「神に招かれたのだから」(2016年9月11日花小金井キリスト教会礼拝メッセージ)

ルカによる福音書14章15節〜24節

 昨日はわたしたちの教会の男性グループの集まりがあって、楽しかったんですよ。
Iさんが司会をしてくださったんですけれども、食事の後にそれでは讃美歌を歌いましょうと、わたしたちの教会の今年のテーマソング、Here we Stand を1曲歌った。あの曲をオジサンたちが声を合わせて歌うのは、なかなか迫力がある。

そして、だいたい、一曲歌い終わったら、お祈りして始めるものなんですけど、「もう一曲どうですか」と司会の方が言うものだから、「そうですねぇ」ということになって、ある方にリクエストしていただいて、もう一曲讃美歌をうたった。そして、だいたい、2曲歌ったら、いくらなんでも、次においのりなんですけど、司会の方がいうんですよ。

「もう一曲どうですか」って。

それで、もう一曲オジサンたちで、集会室にひびが入るんじゃないかというくらい、大きな声で讃美歌を歌いました。

そして歌い終わって言うんですよ、司会の方が、「男たちで讃美歌をうたうって気持ちいいね」って、にこにこしながら。

いやー、うちの男性グループのオジサンたちって、素敵だなぁ、いいなぁって、つくづく思いました。

だいたい、男性の集まりというのは、女性の集まりと違って、堅い。男って、コミュニケーションがへたでしょう。

でも、昨日のオジサンたちの集まりは、楽しかった。主にある交わりは楽しい。

もちろん、「主にある交わり」といっても、お酒の「酒」じゃないですよ。主イエスの「主」。主イエスが作ってくださる交わりですね。

なんだか楽しくて、笑いがあって、笑顔がある。きっとそういう現場のことを、主なる神の霊に満たされている。聖霊に満たされている現場というのだと、つくづく思うわけです。


みなさん、先週の礼拝で読まれた聖書の個所を、覚えておられますか。

先週は、主イエスが、ファリサイ派の議員に、礼拝の後の食事会に招かれたときの話でした。

食事に招かれたのはいいけれど、その食事会の席には、ファリサイ派の偉い人々がまっていて、あのイエスという男は、安息日にしてはならないことをするんじゃないか、と上から目線で様子をうかがっているという、いやな雰囲気の食事会だったという、お話でした。


そんなファリサイ派の偉い人々に向かって、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる、という趣旨のたとえ話を、イエス様はなさったわけです。

律法を守る我こそが、神の国の宴会で上席に座るのに、ふさわしいと高ぶってみたり、おかえしを期待して、人を招く宴会を開いてみたり、

それはみんな、今、目の前の、一時の満足。永遠ではない。神不在の、自己満足。プライドを満たすだけの宴会。

主イエスは、そんな宴会をするなと言われるのです。そうではなく、やがて復活するとき、神が報いてくださる、そんな宴会をしなさい。おかえしのできない人を招きさい、と言われたのが、先週の個所でした。


そして、今日の聖書の個所につながるわけです。

15節
「食事をともにしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。


神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」

彼は、どういう意味で言ったのでしょう。神の国で食事をする。これは死んだあとの天国での食事のことでしょうか。

自分たちユダヤ人、律法学者こそ、やがて復活して、神が招く神の国の食事を味わえる。ああ、わたしたち律法学者は、なんと幸いなことでしょう、という言葉でしょうか。

それはないでしょう。そもそも、そういう我こそが宴会の上席にふさわしいという、高ぶったプライドが、神の国の宴会にはふさわしくないと、イエス様は言われたばかりなのだから。


ですから、むしろこの「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」という言葉は、皮肉じゃないか。揶揄(やゆ)じゃないか。

「ほう、あなたがいう、神の国の食事は、そりゃ確かに素晴らしい。そんな神の国で食事をする人は、そりゃ幸いでしょう。でも、ここは地上なんだよ。そんなの理想でしょう。」

そんな揶揄、皮肉を読み取る人もいます。

でも、それは現代に生きるわたしたちも、主イエスの言葉に、そんな思いを抱きませんか。

「そうはいってもねぇ」、「現実はねぇ」、「なかなか人間関係って、むつかしいからねぇ」

そんな声が聞こえてくるでしょう。


上席も末席もない。おかえしなどいらない。どんな立場の人も、一緒に受け入れあい、楽しみ、喜び合い、一緒にいられる、そんな「神の国の食事をする人は、ああなんと幸いなことか」と、わたしたちも、そう思う。

そして、そのあとにすぐこういうのです。

「でも、そうはいってもねぇ」「現実はねぇ」、「ななかな人間関係って、むつかしいからねぇ」と

そんな彼に、そしてわたしたちに、イエス様はまたたとえ話をなさいます。

ある人が盛大な宴会を催して、大勢の人を招くお話です。

もちろん、神の国の話をしているのですから、宴会に招いているのは、神様で、招かれているのは、わたしたち。

直接的には、今、この話を聞かされている、律法学者たちのことでしょう。

でも、招かれた人が、次々に招きを断っている理由を読むと、ちょっとひとごととは思えない。

最初の人は、「畑を買ったので、見に行かなければなりません。どうか、失礼させてください」といいました。

ほかの人は、「牛を二頭ずつ5組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」と言いました。

また、別の人は「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言いました。


仕事のため、生活の必要のため、夫婦の時間を大切にするため。

それぞれの人が、「宴会」を断る理由は、なにも、律法学者だけが関係する話ではないわけです。

だれにでも、起こりうること。よくある話。

それこそ、現実的に判断して、ここは宴会にいくより、今、これをやらなければならないんです。

家族を守らなければならないんです。

そういう判断は、わたしたちもするでしょう。人生の優先順位で、「宴会」は、それほど高くはない。

むしろ後回しになりやすい。余裕があるときに、やらなければならないことがないときに、優先順位の最後に「宴会」がくるんじゃないですか。

むしろ「宴会」なんて、非生産的なことをしている暇などない。時間がもったいない。生産性をあげなければ。働らかなければ。

そういう不安に煽られてしまうとき、

神が招いてくださる「宴会」の素晴らしさ。主イエスによって集められ、ともに捧げる礼拝の素晴らしさが、その安息の価値が、よくわからなくなってしまうことが、わたしたちにもあるでしょう。


数年まえ、わたしと家族が、山形の田舎の開拓伝道で、まだ家族のみの礼拝をしていたころ、東京のある大きな教会から、二人の男性が訪ねてきてくださって、一緒に礼拝をささげたことがありました。

礼拝が終わって、その日は秋晴れだったので、庭に出て、ブルーシートを引いて、一緒にいも煮を食べたのです。
田舎の、家の教会ですから。日曜日は礼拝と食事だけ。バザーも委員会もなにもない、ゆったりした時間。

そうしたら、その東京の大きな教会から来られた男性のうちの一人の方が、驚いたように、こういうのです。

「本当に、礼拝しかしないんですね」って。

カルチャーショックのように、驚かれたので、むしろ、私のほうが驚きました。

日曜日に、礼拝のために集まる。礼拝の後の、会議のためでも、プログラムのためでもなく、ただ、一緒に礼拝したいから集まる。

その当たり前のことが、礼拝しかないことが、むしろ驚きであるほど、その方の教会は、日曜日もいろいろと、忙しいのかな。礼拝より、優先順位の高いものが、いろいろあるのかな。

そんなことを、改めて思うわけです。

垣根なく、だれとでも共に捧げる礼拝。

神が招いてくださるその神の国の「宴会」の、優先順位は、今、私の中で、どうなのだろうと、問われるのです。

「畑を買ったから」「牛を買ったから」「あれやこれや、いろいろあって」「家庭の事情で」

それらは確かに大切なこと。どうでもいい話ではないのです。

その上で、なお、そういう思いから、自由にならなければならないときが、あるでしょう。

わたしがそれをしなければ、ならない。私がすること、わたしが、わたしがと心縛られ、苦しくなることがあるでしょう。

宴会などしていられない、礼拝などしていられない。もっとしなければならないことがあるのだ。そうやって、自分で重荷を背負い、心押しつぶされるような、苦しみを感じることもあるでしょう。


わたしは10年ほど前、うつ状態になったことがあります。東京の教会で、毎日忙しい生活をしていたところから、田舎に引っ越し、家族だけの礼拝を初めて3ヶ月くらいたったころ。心がすっかり疲れきってしまったのでした。

それまで、自分は必要とされている、自分がやらなければと頑張っていた、忙しい日々から、日曜日に家族で礼拝をする以外、平日に、教会のチラシを配ることしができない状況に投げ込まれて、3か月で、すっかり心が疲れきってしまったわけです。

いつも、自分の心の中で、自分のことを責めつづけていたからです。

お前は、今日何をしたのだ。何もしていないじゃないか。それでいいのか。

だれも、わたしにそんなことを、言う人はいないのです。そうではなく、自分自身が、自分に向って言い続けている。

24時間。自分を責め続けるわけだから、逃げようがなく、3か月ですっかり疲れきって、本当に、なにもする力がなくなってしまった。

しかし、その苦しい状態から、その後、何年もかかって、抜けだすことができたからこそ、今こうして生きています。

自分のなかで、自分を責めつづける、価値観。

なにかできなければ、成果がなければ、生産性がなければ、価値がない。生きる意味がない。

そう責め続ける、この世の価値観、悪魔の声に耳をふさぎ、

「神はその一人子を、おあたえになったほどに、世を愛された」と告げる、神の愛のことばに、

心を開き続けることで、救われてきたのでした。

人間を愛し、それゆえに、人間に命を与え、それゆえに、そのありのままを愛し、受けとめ、

自分を責め、他人を責める、その罪から、解放してくださる、神の愛の言葉にこの、

その神の愛の招きの言葉に、心を開きつづけることで、何年もかけ、癒され、解放されつづけ、

今、その救いの体験に支えられた、その土台から、

今日も確信をもって語っているのです。

「あなたをこの地上に生み、今日まで育てた、天の親は、あなたを愛している」
「あなたには価値がある。」「だから大丈夫」「神の愛を信じましょう」

そう、福音を語らないわけにはいかない。


なぜなら、天の父なる神は、主イエスをとおして、いつも、私たちを招いておられるから。

今日のたとえ話では、主人の招きを断らなかったのは、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」とあります。

体が不自由になり、なにもできない自分は、価値がないと、責め、苦しんでいるのなら、

どうか、神様は、そんなあなたこそ、ぜひ来てほしいと、まねていくださっている、その招きに、心を開いてほしいのです。

なにもできなくても、かまわない。ただ、そこにいてほしい。あなたと一緒に食事がしたいのだから。
喜び合いたいのだから。つながりたいのだから。

これは、人の招きではないのだから。自分に役立つ人しか招かない、罪深い人間の招きではないのだから。

そういう人間の罪、エゴの裁きを、すべて身に受け、主イエスは十字架につくほどに、

神は、この世を愛し、人を愛し、垣根を越えて、この救いの宴会に招かれる。

人間の招きには限界があっても、神の愛の招きに、限界も、条件もないのです。

「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れてきて、この家をいっぱいにしたい」

それが、天の父の愛だから。

仕事や学歴、血筋や民族、国籍、なにかができる、できない。そういう人間の作った垣根を乗り越え、

すべての人を、神の家に招き、いっぱいにしたい。一緒に食事をして喜びあいたい。つながりあいたい。

その思いで、今も、必死に、懸命に、招き続けてくださるのが、天の父であるのだから。

この神の愛の招きに、今日、新たに、心を開きましょう。

主イエスを心に迎え入れ、魂と魂のつながりを経験し、

飢え渇いた心を満たす、主イエスとの食事を、ともに味わい、喜びあおうではありませんか。


最後に、黙示録の言葉を読んで、メッセージを終わります。

「わたしは、戸の外にたってたたく。だれでも、わたし声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしと共に食事をする」