「主に選ばれて」(2017年11月19日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

shuichifujii2017-11-19

使徒言行録9章1節〜22節

 今週と来週は、女性会のリードで、海外の宣教師の方を覚えて、祈り捧げる、世界祈祷礼拝ですね。

 わたしたちの教会が加盟しているバプテスト連盟からは、今、カンボジアに嶋田宣教師ご夫妻、インドネシアに野口宣教師ご夫妻。そしてルワンダに佐々木和之ご家族。シンガポールに伊藤よりえさんを送っています。

来週は、その方々の現状について、女性会からアピールがありますよね。

その方々の働きを支えるために、特に女性たちが旗振り役をしてくださって、こうして教会でアピールをしてくださり、こつこつと、年に何回かバザーを開いては、皆さんの祈りと献金を、拾い集めるようにして、宣教師の方々へと、届けてくださっています。かんしゃです。

教会の仲間たちの祈りと献金を拾い集めて、福音の働き人を支える、と言う意味では、

私自身が、山形の酒田で、家族だけの開拓伝道をしていた8年半を、沢山の有志の方々による祈りと献金によって、生活を支えられてきた経験を思い起こすのです。

東北の仲間の教会が、まず「祷援会」というものを立ち上げて、

「祈祷」の「祷」と援助の「援」で、「祷援会」ですね。そして全国の教会に呼びかけて、総会のときにも、アピールしたりして、ひとり一人の、祈りと献金を拾い集めてくださったのでした。

わたしからお願いしたわけではなかったのです。でも、心動かされた人たちが、そのまったくの有志による祷援会に、加わってくださって、実に8年もの間、わたしたち家族の生活を支えてくださいました。

なかなか進展しない働きでしたのに、本当に継続して祈り、支えてくださったことを、今でも感謝しているのです。

今から2年半前に、酒田の働きを終えて、花小金井教会の牧師に招聘されたので、祷援会も解散となりましたけれども、この、沢山の方々の祈りと献金が集められて、福音の働きが支えられ、働き人が生かされるという経験は、ある意味、宣教師を支えるために、祈りと献金を拾い集める、この世界祈祷の働きと同じだと思うのです。

わたしは実は最後まで、だれが祷援会の会員として、私たちを支えてくださっていたのかを、知らされないままでした。

おそらく、数百人もの方々が、何年ものあいだ、支えてくださっていたと思います。

しかし、あくまでもそれは、わたし個人へのサポーターなどではないのです。そうではなく、そのお一人お一人が、「福音を宣べ伝えたい」という、神様への献身を、祈りと捧げものに託して、捧げておられたのですから。


「全世界に行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」と言われたイエスさまへの、わたしたちひとりひとりの応答。そのわたしたちの応答の一つのあり方が、この世界祈祷週間を通して、捧げられる祈りと、捧げもの。

 先週の礼拝で、伝道者フィリポが「ガザ」という荒れ野に遣わされた出来事を読みましたね。

フィリポが、伝道の成功していたサマリアの町から、突如、神の霊によって、荒れ野へと導かれた。それは、たった一人の人に出会い、その人に、主イエスの福音を伝えて、その人が救いの喜びに満ちあふれ、自分の人生を歩み出す、ただ、そのことのために、遣わされた出来事を、わたしたちは読みました。

ただ、そのことのために。一人の人が、神に愛されている本当の自分を取り戻して、神とともに生きていく、救いの喜びのために、神は人を遣わされます。

決してお金では買うことのできない、神の国の喜びのために、神は人を遣わされます。

わたしたちが今、ここで礼拝をしているのも、

誰かが主によって遣わされて、福音を語り、福音に生きた人と、出会ったからでしょう。
そして、今、神に愛されている喜びを知り、福音の喜びを知り、ここで感謝の礼拝を捧げているのです。

世界に今日も新たに、福音による喜びが満ちあふれるそのために、
わたしたちも、わたしたちにできる献身をしたい。

宣教師の方々のために、祈り、献金を捧げましょう。これは、わたしたちひとりひとりの、神様への感謝であり、献身なのですから。



さて、今月の礼拝は、使徒言行録を順に読み進めています。

十字架につけられ死なれたイエスさまを、神は復活させ、この世界を救うメシア、キリストとなさった。

そしてキリストは、今や、イエスを信じる人のなかで、生きて働かれる霊。キリストの霊。聖霊として、人々を導き、励まし、働いている。

今も、人を通して、生きて働いておられる、神の霊の働き、聖霊の働きの記録、その証を、「ルカ」という人が、精一杯彼の言葉で書き記したのが、この使徒言行録。

ユダヤから始まった聖霊の働きは、ユダヤ人と仲が悪かった、サマリアの町にも広がり、そして、先週は異邦人であるエチオピアの宦官にも伝わり、

そして先ほど朗読されたのは、イエスを信じる人々を「脅迫し、殺そうと意気込んで」いた「サウロ」が、ダマスコという町に向かう途中で、聖霊の働きによって、復活のキリストと出会い、三日の間、目が見えなくなり、食べも飲みも出来なくなる、危機のなか、なんと自分が迫害していたクリスチャンの助け、導きのなかで、彼の目から鱗が落ち、それは心の目からも鱗が落ちるようにして、主イエスを信じ、バプテスマを受けるという、出来事となったと、ルカが語っている出来事でした。

このヘブライ語で「サウロ」と呼ばれた彼は、後に、ギリシャ語読みで「パウロ」と呼ばれるようになります。彼は、ギリシャ語で話す異邦人へと、主イエスの福音を伝えていく伝道者になっていくからです。

そして、新約聖書の約半分が、このパウロの書いた手紙なのです。
かつての主イエスの「敵」、教会の迫害者が書いた手紙を土台として、
教会はこの数千年もの間、立ってきたという、なんという不思議。まさに奇跡。

ところが、実は、パウロ自身が書いた手紙の中には、このルカが記しているような、劇的な回心の出来事は出てこないのです。だから、この劇的なサウロの回心は、ルカが創作したんじゃないかと、そういうことを言う人もいるのです。

しかし、本人が書いていないから、この出来事がなかったとは言えないでしょう。

そもそも、パウロという人は、自分自身が経験した神秘的な体験を、手紙に書くような人ではなかったのです。

そういう不思議な体験を手紙に書いて、だから自分は特別な人間なのだと、そういうことを極力避けた人なのです。

むしろ、自分の弱さのなかにこそ、キリストの力が働くのだから、自分の弱さを誇りますとさえ、言う人だった、というより、ある時を境に、そういう人になってしまった。

自分が頑張って築いてきたもの、プライド、経験、神秘体験も含めて、そんなものは、キリストを知る素晴らしさの前に、「塵あくた」になってしまったと、パウロはのちに、フィリピの手紙に書いているのです。

そのパウロの驚くべき言葉を、読んでみますね。

フィリピ3:5〜
3:5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、

3:6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。

3:7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。

3:8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、

3:9 キリストの内にいる者と認められるためです。

こういう驚くべき生き方の大転換、今まで、これこそが重要なこと、正しいことと、信じ込んできた、その生き方がひっくり返ってしまうという、奇跡。

心の中で、生き方の大きな転換が、悔い改めが起こった。

パウロが語ったこの、キリストとの出会いによって引き起こされた、

パウロの「心の内面」の大転換、生き方が変わってしまう、悔い改めの奇跡を、

ルカは、目に見える、外側の出来事として、キリストとの出会いを、物語っているのです。

いずれにしろ、キリストとの出会いがなければ、「サウロ」は決して「パウロ」にはならない。なれない。

その意味で言うなら、ここに集うわたしたちひとりひとりも、キリストとの出会い方がどうであれ、不思議な体験であれ、内面の静かな変化であれ、

どのような経験であろうと、「復活のキリスト」との出会いだけが、

わたしたちがしがみついている、自分のプライド、誇りから解放させ、悔い改めさせ、

神に愛されている子としての、「本当の自分自身」へと解放し、変え続けていく、聖霊の働きがある。

熱心で厳格なユダヤ教徒のなかのユダヤ教徒だったサウロ。

彼は、自分が置かれていた、ユダヤ人社会の枠組みのなかで、超優等生だった。

その自分が教えられ、築き上げてきた立場、信じてきた信仰、秩序を、土台からゆるがすようなことを言い広める、クリスチャンたちを、イエスを信じる者たちを、

彼は赦すことなどできるわけがないのです。

自分が信じてきた生き方を、信仰を、否定するものを、生かしておくわけにはいかないと、殺意と、憎しみに燃えたのです。

その自分の憎しみ、殺意は、神に従っているからであると、信じながら。

彼は神のために、正しいことのために、イエスを信じるものを、殺そうとしていたのです。

人間はなんと危うく、人間の叫ぶ「正義」は、なんと罪によって、道を外しやすいものでしょうか。


この「サウロ」にいったい何が起こったのか。それをルカはこう報告します。

9:3 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。

9:4 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。

9:5 「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

「サウル」は、主に仕え、主のために、主の敵である人間を、迫害していたのに、

彼は聞くのです。「なぜわたしを迫害するのか」という声を。

彼は「主よ、あなたはどなたですか」言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と

サウロは、自分は、神の敵を迫害していると思い込んでいたのに、実は、自分こそが、神を迫害していたのだと、気づかされたショック。

神の敵と戦うのだと、一心に行ってきた自分が、むしろ神の敵となっていたという、気づき。

このショックは、いかばかりであったことでしょう。

彼は目が見えなくなり、食べ物が、のどを通らなくなるほどの、ショックであり、心の痛みだった。

自分は、気が付かないままに、何ということをしてきてしまったのか。

キリストとの出会いとは、まさに、自分では気が付けなかった、本当の自分との出会い。恐ろしい罪に縛られていた、本当の自分自身に、直面させられる出来事だったのです。


さて、先週わたしと、中根執事は、わたしたちの教会が加盟する、日本バプテスト連盟の総会に出席してきたのです。

現在、全国に323の教会伝道所が加盟している日本バプテスト連盟。その連盟が結成されて70年の記念すべき総会でした。

その総会のなかで、一つの声明文が採択されたのです。それは、「連盟70年の歩みから性差別の歴史を悔い改める」声明です。

その冒頭の文章は、こうはじまります。

「日本バプテスト連盟は、1947年4月に結成してから70年を迎えました。わたしたちはこの歴史の中で、連盟として組織的、構造的に性差別に加担し、容認してきたこと、そして、それを長い間、意識できず、放置してきてしまったことを、神のみ前に明らかにいたします」とはじまるのです。

神を信じ、神と人を愛すること、仕えることに熱心だった、わたしたちの教会の歩みの中に、協力して伝道してきた、連盟という組織の、歴史の中に、構造の中に、

性による差別が、力による支配が、人権の侵害があったということに、長い間気づくことができず、自己弁護をしてきたこと、そのために、聖書の言葉さえ利用してしまったこと。

そして、結果として、多くの方々を傷つけ悲しませてきたことを、公に告白し、悔い改めて、新しく歩みだしたいと告白する、声明文を、長い時間をかけて審議し、可決したのでした。

これは神が与えてくださった恵みの出来事だとわたしは思う。
人は、自分の過ち、罪に気づき、認めることは実に難しい。いや、不可能ではないですか。

時代のなかで、その価値観のなかで、だれもがそうしているからと、自分のしていることを、正当化していきてしまうでしょう。

かつてサウロが、神を冒涜する奴らを殺すことは、正義であると、正当化していたことが、その殺意と憎しみが、どれほど人を傷つけ、神を悲しませる罪であったことか、まったく気づけなかった。

人間は、本当に、自分では自分のことがわからないのです。
わからないまま、どんどん滅びへの道へと進んでいってしまうのです。

しかし、そのサウロの前に、主は現れてくださった。
そしてサウロは知ったのです。自分の恐ろしい罪を。
復活のキリストの前に、本当の自分の醜さを知らされ、
目も見えず、食べ物も喉を通らないほど、打ちのめされるという、ショック。

しかし、同時にその自分への失望からしか始まらない、本当の自分自身への歩みへと。

神の敵でありながら、なお神に赦され、神に愛され、神に選ばれて、

自分自身に神が与えた、本当の使命、神の招き、神の召命の道へと、「サウロ」は歩み始めていくのです。

それは楽な道でも、人々の称賛を得る、成功への道でもありません。
主はこう言われます。
15節

「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに、わたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示そう」と。

自分では気づけなかった、罪に気づかせられ、
自分というものが、自分の正しさというものが、いかに危うく、人を傷つけてきたのか。

そのことが、心の目から、鱗がとれるようにして、はっきり見えてきたなら、

その、気づかないままに傷つけ、罪を犯してきた、わたしたちを、

しかし、見捨てることなく、滅ぼすことなく、なお赦し、なお愛し続けてくださる、

主の愛が、あの主イエスの十字架の出来事であったことが、わかるでしょう。

「父よおゆるしください、彼らは自分がなにをしているのかわからずにいるのです」と祈られた、主イエスの祈りが、この主イエスの愛と憐れみこそが、自分を救い、この世界を救う、神の恵みであることが、わかるでしょう。

たとえ自分が損をしても、苦しむことがあるとしても、

自分の名のためにではなく、主イエスの名のために、

生き、生かされていく自分へと、きっと変えられていくでしょう。

インドネシアカンボジアに遣わされた宣教師の方々も、

ルワンダや、マレーシアに遣わされた、宣教師の方々も、

自分の名のためにではなく、主イエスの名のために、自分の人生をそれぞれに捧げるようにと、神に招かれ、神に選ばれたひとりひとり。

そして、今日ここから、それぞれの家庭に社会に、遣わされていく私たちひとりひとりも、

わたしたちを愛し、赦しておられる、主イエスの名を伝えるために、

聖霊に満たされ、新しく歩みだすようにと、神に選ばれ召され、

派遣されていく、ひとりひとりなのです。