきだと、自分の答えを、隣に座った人から、ほんとにそれでいいんですかと、問われて、
黙っていないで、その問いに答えあって、変えられて成長していけるのが、「教会学校」という現場だから。
だれでも、自分が問われることは、きつい。むしろ、誰かのことを、問うているほうが楽なのです。
しかし、それでは自分は決して変われない。
そんな、変わりたくない人の姿が、次のたとえ話になっていきます。
8節〜
「婚宴に招待されたら、上席(じょうせき)についてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』というだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。」
これは、人生訓でしょうか。最初は、遠慮して末席に座りなさい。そうすれば、あとから、そんなところに座っていないで、もっと上席(じょうせき)に座ってくださいと、言ってもらえるのだから、という、よく聞く処世術でしょうか。
主イエスは、さらにこう言われました。
「だれでも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」のだと
つまり、自分は大したものだと高ぶってみても、本当にそこでいいのかと、問われて、結局低くされるよ、ということでしょう。
自分を立派に見せていても、飾ってきても、神に問われ、本当のあなたの姿があらわになるよ、ということではないですか。
だれも、自分を問う人などいない。
この宴会の席で、自分が一番力を持っていると、上席につく。
そんなお山の大将に、わたしたちもなりやすいでしょう。
家の中では偉くなったり、会社のなかで、クラスのなかで、自分より立場の弱い人の中で、上席につきたがる。王様になってしまう。そういうことがあるでしょう。
律法学者たちは、自分たちが作りだした、ユダヤ教のしきたりという
小さなお山のなかで、上席についていた人たち。
でも、わたしたちも、ここなら、この人になら、大きな顔ができるという、場所が、関係があるでしょう。
イエス様は、そんなちっぽけな自分のお山のなかで、高ぶっている人の姿を、こっけいに描くのです。
もっと身分の高い方が現れて、恥ずかしい思いで、末席に座るようにして、
いつの日か、もっとも身分の高いお方。
この天と地を作られた、永遠の神に出会うとき、
自分はなんと小さいものかと、こころ低くさせられ、へりくだることになるでしょう。
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」
そう主イエスは言われます。
「C,H スポルジョン」という、歴史に名を残すバプテストの偉大な説教者がいます。
彼は、ある日曜の朝の説教を、こう始めました。
「神について黙想することは、非常に精神の向上に役立ちます。
それは、あまりにも膨大な主題でありますから、われわれの思想は、その広大さの中で道に迷ってしまいます。
それはあまりにも深遠な主題でありますから、われわれの誇りは、その果てしなさの中に溺れてしまいます。
・・・・神のことを黙想することほど、人間の思いを謙遜にさせるものはありません。
しかし、神を思うことは、心を謙遜にさせるだけでなく、心を広くするものです。
神について、しばしば考える人は、この狭い地球をとぼとぼと歩きまわっている人より、広い心をもつようになるでしょう。
・・・・心を広くするために、もっともよい方法は、キリスト、しかも十字架につけられたキリストについて学び、栄光に満ちた三位一体の神について知ることであります。
これは、スポルジョンが、若干20歳のときに語った説教の導入の言葉です。
天と地を作られた、神を知る、神を思うことほど、心を謙遜にし、広くするものはありません。
それは、「神について」知るのではなく、「神を知る」経験です。
言い換えるなら、「イエスについて」知るのではなく、
イエスが、今、生きて、このわたしに語っている。
主イエスは、今、生きておられる。わたしに、わたしたちに語っておられる。それを体験することです。
礼拝のなかで、教会学校のなかで、祈り、黙想するなかで、
イエスが、この私に語ってくださっている。
「恐れるな」。「わたしは世の終わりまで、あなたとともにいる」
そんなイエスの言葉が、「ああ、自分に向けられている」と体験する。
「だから大丈夫だ」と、立ち上がっていく。
それが、イエスについて知るのではなく、イエスご自身を知ること。
イエスと出会い、イエスの愛を、イエスの十字架の愛を、知ることだから。
さて、今日のみ言葉の最後で、主イエスは人を食事に招くなら、
「おかえし」のできる人ではなく、「おかえし」のできない貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
そうすれば、その人はお返しができないから、招いたあなたは、幸いだと言われます。
幸いだとは、神の祝福があるということです。神の報いがあるということです。
人から報われることよりも、
やがて復活する日に、神様の祝福が、神様の報いがある。
その日を信じて、厳しい現実を、今を生きることができるのは、
わたしたちが、神について、ではなく、神を知っているから。
神に愛されていることを、知っているからこそ。
罪は、わたしたちが、神に愛されていることを、見失わせます。
親から引き離された子のように、不安ゆえに、愛されたくて、愛を求めて、頑張って、
そんな、頑張っている自分を認めてくれと、上席(じょうせき)に座ろうと、意地を張る。
「上席に座りたい」のは、自信の表れではなく、むしろ、不安の表れ。
今、だれに認められなくても、そんな事とは関係なく、自分には価値があるとは思えない、
存在の不安の表れ。自分には価値がない、愛されていないと、思い込んでいることこそ、罪なのだから。
さあ、帰りましょう。神の愛のもとに。天の親の家に。
わたしたちは、今すでに、この上もなく、神に愛されている、神の子なのだから。
主イエスは、わたしたちのために、御自分の命のすべてを、
私たちへの贈り物として、十字架のうえに、すべて注がれたのです。
それは、やがて主イエスを見捨てて、逃げ去ってしまう弟子たちさえ、
おかえしなど求めることなく、赦し愛して、また立ち上がらてくださる、神の愛。
わたしたちが、どれほど罪深く、神にそむく存在であろうとも、
おかえしなどできるはずのない、どうしようもない人をこそ、
救いへ招かれる神の愛。
わたしたちは、こういう計り知れない神の愛で、愛されていると知ったので、
このあと、晩餐式を行い、パンと杯を、一緒に頂くのです。
それは、神の愛を、知識として知ったからではなく、
わたしは、今、本当に神に、愛されていると、知っているからです。