「集まる喜びに満ちあふれて」(花小金井キリスト教会2017年6月18日主日礼拝メッセージ)

使徒言行録2章37節〜47節

 今日もこの時間、様々な状況が整えられて、ここに集まることができました。花小金井教会、2606回目の礼拝です。週報に書いてありますでしょう。

 最近、ご近所の方で、新しく礼拝に来てくださる方が増えているんですね。

 木曜日には、毎週2時から4時まで「教会カフェ」といって、まあ、牧師とコーヒーでも飲んで、雑談しましょう、という時間なんですけれども、

 誰も来られないので、ひとりで何杯もコーヒーを飲んで過ごす日もあれば、「教会に初めて来ました」という人が、一度に何人も重なってこられる日もあって、まあ、楽しんでいます。


 最近は、皆さんインターネットで教会の情報を確認してからこられるので、花小金井教会のホームページをみて、「教会カフェ」に行ってみようと思ってくださるんでしょうね。

 このカフェに来てから、次に礼拝に来る、という方も、今まで何人もおられました。

 いきなり「礼拝」に行くというのは、教会に行ったことがない人には、敷居が高いでしょう。

何をするんだろう。自分なんかがいっても、いいんだろうかと、みなさんそんな不安を抱いてこられているでしょう。

わたし自身、25年前、初めて教会の礼拝に参加したときは

「アウェー」な感じがしましたね。「場違いなところによそ者が来てしまった」という、ドキドキした感じがしたわけです。

 私自身、そういう経験があるものだから、初めて、花小金井教会の礼拝に来てくださった方には、後から、「礼拝に出てみて、どうでしたか」と聞いてみるんですね。

すると、大体の方は、「とても居心地が良かったです」とか「温かく声をかけてくれて嬉しかったです」とか「自然体でいられました」と、言ってくださるので、ほっとしています。

まあ、牧師に面と向かっては、本当のことは言えないでしょうね。
コミュニケーションカードに、本当のところを、書いてくださいね。


誤解を恐れずに本音を言えば、この礼拝のなかで、理屈を超えたところで、なにか喜びを体験していただいて、できれば、リピーターになってほしいわけです。

週に一度、ここに集って一緒に礼拝しないと、一週間の力が出ないというくらい。

別に張り合うわけではないけれども、ディズニーランドに行くよりも、好きな歌手のコンサートに行くよりも、この花小金井教会の礼拝にいきたい。

そして、この会堂に入りきらなくなって、また、新しい会堂を建てなきゃなんなくなる。

それくらいの夢をもちたいじゃないですか。


礼拝にいきたい。

この集まっている人々の雰囲気。
聖書の言葉の素晴らしさ。
讃美歌を歌う喜び。心を合わせて祈るという、心のつながり。

とにかく、みなさんと一緒に心合わせる、この1時間が、なによりもうれしい。

そんな礼拝を、一緒に捧げたい。

礼拝しなければならない、から集まってくるのではなくて、

礼拝しないではいられないから。

礼拝をしたくてたまらないから。

どうしても、わたしには、礼拝が必要だから。

礼拝しないと、本当のわたしでいられないから、礼拝したい。できれば、毎日したい。


さて、先ほど朗読された一番最初の教会の姿は、まさにそういう状態だったわけです。


46節から読んでみます。こう書いてありますね。
「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」


ペンテコステの日に、聖霊がイエスの弟子たちに降りました。
目に見えないイエスの霊が、弟子たちのなかに宿ったといってもいいでしょう。

すると、弟子のペトロは、力強いメッセージをはじめた。そのメッセージを聞いた人々から、3000人もの人が、イエスを信じ、バプテスマ(洗礼)を受け、仲間になったのです。


このフレッシュな、生まれたてのクリスチャンたちは、週に一度集まっていたのではなくて、毎日、心を一つにして神殿で礼拝して、

家ごとに少人数の集まりをもって、パンを裂いては、イエスさまの十字架の赦しに感謝し、一緒に食事をして、賛美歌を歌っていた。

彼らは、そんなことしたくないけれど、がんばってしていたわけではないでしょう。

義務やお勤めで、集まっていたわけがないのです。

そうではなく、どうしても集まって、礼拝を、交わりを持ちたかったからに違いない。


まさか、礼拝にいくと、ご利益があるとか、仕事で成功するとか、自分の生活に、なにか役に立つとか、そんな別の目的のために、集まっていたわけがない。

ただ、それがしたいから、礼拝と交わりがしたいから、集まっていたわけです。


わたしたちもそうでしょう。毎日とは行かなくても、毎週、今日で2606回目の礼拝を捧げるのは、義務でもお勤めでもなく、それがしたいから。

そういう熱い思いを、聖霊によって与えられているから、ここに体を運んできたのではないですか。


喉が渇いたら、水のあるところにいくように、生活の中で、だんだん心の渇きを覚えるわたしちは、主イエスの言葉、生きた、命の水を求めて、共にあつまり、心あわせて礼拝し、互いに交わりを持ち続けます。

今日、久し振りに礼拝に来ることが出来た方がおられますね。

施設に入られたり、事情のために、なかなか礼拝に来られない方は、なおのこと、一回一回の礼拝の喜びを感じておられるのではないですか。

最初の教会で、仲間となった人々は、使徒の教えと、相互の交わり、パンを裂いて、イエスさまの恵みを思い、一緒に祈ることに、熱心だったのは、

だれのためでもなく、ただ自分の心が、そうせずにはいられなくなっているから。

そのようにして、ただ集まるだけで嬉しい。一緒に賛美を歌い、祈り、交わりを持つことが、だた嬉しい。

この最初の教会の姿に、教会という集まりの原点を見ます。

聖書の教え、交わり、パン裂き、祈りを共にする。

これが、私たちがここに集まっている理由。

いつのまにか、沢山背負ってしまった重荷を降ろし、このシンプルな原点に立ちもどることで、信仰生活もリフレッシュすることでしょう。

わたしは10年前、当時私の家族4人だけで、山形の酒田で、家の教会をしていたころ、

日曜日の朝になると、当時、幼稚園だった子どもたちのおもちゃで、散らかった一室を片付け、礼拝の準備をしたころを思い出します。

礼拝の時間になっても、だれもこない日は、「さあそろそろはじめようか」と、妻とこどもたちと讃美歌を歌いはじめたものでした。

最初の頃、たまに高齢のご夫妻が、礼拝に来てくださることがありました。クリスチャンではないのですが、母教会の山形教会に、友人がおられて、その友人に頼まれて、来てくださっていたご夫妻でした。

地元の名士でもあり、民生委員もしていて、困っている人をほっとけないという、温かい方でした。東京からやってきた、右も左も分からない私たち家族を助けようという、そんな思いもあったのでしょう。

月に一、二度、ご夫妻で礼拝に来てくださいました。

だれも知り合いのいない田舎にいきなり来てしまって、孤独に苦しんでいた私たち家族にとって、そのご夫妻が礼拝に来てくださることは、本当にありがたかったし、支えでした。

毎週土曜日には、「どうぞ明日は礼拝においでください」と、ご夫妻に電話をかけました。そうしないと、来てくださらないのではないかと、不安だったからです。

都合が良いときは、礼拝に来てくださり、当時私の家族4人と、ご夫妻とで、机を囲んで讃美歌を歌い、礼拝を捧げ、お昼ご飯も一緒にしました。

 しかしだんだん、土曜日に電話をしても、日曜日は都合があっていけませんと言われることが増えていきました。

 今思えば当然だったと思います。ご夫妻は友人に頼まれて、礼拝に来ていたのですから。礼拝を捧げたくて、来ていたのではないのですから。
 そして、そのお二人を迎えて、日曜日に家の礼拝を捧げていた、私も妻も、いつもそのご夫妻が退屈しないようにと、様々なことに気を使い、心をつかい、それで疲れ切ってしまうという、礼拝をしていたことに、ある時気づいたのです。こういう形だけの礼拝を繰り返していることに、意味があるのだろうかと、思いました。

やがてその方は、土曜日にお誘いしても、礼拝にくることはなくなりました。
 やがて5年の時が経ち、あるクリスチャンの女性が、わたしたちの小さな教会の仲間になってくれました。翌年、ご主人もバプテスマを受け、小さな教会に、牧師家族以外に、最初のクリスチャンの夫妻が与えられました。

やっと、やっと、共に心を合わせて、礼拝し、賛美を歌い祈る人が、与えられた喜び。牧師の祈りに、最後に「アーメン」と心を合わせてくれる人が、そこにいる有り難さを、心底実感したその経験を、わたしは生涯忘れることはないでしょう。

一番最初の教会に、3000人もの人が仲間になったのは、弟子のペトロが頭をさげて、仲間になってくれませんか、礼拝に来てくれませんかと、頼んだからではありませんでした。

そうではなく、ペトロが聖霊によって力強く語ったメッセージを聞いて、自分の生き方を、悔い改めた人々だったのです。

ペトロは言いました。

「あなたがたが十字架に付けて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と。

この宣言に、心打たれ、「わたしたちはどうしたらいいのですか」と、彼らは救いを求めたのです。

「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな諸刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」と、ヘブライ書は語ります。

人の言葉ではないのです。人の言葉では、本当の自分の姿に気づいて、心が打たれたり、悔い改めるということは、おこらない。

旧約聖書にある、ダビデ王の物語のなかで、晩年のダビデが、部下の妻と罪を犯し、子をもうけてしまったことを隠そうと、部下を激戦地に送って殺してしまい、部下の妻を自分の妻にしてしまうという出来事がありました。

ダビデは、その自分の罪が、どれほどひどい罪であるかが、自分では気づけませんでした。

神が遣わした預言者ナタンが、たとえ話で、ダビデにこう語る。

「沢山の羊を持っている金持ちが、客に振る舞う羊を惜しみ、貧しい人の大切な羊を取り上げ、自分の客に振る舞った」という話。

それを聞いたダビデは、そんなことをした男は、死罪だと怒ったその直後に、ナタンはいうのです。

「その男はあなただ」と。ダビデはこのナタンの言葉によって、自分の罪に気づき、悔い改めたのでした。

人は、たとえ犯罪を犯しても、自分は正しいと思い、これは仕方がなかったのだと、自分のことを自分で正当化するでしょう。

悔い改めは、人の言葉ではおこりません。

聖霊によって、人を通して、神が語られるとき、その神の言葉は、人の心に深く刺さり、わたしはこのままではいけないと、神に救いを求めさせ、悔い改めさせてくださる。

悔い改めは、神の恵みです。
偽りの自分から解放され、ありのままの、神がご覧になっている、そのままの、本当の自分を取り戻していく恵みです。

自分中心から、神中心へと、

この自分に命と目的をあたえ、地上の人生を導き、やがて天へ招いてくださる神との関係に、立ち返る恵みです。

エスなど知らぬと、十字架につけた、わたしたちの罪を、

神はイエスを死からよみがえらせ、赦してくださり、

これからは、主イエスを、わたしの主、救い主と仰いで、いきる人生へと招いてくださいました。。

そして「この約束は、あなたがたにも、あなたがのこどもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださるものならだれにでも、与えられている」とペトロは言います。

わたしたちは、この約束に従って、神に招かれ、神に立ち返ったからこそ、今ここに集まっています。

教会は、聖霊によって、神の子へと立ち返った人々の集まり。群れ。
共同体です。

集うひとりひとり、等しく賜物として、聖霊を受けています。

だから、ひとりひとり全く違う人生、人格にもかかわらず、

同じ喜びを共有して、分かち合えるのです。

外部の人から見れば、「あの人たちは、酒に酔っているんじゃないか」と言われてもおかしくない、不思議な交わり。

ルカの福音書に、イエスさまが、弟子を招く記事があって、

ユダヤの嫌われ者、徴税人のレビが、弟子に招かれたときに、

このレビはイエスさまに招かれたことが嬉しくて、徴税人仲間や、罪人といわれたいた仲間を集め、イエスさまを囲むパーティーを開いた。

そのパーティーを、外から見ていた律法学者たちも、弟子たちに向かって、「なぜ、こんな罪深い人と、食事をするのか」と批判したのでした。
いまは、目に見えないイエスさまが、聖霊として宿っている、わたしたち教会も、外の人から見れば、どうしてこんなバラバラな人たちが、一緒に喜んでいるのでしょう」「酒に酔っているんじゃないですか」と、言われたら、本物でしょう。

さらに、今日の44節以下には、こういうことさえ書いてあります。
「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った」と。

 最初の教会は、心が一つになるだけではなく、生活まで一つになってしまった。それまでお互い、他人であったはずなのに、そこまでお互いを信頼し合い、支え合う関係になってしまったというのです。

ただ、この共同生活は、財産を使い続けるだけですから、ずっとは続かなかったと思います。そうであったとしても、神さまが最初の教会に見せてくださった、これは、神の国の夢、幻。

ルカは、この出来事を、そういう思いで、ここに書き残した。

わたしたちは、こういう素晴らしい世界の幻を、神の国の夢を、神さまから見せていただいた、集まりなのです。

貧しい者も、豊かなものもない世界。

ともに心一つに、信頼し合い、支え合い、主にあって共に生きる、神の国という幻、夢を、教会はその一番最初に体験した。

そして、神はこの神の国を、やがて終わりの日に、必ず実現なさる。

そう信じ、たとえ今の現実は厳しくても、失望することなく、福音を語り伝える群れ。それがわたしたち教会。

先週、多くの人々の不安をよそに、

共謀罪」という法律が強行にできてしまった、この時代。

人々が、共に生きるよりも、互いに疑い、監視し、分断していくのではないか。

そういう暗い未来を、イメージしてしまう、この時代に生かされているわたしたちは、

なおのこと、聖霊によって、神が見せてくださった、この神の国の幻を、夢を、

心一つに、すべてを分かち合い、共に生きる、神の国の幻を、

しっかりと見据えて、教会で体験して、

時代が暗くなればなるほど、光輝く希望として、

教会という希望を、証していきたいのです。