「主イエスに捕らえられているから」(花小金井キリスト教会召天者記念礼拝2017年5月6日 冨士霊園教会墓地にて)

shuichifujii2017-05-07


フィリピの信徒への手紙3章10節〜14節

 例年、この新緑の清々しい時期に、バスを借り切って、この富士の裾野までみんなでやってきて、召天者記念礼拝を行っていますけれども、いつも思うのは、せっかく遠くここまで皆さんでやってきて、お昼ご飯を食べたら帰ってしまうのはもったいないな、ということですね。

いや、別に、この霊園に、一泊泊まりたいとか、このお墓で、今日は眠ってしまいたい、と言っているわけではないのですよ。

そうではなくて、先ほどお名前が読み上げられた方々のことを思い出しながら、たとえば、「あの人は、あのときこんなことを言ったんだよ」とか、「こんな奇跡的な出来事があってね」とか、温泉にでもはいって、ゆっくり語り合いたいではないですか。聖霊に導かれながら。


きっとイエスさまの弟子達も、イエスさまが復活した後、自分たちの目の前から見えなくなってから、いつも一緒に、イエスさまのことを語り合ったんじゃないですか。

「そういえば、イエスさまはこんなことをいっていたなぁ」とか、「あの数え切れない人々にイエスさまがパンを祝福して与えてくださった、あの出来事は、すごかったよなぁ。配らされた俺たちは、大変だったけど」とか。

もちろん、わたしたちはイエスさまではないので、失敗や罪や、思い出したくない過去があるでしょう。でも、あの主イエスの弟子達は、あの一番思い出したくない、自分たちの暗い過去。主イエスを捨てて逃げ去ったことを、ちゃんと思い出して、福音書に記録させているではないですか。それは、自分はだめな人間だったと、自虐しているのではなくて、そんな自分たちを、天の父は、主イエスの十字架において、赦してくださったから。赦されている確信があるから、過去の失敗も悲しみも、なかったことにしないで、ちゃんと思い起こして、福音書に書き残して、みんなに知ってもらおうとしている。

そういう意味で、弟子たちは過去に縛られていないんです。あんなことなければよかったと、思っていない。あの失敗も、悲しみも、いやな思い出も、そのすべてを受け止め、赦される、神の恵み、神の栄光へと繋がっている、かけがえのない人生のストーリーであったわけだから。

先ほど、パウロの手紙を読みましたけれども、パウロもまた、「すねに傷持つ」人でしょう。暴力的な手段で、クリスチャンを捕らえ、投獄していた過去がある。彼は自分のことを、「月足らずで生まれたようなもの」と言いますけれども、彼自身、地上を歩んだイエスさまを知らないし、おまけに、教会を迫害した過去をもっているのですから、その「負い目」のようなものは、正直感じていたのだと思う。

にもかかわらず、彼は自分は使徒と呼ばれる値打ちはないが、ただ神の恵みによって今の自分はあるのです。この神の恵みは無駄にならないのですと、コリントの手紙に書いています。
先ほど読み上げられた、先に天に召されたひとりひとりの人生にも、様々な出来事が、つらいこと、思い出したくないことも含めて、きっとあっただろうと思います。それは、まだこれから地上の人生を生きていかなければならない、わたしたちも同じでしょう。

しかし、そのつらい日々や、思い出したくない過去。ある意味そういうひとりひとりが背負わされた十字架が、その時にはその意味がわからなくても、ただ、その時には、叫ぶしか出来なかったとしても、やがて神の時がくれば、キリストが復活して、あの十字架が、神の恵みに変えられたように、わたしたちひとりひとりの十字架の苦しみも、痛みも、やがてキリストの復活に与り、すべてが神の恵みに変えられる。

それが、私たちにとっての復活の希望ではないでしょうか。

先ほどのパウロの言葉を、もう一度聞きましょう。

「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみに与って、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中の復活に達したいのです」

パウロは、復活の力を知ることは、その苦しみ、そしてキリストの十字架の死の姿にあやかることと、一つなのだ。そこをなんとかくぐり抜けて、死者の中の復活に達したいといいます。

十字架あっての復活。復活の力を知るということは、過去の苦しみや、十字架の死の出来事など、なかったことにしてしまうことではなく、むしろ十字架と一つになる。十字架の下に生きつづけていく、ということなのでしょう。

受難週の11日に、川越で一人暮らしをしていた父が、突然心筋梗塞で行ってしまって、自分の中にはまだ様々な悔いや、痛みがあります。父について、思い出したくない過去もあります。しかし、父がいてくれたおかげで、今の自分がいることは間違いなく、父との関係において、その時はつらく悲しく、意味など見いだせなかった沢山の深い傷から、まさに、主イエスの十字架の血が、神の赦しの恵みが、私の中に流れ出るようにして復活の命となり、今、まさにその神の命に生かされているものとして、神の愛と恵みを伝えずにはおれないと、今、ここに立たされているのです。

去年度は、花小金井教会の会員のなかで、Yさん、Nさんを、天にお送りしました。Nさんはこの後、皆さんの見守りの中で、納骨式をいたします。

また、今日お集まりのお一人お一人それぞれに、ご親族、ご関係の方を、最近、天にお送りになったかたもおられるでしょう。

そのお別れの出来事や、お一人お一人が歩まれた人生の、すべての出来事の意味を、わたしたちは知ることはできません。

わたしたちもまた、いつ、この地上の人生を終えるのか、どういう形なのか、それは分からないし、分かる必要もありません。

ただ、パウロがいっているように、「わたしはすでにそれを得たとか、完全に者になった」わけではないのだ。何とか捕らえようとしているだけだ。
なにかすべてが分かったわけでも、悟ったわけでもない。

でも、その私を、私たちを、キリストが捕らえてくださっている。

キリストに捕らえられている。主イエス・キリストが、私たちを、しっかりと捕らえ、抱きしめるようにして、やがて、ちゃんと上に召してくださることだけは、分かっている。

キリストに捕らえられていることさえ、分かっていたら、もう十分。

過去の傷に縛られることなく、とらわれることなく、後ろのものをわすれ、前のものに全身を向けて歩んでいける。

まだしばらくは、この地上で前に向かって歩まなければならない私たちを、先に天に駆け抜けていった、愛する人々が、むしろ天で応援してくれているはずです。

過去の悲しみも苦しみも、そのすべては、復活の力によって、恵みに変えられるから、

大丈夫だと。わたしたちは、みんな、キリストに捕らえられているのだからと。

そのことを、先に天に帰った人々とともに、ここで確認して、

心新たに、前に向かって、わたしたちはここから、歩み出していくのです。