「主の祭壇を修復した」(花小金井キリスト教会2016年8月14日夕礼拝メッセージ)

列王記上18章20節〜40節

旧約聖書には、いくつものエキサイティングな物語がありますけれども、今日のこの預言者エリアとバアルの預言者たちの対決も、その一つでしょう。

この対決は、わたしの言葉でいうなら、
「天地を造られた神」 VS 「天地の神」なんです。

違った言葉でいえば、
「自然を造られた神」VS「自然という神」です。

なぜなら、バアルという宗教は、農作物の豊作、豊穣、生殖を願う宗教。言葉を変えていえば、自然こそが命をはぐくみ、命を与え、命を生かす。その自然の命の源、生命力を、バアルと呼んで拝んだという話だから。

日本も地方の農村地帯に行くと、必ずそのような自然崇拝の信仰に出会いますね。山が信仰の対象になっていたり、大きな岩や木であったり、男性や女性のシンボルが礼拝の対象になっていたりします。

命を生みだし、命をはぐくむ、豊穣の神としての自然。

そういう意味で、聖書に登場してくるバアルという宗教は、わたしたち日本人にとって、とても親近感がある宗教でしょう。

そういう、「自然こそが神」という信仰と、「自然を造られた方こそが神」という聖書の告げる信仰は、これは一見にているようでいて、全く違うわけです。

イスラエルの民は、天地を造られた神。創造主から呼びかけられ、選ばれ、招かれ、導かれてきた。

天地を造られたお方が、取るに足りない小さなわたしたちを憐れみ、愛し、ここまで導いてくださった。

荒れ野を旅するときにも、創造主はわたしたちの命に必要な糧を与え、水をあたえ、養い導いてくださった。

食べ物や水によって、生かされてきたのではない。食べ物や水を与えてくださるお方によって、生かされてきたのだ。

この信仰に生きてきた、イスラエルの民が、やがて、人数が増え、定住生活、農耕生活をしていく中で、常に、誘惑にさらされていくわけです。

その誘惑とは、目の前の生活の安定。農作物の豊作、生産力、経済力、軍事力こそが、われわれを生かす、神なのだと、目にみえる力、祝福に依存していくという誘惑です。

この預言者エリアが現れた時代。イスラエルのアハブ王の時代は、王みずからが、このバアル宗教を国の中心にすえたわけです。もはや、誘惑という次元ではなく、天地を造られた神を捨てて、天地こそ神。自然こそ神。豊穣、物質的な豊かさこそ、神となった。

エリヤはそういう状態のイスラエルの民に、問いかけますね。21節

「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え」

この問いに、イスラエルの民は、一言も答えなかったとあります。

答えられなかったのでしょう。「どっちつかず」というのは、そういうことです。明確な態度表明を避ければ、対立することなく、身の安全を確保することができるのですから。

エリヤは民に向かってなんども呼びかけます。確信をもってバアル宗教を持ち込んだ、アハブ王を、もはや改心させることはできないので、イスラエルの民の信仰を、復興させようとしたのではないか、と思います。

そこで、バアルの預言者たちとの対決という現場を作って、イスラエルの民自身が、天地を造られた神が、生きておられることを、体験し、目撃する現場を造った。ある意味、演出した。そのようにも読める。

トップがあまりにも腐敗し、変えることができないなら、下から、ボトムアップで変革を起こしていくしかない。

エリヤが、アハブ王ではなく、イスラエルの民になんども問いかけ、30節では民に向かって「わたしの近くにきなさい」と呼びかけ、主への祭壇を復興し、その祭壇に捧げられた捧げ物にこそ、天から火が下る様を、イスラエルの民に目撃させ、最後には39節にあるように、

「これを見たすべての民はひれ伏し、『主こそ神です。主こそ神です』と告白させる、そのエリアのやり方は、とても興味深い。


ここで起こっている出来事は、いわゆる、信仰復興です。
リバイバルという言葉がありますけれども、一度に沢山の人が、クリスチャンになることを、リバイバルというと誤解されていますけれども、そうではなくて、天地を造られた神への信仰が、復興する。信仰復興をリバイバルというわけです。

ここで預言者エリアが行ったことは、イスラエルの民の信仰復興。リバイバルです。

どっちつかずのイスラエルの人々を、『主こそ神です。主こそ神です』と、天地を造られたお方こそが、神ですと告白させる、リバイバルをエリヤは行ったのです。

それは別の言い方をするなら、30節にあるように「壊された主の祭壇を修復する」ということです。

天地を造られた主を、礼拝する民なのに、その主への祭壇が壊されてしまうということが起こる。

いつのまにか、主ではなく、バアルが、天地を造られた神ではなく、天地そのもの、自然そのものが、神として礼拝されてしまう。

目の前の祝福が、力が、豊穣が、豊かさが、

そのすべてのよいものを、与えてくださっているお方よりも、大切にされ、礼拝されていく。

それはたとえるなら、お父さんがこどもに買ってあげたゲームとか、スマフォとかのほうが、買ってくれたおとうさんよりも、大切になってしまうことと、にているかもしれません。

ゲームもスマフォも、それ自体が自分を生かしているわけではないのに、それがないと生きていけないと思うほど、依存してしまうことがあるでしょう。

エスこそ主であると信じ、このお方に従って生きることこそ、天地を造られた神とつながること。すべてのよき物を与えてくださる、天の父との愛の関係に生きること。

そう信じるわたしたちも、それではいつでもそのような信仰に生きていますか。主イエスに従っていますか、と問われるなら、もしかしたら、この時のイスラエルの民のように、一言も答えられないような、「どっちつかず」な状態の時もあるのではないですか。

教会に集うとき、わたしたちは、今、なにを求めているのか、その時々に自分に問いかけてみたいのです。

今、なにを求めて教会にきているのだろうと。

以前、開拓伝道の現場で、家族だけの礼拝を続けていたとき、何人もの人が、礼拝にきては、通り過ぎていきました。しかし同時に、同じ町には近くに規模の大きな教会があり、毎週様々なゲストを呼び音楽会やセミナーなどで人を集めている教会もあり、そのような形で教会に人が集められていくすがたを横目で見ながら、その近くでそのようなイベントなどできずに、数人だけでほそぼそと礼拝を捧げていくことの意味と、その価値をいつも考えさせられ、存在意義を問われ続けてきたのでした。

その存在意義とはまさに、二人三人の人が、主イエスの名によって集まっているその真ん中に、主イエスはおられるという、理屈を越えた霊的な喜びにあり、この礼拝をともにささげる以外なにもないという小さな群のなかに、天地を造られた神がともにおられるという確信だけでした。

そして、この礼拝以外なにもない小さな群の中に招かれてきて、主イエスと出会い、バプテスマを受けていく人々が起こされていく、という奇跡を体験し、目撃させられるたびに、まさにわたしたちは

「主こそ神です。主こそ神です」と告白させられていった現場でした。

教会に、いったいなにを求めて集まってくるのか?

それは、人との交わり、心地よい音楽、賛美、牧師の気の利いたメッセージでしょうか?

そのような、よいたまもの、恵みを天から注いておられる、天地を造られた神との出会いを、その神を礼拝する祭壇を、わたしたちは、ほかのものに取り替え、壊してしまいやすい。

神ではないものを求め、神ではないものに依存し、神ではないものに向かって、祈ってしまう。それは、バアルの預言者たちが、狂ったように叫び祈って、答えられなかった姿にも似た、むなしい信仰です。

さあ、わたしたちの目に見えるいっさいを越え、すべてのよきものの源である主への祭壇を、

「天地を造られたお方」への祭壇をこそ、修復いたしましょう。

これがなければ、この人がいなければ、こうでなければという、偽りの神々への祭壇を壊し、

なにがあっても大丈夫。あってもなくても大丈夫。いてもいなくても大丈夫。

天地を造り、常に、最善をつくし、よきものをあたえてくださる、天の父への祭壇を、それぞれの心のなかに、修復しましょう。

その主だけを見上げ、主にのみ期待し、祈りささげる祭壇の上に、天地を造られ、生きておられる主は、火をもって答えてくださるでしょう。

わたしたち一人一人の人生に、教会の歩みに、天からの火が注がれ、どっちつかずだった、わたしたちの心の目が開かれ、

「主こそ神です。主こそ神です」と告白する、小さな、信仰のリバイバルが、今週もわたしたちの歩みの中に、与えられますように