ルカによる福音書8章4節〜15節
今日は、8月に生まれた、Hちゃんとご家族の上に、祝福がありますようにと、教会の家族みんなで、祈ることができました。
嬉しいですね。
思えば、おとうさんのMさんと、おかあさんのSさんが、この花小金井教会で出会わなければ、Hちゃんは生まれてこなかったわけでしょう。Mさんは、牧師の息子として教会に来ていて、Sさんは、ある時、神さまの言を求めて、教会にやってきて、
そんな二人がここで出会い結婚し、その実りとして、Hちゃんが生まれた。
ですから、ある意味、Hちゃんの存在もまた、み言葉の種がまかれて、神さまが実らせてくださった、「神の国」の実りではないですか。
花小金井教会が、ここで毎週、礼拝をし続けて、み言葉の種を蒔き続けていなかったら、Sさんは、み言葉を求めて、別の教会に行っていたかもしれないのですから。そこでもし、ほかの人と出会っていたら、Hちゃんは生まれなかったわけでしょう。
つくづく、神さまが、花小金井教会を通して、み言葉の種を蒔き続けてくださって、感謝ですね。
約50年の間、この場所で蒔かれ続けた、み言葉はの種が、一体どれほどの、神の国の実りを、見えるところ、見えないところに、もたらしてくれたでしょう。
わたしは来年、50歳なんです。この花小金井教会が一番最初の礼拝をした日は、わたしの一歳の誕生日なんですね。
不思議な導きを感じますね。花小金井教会が生まれた日に、1歳の誕生日を迎えた男の子が、今ここに立っているわけですから。
神さまが命を実らせてくださった、Hちゃんの人生を通して、神さまは、どんな素敵な、「神の国」の実りを、実らせてくださるか、ワクワクします。
そして、今、み言葉を聞き続けている、私たち一人ひとりを通して、神さまは豊かに「神の国」の実りを見せてくださいましたし、これからも、見せてくださることでしょう。
今日、与えられたイエスさまの言葉。種まきの譬え。「神の言葉」の種まきの譬え。
もう子どものころの教会学校から、なんどもなんども、聞いてきたという方もおられるでしょう。
イエスさまは、集まってきた群衆に、弟子たちに、「神の国の秘密」を、この「種を播く人」に譬えて、語られたのです。
10節で弟子たちに「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々には譬えを用いて話すのだ」と言われていますから、
この単純なお話、一度聴いたらわすれない、種まきの話は、実は「神の国の秘密」のお話なのだ、ということなのです。
「神の国の秘密」 以前の翻訳では、「神の国の奥義」となっていました。
「奥義」英語ですと「ミステリー」。「秘儀」とか「神秘」と訳せる言葉です。
秘儀ですから、分かる人には分かるということでしょう。
ですから、イエスさまは譬え話の最後を「聴く耳のある者は聞きなさい」と締めくくるのです。
分かる人には、分かる。では、いったい、分かる人、聞く耳のある人とは、誰のことなんでしょう。
ユダヤの田舎では、土地を耕す前に、バーっと種を播いてしまって、それから耕したそうですから、この譬え話のような、種が道に落ちたり、石地に落ちたり、茨の中に落ちたりすることは、よくあったわけです。
まさにその通りなのであって、変わった話しではない。日常よくあるかわりばえのない、つまらない話し、といえば、そういえるのです。
道端に落ちた種は、鳥に食べられ、石時に落ちた種は、芽が出ても枯れてしまい、茨の中に落ちた種は、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまったんだよ。
ほかの種はよい土地において、100倍の実を結びました。
「はい、聴く耳のある人は、聞いてください」
これで、今日のメッセージを終わります。祈りましょう。
ということを、イエスさまはなさったんですよ。え、なんでそこで終っちゃうの、という話ではないですか。
そして、礼拝の後に私のところにやってきて、弟子たちのように、「あのメッセージはどんな意味ですか」と、聞きたくなる。
そうやって、み言葉を求めて、その意味を知りたくて、聞きたくなってくださる人こそ、まさに「聴く耳のある人」でしょう。
多くの群衆たちは、おそらく、「なんだつまらない話だ」と言って、帰ってしまったわけだから。
「どんな意味なんですか」と、イエスさまに食い下がって、み言葉を求めた弟子たち。それこそ「聴く耳のある者」であるし、ですから、そんな弟子たちに向かって、イエスさまも「あなたがたには、神の国の秘密を悟ることが許されているんだよ」と言ってくださったわけです。
「神の国の秘密」。
今、ここで、神が働かれている秘密。奥義。ミステリー。
先週は、イエスさまに従うようになった女性たちの話しを、礼拝で読みましたけれども、悪い霊に縛られていた女性たちが、解放されて、沢山イエスさまに従うようになっていたし、そんな女性たちも、今、この話を聞いていたはずなんです。
イエスさまの愛の言葉によって、福音によって、心縛られていた束縛から自由にされた彼女達。そんな女性たちも、ここできっと「イエスさま、そのお話の意味は、なんですか」と聞いてきたでしょう。
目の前のお金や、人や、物や、プライドや、恐れや、そんな、この世の何かに心縛られているなら、み言葉を求めることもないのです。なぜなら、神のみ言葉、そして「神の国の秘密」というものは、目先のこと、目に見えて成果があがるような、目先のことではなく、もっともっと向こう側の、今は目に見えないこと、天に属すること、人間にはコントロールできない、神が働いておられるという、神秘、そして希望の、言葉なのですから。
今度、「一億 総活躍大臣」というものが、できたそうですね。
「一億総活躍」って、どうですか。皆さん、ワクワクしますか。
適当に自由に生きて生きたいわたしは、なんだか、余計なお世話といいますか、「おいもっと活躍しろ、怠けているな。もっと頑張れ、もっと働け」とお尻をたたかれるんじゃないかと、ひやひやしてしまいますが、誤解なんでしょうか?
わたしが生まれる数年前、55年前にも、国は「所得倍増計画」というものを打ち上げた、ではないですか。
そして、とにかく「経済」、「経済」で頑張ってきて、大量生産、大量消費で、豊かになった。
私はその恩恵を受けた世代であることを、感謝していますよ。
でも、結局、その道がどうなってしまったか。公害、環境破壊、原発事故。
バブルもはじけ、もう、この道を歩み続けるわけにはいかないんじゃないかと、人々が気づき始めているのに、その声が聞こえないんでしょうね。「聴く耳のある者」ではないんでしょうね。「一億 総活躍で頑張りなさい」と、また経済最優先なのだから。
限りある人間が、罪ある人間が、頭をひねり、合理的に、効率的に、無駄なく、強い国をつくろうとする。
そんな「人の国」に生きる、息苦しさ。
しかし、今日イエスさまが、「聞く耳のある者は聞きなさい」といって、語られたこの「神の国」の譬えの、なんと自由で希望のあることでしょう。
なぜなら、イエスさまは、神の国の種まきでは、そのほとんどが無駄になるものだ。ある意味、それでいい、それが「神の国の秘密だ」と言っておられるわけだから。
そもそも、この種まきのお話は、近代農業ではありえない。合理的でも、効率的でもないんです。こんな無駄だらけの種まき、やっちゃいけない。ありえない愚かな話。4つの場所のうち、3つは実らなかったという話なのだから。
なぜ、種まく人は、よい土地にだけ、種を播きました、という話にしなかったのか。
人の頭で考える合理では、わからない。「聴く耳を持てない」話し。
しかし、これが神様の種の蒔き方なのだ。だからこれは「神の国の秘密」なんです。
今、礼拝の前の、教会学校では、預言者エレミヤの言葉を、学んでいますね。
エレミヤもまた、イスラエルの民に、神の言葉を蒔いた一人。
そのようにして、神様はイスラエルの民を選び、ずっと、神の言葉の種を、蒔き続けられたのです。
その神の種まきの歴史が、旧約聖書だとしたら、実に、この種まきは、無駄の多い種まきではなかったですか。
預言者が、神の言葉の種を、蒔いても蒔いても、イスラエルの民は、偶像を礼拝し、神の御言葉を守らず、苦難の時に、悔い改めても、また同じことを繰り返す。
神の種を、無駄に蒔いているんじゃないか。実っていないじゃないか。
それでも神さまは、なんどもなんども預言者を遣わし、み言葉の種をまきつづける。あきらめずに蒔き続ける。
そしてある意味、イスラエルに種まく最後の人として、主イエスが今、神の言の種を、蒔いているのです。
そしてどうなりましたか。その種蒔く人を、人々は、十字架につけて殺してしまったのです。
すべては終わりました。全くの無駄。徒労に終わる、種まきだったのです。もはや絶望です。
人間の目には、そうみえた。
しかしそれから2000年以上たった今、主イエスの蒔かれた、御言葉の種は、どうなりましたか。なくなってしまいましたか。
いや、今や、全世界中に広まっているではないですか。
今日も、世界中で何十億という人が、主イエスの御言葉を求めて、教会に集い礼拝をしているのではないですか。
イスラエルから遙か離れた、この極東の島国、日本の花小金井という場所でさえ、主イエスの言葉が、今、聞かれているではないですか。
十字架の上で、絶望の叫びで終わったはずの、種まく人の言葉が
主イエスの言葉が、100倍どころではない。今、世界中で、聞かれているではありませんか。
なぜかは、人にはわかりません。これは「神の国の秘密」なのです。
十字架の死は絶望で終わらなかったこの「神の国の秘密」「復活の神秘」を、人は理解できません。
ただただ、主イエスの蒔かれたみ言葉の、力を信じ、聞き続けていくしか、できません。
わたしは、約10年ほど、山形の田舎で私と家族だけの、開拓伝道をしていましたから、
なんの力もない。無力なものが、小さな家族が、田舎の因習深いところに投げ込まれて、何もできるわけがない。本当に人間は無力であることを、徹底的に知らされて、ただただ、神の言葉には、主イエスの言葉には、神の国をもたらす力があることだけを信じて、生きてきたのです。
ある時、「聖書を読む会」という名前の集会を、月に一度していたことがあるのです。
その月に一度の集会のために、チラシを何千枚か印刷して、一月かけて配り歩いて、当日を迎えても、だれも来ないということを、繰り返しながら、こつこつ続けていた集会がありました。
あるとき、その集会のためにチラシを配っていて、あと残り数枚になって、もう、数枚だから、今日は疲れたし、やめようと、思ったのですけど、ふと、車で10分ほど離れた、ある大学の寮のポストに入れてみたらどうかという、ことを思いついて、でも、もういいかなという思いと葛藤を感じながら、結局、車をとばして、その数枚のチラシをポストに入れに、大学の寮までいったのです。
そして迎えた「聖書を読む会」。時間になってもチラシをみて来る人は、誰もいなかったのですが、会の半ばになって、一人の女性がきたのです。その最後の数枚をポストに入れた大学の寮にすんでいた大学生の女性でした。
彼女は群馬から一人、山形の大学にきていたのでした。幼児洗礼を受けていたようですが、教会からは離れていた彼女。中学で不登校になり、生きづらい思いをしつつ、初めて親元を離れた大学生活。
そして、一枚のチラシを通して、小さな小さな教会と彼女は出会いました。そして、卒業して実家に帰るまでの二年半、小さな教会の礼拝にきて、子ども会やキャンプを手伝ってくれました。人と関わるのが苦手で、泣いてばかりいた彼女。牧師家族だけの小さな教会だから、むしろとどまることができた彼女。そして二年半後、卒業とともに、群馬の実家に戻るとき、こんな手紙をくれました。
週報にも書きましたが、読ませてください。
「約二年半もの間、本当にお世話になりました。お二人に出会った当初の私は、不安定で少し疲れていました。何もかもがうまくいかないことに対して焦っていたのだと思います。そんなわたしを、温かく迎えてくださいました。
3人のかわい子どもたちや、教会に集まった人々に支えられて、疲れた悲しみが徐々に癒されていきました。教会の行事に参加したりと、人に奉仕する嬉しさも気付かされました。教会に行くことで、人間関係において学ぶことが多かったです。前向きに物事をとらえられるようにもなりました。そのような機会を与え続けてくださったことに、本当に感謝しています。今後は会う機会が少なくなり寂しいですが、久々にあったら成長している私を見てほしいので、実家に戻ってからもよき働きができるように頑張ります。
そういった考え方ができるのも、教会があるおかげです。出会うことができて本当に良かったです。これからも皆さんが心身ともに健康で、笑顔で過ごせることを祈っています。皆さんといた日々は、私にとって本当に大切なものとなりました。ありがとうございました。」
蒔かれたチラシ一枚でつながった出会い。そして礼拝に集って、御言葉を聞き続けた、彼女のなかに育った、実り。
そのすべては、人間にコントロールなどできない、「神の国の秘密」の出来事。
田舎の教会は、若い人を育て都会に送り出します。御言葉を蒔いても蒔いても、その実りをみることは、できないことがあるでしょう。いったい実っているのかいないのか。
自分たちのしていることは、意味があるのか、徒労じゃないのか、そういう苦悩を抱えることも、あるでしょう。
しかし、人の目には徒労に見えたとしても、まるで、道ばた、石地、茨に種を蒔いているんじゃないかと、失望したとしても、そのすべてを、赦しておられる神様の御心の中で、ちゃんと蒔かれた種は、豊かに実る。
人間を通して、み言葉の種を蒔き続けているのは、神様なのだから。イスラエルの民に、主イエスの時代に、そして現代のこの場所に至るまで、人を通して御言葉の種を、蒔き続けておられるのは、神なのだから、人には、無駄や、徒労に見えるようでも、見える時でも、御言葉はちゃんと実る。
それが「神の国の秘密」だから。十字架の絶望が、絶望で終わらないのが、「神の国の秘密」だから。
そのことを悟ることが許されている、実りを信じることがゆるされている、わたしたちは、幸いです。
目の前の状況がどうであれ、今も神は生きて働いておられ、神の国の実りは、豊かであると信じる人は、幸いです。
主イエスは、最後にこういわれます。
「よい土地の落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して身を結ぶ人たちである」
りっぱなよい心で御言葉を聞く。
それは自分の立派さではありません。
「神の国の秘密」を悟れるのは、神の恵み、プレゼントなのだから。
神さまが「聞く耳」を与えてくださって、わたしたちは今、ここに招かれて、礼拝をしているのですから。
わたしたちは、み言葉を聞く耳をいただいて、忍耐して実を結ぶ人たち、なのですから。
毎週、毎週わたしたちは、み言葉を聞きつづけるために、教会に集っているのですから。
時に、道ばたのようでも、石地のようでも、茨のようでも、み言葉を守ることを、何度失敗しても、わたしたちは、み言葉を聞き続けることを、やめることなく、集まっているのですから。
実っているのか実っていないのか、自分でも分からないとしても、
ただただ、「神の国の秘密」を信じ、神が実らせてくださることに希望をもって、忍耐し、み言葉を聞き続けます。
実を結ばせてくださる神を信じて、
今がどうであろうと、毎週礼拝を捧げ、み言葉を聞き続ける奉仕をやめないわたしたちは、やがて豊かに実を結ばせていただく「よい土地」であるに違いないのです。