イザヤ46章1節〜4節
今、イザヤ書から、短い箇所が読まれました。
イスラエルの民が、新バビロニア帝国に捕囚されてから、数十年。
1節にでてくる、ベルとか、ネボというのは、バビロニア帝国でまつられていた、神様。偶像の名前だそうです。
そのような偶像が拝まれているなかで、ながいこと生活をしていくなかで、イスラエルの人々の心の中にも、バビロンの神にすがる思いが、入り込んでいったと言われます。
いつの日か、この苦しい捕囚という現実から、解放される。ふるさとに帰ることが出来る。そうイザヤが神の言葉を語っても、イスラエルの人々はその言葉を信じきれなかったのでしょう。目にみえる力、偶像の神に心引かれていく人もいたのだと思われます。
なのでイザヤは、イスラエルの人々にこう語り始めたのでしょう。
1節
「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。
彼らの像は獣や家畜に負わされ
お前たちの担いでいたものは重荷となって
疲れた動物に負わされる。」
2節
「彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。
その重荷を救い出すことはできず
彼ら自身も捕らわれて行く。」
ベルもネボも人間が作り出した偶像。ただの置物に過ぎない。自分で動くことさえ出来ない。動物たちに担われて移動するしかない。
そんなものを、持ち運んでも、ただ重いだけのお荷物、重荷でしかない。
倒れてしまえば、その重荷で、自分を救うことも出来ない。そんなものにすがるなというメッセージでしょう。
その時代や文化で、偶像は形を変えるでしょう。古代は、巨大な木や石が拝まれたり、石を削ったり積み上げたりして造った偶像が、自分たちを救ってくれると信じられたのでしょう。
現代に生きるわたしたちは、巨大な像を造ってすがったりはしませんけれども、形を変えて、いつの時代も偶像はわたしたちの心を縛り付けて、神様が与えてくださる、自由を奪っている。逆を言えば、わたしたちが依存し、それがなければ生きられないと、心の自由を奪うものが、偶像であるわけです。
依存ということで言えば、アルコール依存や薬物依存、パチンコ、ギャンプルも、それが与える一時の喜びに依存するとき、それは偶像となっている。
そういう偶像が、最初は小さくても、やがて背負いきれないほどの重荷となるでしょう。
そう考える時、人の心に喜びを与え、安心、平安を与えるものが、「偶像」となりえるということがわかります。
そういう意味では、それはむしろ良いもの、善でさえあるかもしれません。
そういう意味で、「思想」というものも、偶像になるのではないでしょうか。
マルクスは、宗教はアヘンだと言いましたが、逆に、マルクス主義は「偶像」ではなかったでしょうか。実に合理的で、正義と公平の理論であっても、その思想をベースに、社会主義を実践した国家が、ことごとく独裁政権となり、独裁者がまるで、神の座について、人々を支配していることは、このマルクス主義という理想を語る思想もまた、「偶像」として、人々の重い重い、重荷となる。
イザヤは言います。
「お前たちの担いでいたものは重荷となる」のだと。
バビロンに連れて行かれたイスラエルの民は、バビロンの文化の中で長い間生活を重ねるなかで、バビロンの価値観や、思想の影響を、当然受けたことでしょう。
力による支配。暴力的に弱い国を叩き、支配し、自分の国に取り込んで、膨張していく価値観。
そういう価値観、思想を支えていた、宗教の神々。ベルやネボという偶像たち。
つまり偶像とは、支配者たちの欲望や罪を、正当化するための道具として、支配者によって持ち運ばれ、利用されるものなのです。
日本はほんの72年前まで、天皇を「偶像」として利用していた国です。
国の指導者たちは、民衆に天皇を「神」と信じさせたのです。
そして、その人間が作り出した「偶像」のために、国の指導者たちは、若い人々に命を捨てるように教えたのでした。
そして当時の教会もまた、その時代の流れの中で、その価値観、思想の影響を受けてしまったのです。
力によって、アジアの国を侵略することを、神の御心と信じたのです。
礼拝の中で、君が代が歌われ、天皇への祈りが捧げられたのです。
バビロンのなかで生活するなかで、イスラエルの民がバビロンの偶像に、心惹かれていったように、
天皇を偶像として拝む、かつての日本という国の中に置かれていた当時の教会のなかには、
その「偶像」に心を寄せてしまった教会が、多くあったのだ、ということを、わたしたちは忘れないようにしたい。
それは、断罪するためではないのです。そうではなく、わたしたちもその時代に生きていたならば、同じことをしたであろうという、人間の弱さ。
神を信じる人の中にある、神のみ心から離れてしまう誘惑。偶像を背負い込み、その偶像の重荷に押しつぶされてしまうことのないように、
神様の語りかけに、心の耳を開いていたい。
偶像を背負い込んでしまわないように、主の言葉に悔い改めて、主の愛の手の中に、帰っていきたい。
戦争が終わり、次に、経済成長という富の誘惑、新しい偶像がやってきたとき、
教会はまた、その偶像に影響を受けて、マーケティングとか顧客管理のような、この社会の価値観を受け入れて、
自分の教会をいかに大きくするのか、膨張するのか。
伝道するのも、その目的は自分の教会を大きくするため、組織を維持するため。
それが伝道の動機となってしまうような、「偶像」によって、
目の前の大切な一人の人を、傷つけてしまった罪を、悔い改めたい。
わたしたちは、いつもその時代、その社会、その状況の中で
「偶像」を背負わされ、「偶像」を持ち運ばされることで、
自由を失い、活き活きと生きることができなくされていくのです。
今の状態を、今の教会を、自分たち、自分自身を、否定し、受け入れられなくさせるのも、「偶像」なのです。
こうあるべき。もっとこうあらねばならないと急き立てていくのも、「偶像」です。
今、そのような「偶像」を背負わされ、重荷を担わされ、運ばされてはいないでしょうか。
神に生かされている今を、活き活きと生きられない、心の重荷を、背負わされてはいないでしょうか。
わたしたちは、常に今、神によって生かされ、神によって、運ばれている、神に愛されている人生を、
教会を、生きているのです。
3節
「わたしに聞け、ヤコブの家よ
イスラエルの家の残りの者よ、共に
あなたたちは生まれた時から負われ
胎を出た時から担われてきた」
4節
「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで、背負って行こう。
わたしはあなたたちを造った。
わたしが担い、背負い、救い出す」
神は、人間に運んでもらわなければならない「偶像」などではなく、
わたしたちをこの世界に生み出し、愛の心で抱きかかえ、今も持ち運んでくださっている、天の親なのです。
たとえ状況はうつり変わり、神はどこにおられるのかと、言いたくなる日々を生きる時があるとしても、
神は何一つ変わることなく、わたしたちが老いる日まで、白髪になるまで、背負い、運び続けてくださっている。
なにもできなくなっても、何も変わらず、神はわたしたちを運んでくださっている。
自分が神を運ぶのではなく、神が私たちを運んでくださる。
神に運ばれている日々を、人生を、自分自身を、教会を、
愛し、受け入れ、感謝しつつ、委ねて、一歩一歩歩み続けたい。
イスラエルが、やがてバビロンから解放され、故郷へと帰る日を待ち望んだように、
わたしたちも、やがて神の国に帰る日まで、本当の天の親が待っている、ふるさとへと帰るその日まで。
日々、神が持ち運んでいてくださる人生を、感謝と共に歩みぬきたい。
このあと歌う、「たとえば私が」という賛美歌は、そのことを歌った歌です。
もとになった、「あしあと」という詩を朗読して、メッセージを終わりとします。
あしあと
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」