「イエス・キリストの信実によって」(花小金井キリスト教会2017年4月30日夕礼拝メッセージ)

shuichifujii2017-05-04


ローマ3章21節〜26節

 使徒パウロが書いた、ローマの信徒への手紙を、夕礼拝ではしばらく読んでいきます。
手紙はそもそも、福音書のような、ひとまとまりのストーリーではないし、さらにパウロの手紙は、信仰の教え、教理を伝えているので、専門用語が並んで、何度読んでも分かりづらいところがありますね。

それに加えて、本でもなくて、手紙ですから、当時、この手紙を受け取った相手がいて、その相手がいったいどういう状況だったのかという、背景がわからないと、これまたチンプンカンプンになりやすい。

たとえるなら、電話をしている人の、相手の声は分からないけれど、こちら側で話している声だけを聞いているのに、似ているところがあります。

とはいっても、ことわざに「読書百編 意 自ずから通ず」とありますね。意味がよく分からない本も、100編も熟読すれば、自然に意味が明らかになる。諦めないでなんどでも読めば不思議と分かってくる。

メッセージも、今日はよく分からなくても、諦めないでいてくださいね。


ただ、手紙そのものに入る前に、パウロという人の背景について、少しだけ、イメージを膨らませておくと、手紙についてもより理解しやすいように思っているのです。

パウロは、そもそも、イエスさまの12人の弟子のなかには、いなかった人ですね。

福音書に登場してきませんね。イエスさまがこの地上を歩まれたころは、サウロという名前で、ユダヤからは離れた、タルソスという町、今のトルコの中南部に生まれ、そこでユダヤ人として育った人だったようです。

当時、ユダヤは、ローマ帝国に支配されていたわけですね。そしてサウロは、支配されている側のユダヤ人でありつつ、ローマの市民権を持っていたようです。市民権というのは、そうそう簡単に手に入るものではなかったようでしたから、ある意味彼はエリートだったし、ユダヤという枠組みを超えて活躍するグローバルな人だった。。

日本も、だんだん英語を教える年齢が下がっていますね。英語が世界共通語だから、これからのグローバルの時代には、英語ができないといけないということなんでしょうか。

サウロも、ユダヤ人として生まれながら、生まれたのはユダヤの地ではなく外国であったし、当時の世界共通語であった、ギリシャ語も堪能だったわけです。

でも、そうであるからこそむしろ、彼は、自分がユダヤ人であることにこだわったんじゃないか。自分のルーツであるユダヤ教の、律法を守るということに、非常にこだわった。彼は、熱心なファリサイ派ユダヤ人として、生きていたわけです。

そんなサウロは、イエスさまが地上を歩まれたころは、イエスさまとは出会っていない。イエスさまが十字架につけられて死に、三日目に復活したのだ。この復活したイエスこそ、イスラエルが待ち望んでいた、メシア、キリストなのだと、言いふらす人々が現れて、こんな間違った教えを、そのままにしておくわけにはいかないと、怒りに燃えて、捕まえ迫害する人として、使徒言行録に登場するのが最初であるのです。

クリスチャンを捕らえ投獄するのだと、ダマスコという町に向かう途中。サウロは復活のイエスと出会う。この不思議な体験をへて、サウロは、それまで自分が迫害していた人々と同じ立場に、クリスチャンへ転向するばかりではなく、むしろその迫害していた信仰を、言い広める指導者の立場にさえなっていく。このあたりの劇的な変化は、非常に不思議、神秘としかいえません。サウロは頭が狂ったか、本当に復活のイエスに出会って、天からの啓示を受けたか、どちらかでしょう。わたしたちは、その後者だと信じて、天からの啓示と信じて、サウロの手紙を読んでいます。

サウロから、パウロへと変わっていく、劇的な変化。迫害する側からされる側へと、価値観がひっくり返ってしまうほどの変化。それまで抹殺せずにいられなかった教えを、福音を、今は、どうしても広めなければいられない自分になってしまったパウロ

このパウロという一人の人に起こった不思議な変化、奇跡を通して、まさにキリスト教は生まれたと言えます。

パウロがいなければ、イエスさまのあの十字架が、そして復活がどういう意味だったのか。福音が福音として、今の私たちまで伝わることはなかった。

エスさまはソクラテスと同じで、ご自分ではなにも書き残さなかったから。ご自分の十字架の意味はこういうことだと、文書に書き残したりしないまま、死に、そして復活なさって天に昇ってしまわれたから。

パウロが現れて、あのキリストの十字架は、私たちの罪を購う、神の恵みだったのだと、先ほど読んだローマの手紙のように、イエスさまに起こった出来事の意味を、書き残してくれたからこそ、今、ここに教会が立っている。わたしたちは、主イエスをを信じて生きる、幸いを知ることができている。これは、実にありがたいことです。

先週は、パウロが、ローマに教会ができたことを知って、ぜひ会いたい。あって励まし合いたいと、このローマの手紙を書き始めた冒頭の箇所を読みました。

今日の箇所は、そこからだいぶ飛んで、3章の21節からを読みました。

実は、この手前の所でパウロが語っていることを押さえておく必要があります。

この前の所では、パウロは、ユダヤ人も、ギリシャ人も、分け隔てなく、人は、神さまに対して、罪をおかしている。罪のもとにあるというのです。

ユダヤ人が大切にしてきた「律法」はなんなのかといえば、それを守れば、神の前に正しい人間と認めてもらえるものではなくて、

むしろ、「律法」とは鏡だ。自分の本当の姿を映し出す鏡だ。「律法」という鏡によって、自分はそういう生き方が出来ないという、自分の内側の「罪」が自覚されるのだと、そういうことをパウロは語っているのです。

なんで、パウロは、そんなことが言えるのか。それは、パウロ自身がだれよりも律法に熱心に生きようとした人だったからでしょう。だれよりも、律法を行うことに熱心だったからこそ、律法を行うことでは、神の前の平安を経験することはできなかったことを、誰よりも知っているからこそ、彼はそういうことをいうのでしょう。

律法を生きるのだと、意識することは、同時に、律法の通りには生きられない、「自分自身」を見つめることになってしまう。自分にスポットライトを当てることになってしまう。そうすると、よく自分の罪が見えてきてしまい、もう失望するしかない。
それが、今日の箇所の手前までの所で、パウロが語っていることだった。

ところが一転して、先ほど読んだ21節からは、「自分」にスポットライトを当てるのではなくて、「キリスト」にスポットライトを当てるのだ。ここに神の義、つまり救いがあるのだと語り始める。

22節「イエス・キリストを信じることによる、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこにはなんの差別もありません」

また、

24節「ただキリスト・イエスによる購いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」

というように、「自分」ではなく、「キリスト」にスポットライトを当たはじめるとき、パウロの口から、失望ではなく希望のメッセージが、罪ではなく、救いの喜びが、ほとばしり出てくる。

25節では、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」

と言われています。この一つ一つの言葉に込められている、深い意味を説明しだしたら、長くなってしまいます。

このパウロのいう「神の義」という言い方。パウロは、神さまとの正しい関係という意味で使っていることが多いと思いますけれども、でも、あまり「正しい」とか「正しくない」という言い方で、「義」という言葉をイメージしたくないのです。

学校のマルバツ問題のように、正しい答えでなければ、間違った答え。そういうイメージを神さまとの関係に持ち込んで、神との関係が、丸かバツか、というイメージは、違うんじゃないか。

「神の義」とは、神さまが私たちに、「よくやったね、あなたは合格だ」と、丸をくださるという、そういうものではないはず。

当初は、パウロは、そういうイメージをもっていたわけです。パウロは「律法」のことを「神の義」をいただくための「試験」だと理解していたわけです。律法という試験で、神さまから丸をもらうために、がんばっていたわけです。

神さまから100点をもらうことが、神の義なのだ。救いなのだと思っていた。

でもそれは結局、神を愛していることにはならない。神との愛の関係に、ならないんです。

そうではなく、自分がどれだか頑張ったかという、自分の努力の問題になってしまう。神の義というものが、結局は、自分の努力次第で獲得できる、安っぽいメダルになってしまうわけです。

これをキリスト教の専門用語で、「行為義認」といいます。

この自分の行為によって、義と認められる。神さまから100点をいただくという宗教を、律法主義といったりします。この律法主義にはまると、むしろ人はどんどん自分中心になる。

自分が救われること。自分が神さまから言い点数をもらうことにしか、関心がなくなるし、隣人に対して良い行いをするのも、愛するのも、伝道するのも、実は自分が救われるため、自分が神さまから言い点数をもらうため。神の義というメダルをもらうためということになって、むしろ、律法が示していた、神を愛し隣人を愛するということから、どんどん離れて、ますます自分中心になってしまう。

エホバの証人という、キリスト教からは異端と呼ばれる宗教から抜けた方と関わったことがありますけれども、彼らは非常にまじめに、神さまに従うつもりで、訪問伝道をしているのだけれど、自分がどれくらい訪問したかとか、時間を記録したり、そういう意味で、ノルマがあったりする。そうすると、突き詰めると、結局は誰かを救うために伝道をしているようでも、ある一定の時間をクリアするため、そうやって自分が神さまから認められるため、結局自分が救われるためという、そういう構造になっているわけです。

パウロもかつては、ファリサイ派ユダヤ人、サウロとして、神さまからの合格メダルをいただきたくて、神の義を手に入れたくて、結局は自分のために頑張るということをしているなかで、やってもやってもまだだめなんじゃないかと、むしろ不安に捉えられていったんじゃないか。「自分」がどれだけ頑張っているかと、「自分」を見つめ続ければ、結局は失望し絶望するしかない。

そんなサウロだったからこそ、復活のキリストと出会い、自分ではなく、「キリスト」が救ってくださる。「キリスト」が、ご自分の命を捧げて、奴隷のように罪に縛られて、「自分中心」というエゴに縛られてしまっていた、奴隷状態から、購いだしてくださった。

キリストの命という代価。これ以上ない価値が、罪を償う供え物として捧げられたのだ。神がそうしてくださったのだ。この神の恵みを、プレゼントを、ただ受け取る。

それが神の義なのだ。神との正しい関係というものなのだ。これがパウロの信仰によって義とされる。いわゆる、「信仰義認」の、私なりの理解です。

この信仰義認。22節でパウロが語っている、「キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」ということは、これは、パウロがその人生をかけて、実存をかけて、自分自身が、自分の行いで義とされようと苦しみ抜いてきたからこそ、そこから解放し、自由を与える、「キリスト」こそが与えてくださる、神の義という理解は、もう、なにがあっても譲れない真理だったと思う。

やがて、時代が進んで、教会がこの「キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」ということから、少しずつ離れていって、いつの間にか、人間が自分の行いによって、神さまから良い点数をいただけるし、いただきたいと、そういう律法主義に戻っていく中で、罪を赦す免罪符を教会が売り出すというところまでいってしまって、宗教改革者たちが、それはパウロがいっている、福音とは違うんじゃないかと立ち上がっていった歴史に繋がっていくわけです。

「キリスト」を信じる信仰も、決して、信じている自分の、信心の強さという話ではありません。それでは結局、神の救いが「自分」の側の問題になってしまうのですから。

そうではなく、「キリストの側の信実」にこそ、救いの根拠がある。

このキリストの信実を受け入れるなら、だれにも、何の差別もなく、神の義は与えられる。神さまとの愛の関係の中にいれられる。これが福音です。

ここまで徹底して、自分の側にはなにもなく、「キリスト」にこそ、救いの根拠があるのだと、ちゃんと信仰の土台を据えたなら、もう怖いものはありません。

人と比べることもない。人を見下す必要もない。人から裁かれることも恐れることはないのです。

「キリスト」が、わたしたちの希望、救いの土台。

この「キリスト」という土台に立つなら、むしろ人との関係は、どんどん広がっていくはずです。

「自分」が頑張らないと救われない宗教は、どんどん自分の中に閉じこもり、他の人を裁いたり、比べては自分を責めたり、そうやって、分裂したり、人との関係が壊され、共にいきられなくなっていくでしょう。

しかし、「キリスト」が土台なら、わたしたちは、自由になれる。許し合い、愛し合い、共に生きることが出来る。

おたがいに、キリストにあって、天の親に愛されている子になれる。

どんな人とでも、仲間になれる。共に生きることが出来る。

なんとありがたい恵みでしょう。