ルカ11章37節〜44節
今日も主の招きに応えて、ここに体を運ぶことができました。感謝です。
そして、今、ここに体を運ぶことのできなかった、花小金井教会の一人ひとりのためにも、主の導きと祝福を、わたしたちは祈ります。
先週の日曜日の午後は、女性グループのバザーがありました。今日しているネクタイは、そこで買ったのです。炎をイメージさせる、エンジのネクタイなので、来年のペンテコステまで、とっておこうと思いましたけれども、我慢できずに、今日、してしまいました。
牧師が礼拝のときに、何を着るか。キリスト教の教派によって、まちまちなのです。
カトリックは、神父は背広なんかきませんね。白い祭服をきます。
プロテスタントのなかでも、牧師がガウンを着る教派、教会は結構あります。
わたしたちのバプテストという教派は、牧師も信徒である、ということを大切にしているので、特別な服装はしないわけです。
逆をいえば、人は人の外側・・服装とか、振る舞いという、目に見えるところで、判断するものだ、ということでしょう。
そして文化の影響もあります。バプテストの牧師は背広を着るべし、と聖書には書いていませんのに、どのバプテスト教会に行っても、みんな牧師は背広です。
なぜなんでしょう。文化でしょうか。文化なら、変えてもいいですよね。来週からアロハシャツを着て、メッセージをしてもいいですか。
アロハなんかきて、ちゃらちゃらした牧師だなって、聞く耳を失いますか。
実は、わたしは、一度だけ、アロハシャツをきて、礼拝でメッセージをしたことがあるのです。
ハワイのオリベットバプテスト教会の日本語部を訪ねた時に、メッセージをさせていただくことになって、そこの牧師さんから、「ハワイの教会は、牧師はアロハシャツをきてメッセージをしますから、アロハシャツをもってきてもらえますか。こちらでは、アロハが正装なんです」といわれたからです。
ハワイで、背広をきてメッセージをしたら、むしろちゃんと聞いてもらえないかもしれないですね。
言いたいことは、つまりこういうことです。人は目に見える外側の部分に、非常に影響されるということでう。ですから、外側を飾りたい、という動機も生まれてくるということです。
主イエスが、特にファリサイ派と呼ばれる、熱心に神の言葉を守ろうとしていた人々に、とても厳しい批判をなさった背景に、この内側よりも、外側を飾るという、偽善ということが、いわれるわけです。
もう一度、今日の聖書の前半を、お読みいたします。
37節
「イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。
ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。
主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。
愚かな者たち、外側を造られた神は、内側ををもお作りになったではないか。
ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」
ファリサイ派の人から食事の招待を受けたイエス様。
そこで、ファリサイ派の人たちが、当然するべきだと思っていた、身の清めを、イエス様がなさらなかった。
それをみて、彼らが「おかしいんじゃないか」と、不振に思ったことが、話の発端でした。
身を清めてからでないと、食事をしないという習慣。
それは、現代の私たちが、衛生的であろうとして、食事の前に手を洗うという習慣とは、まったく違う話です。
そうではなくて、それは「宗教的な汚れ」から身を守るための、「身の清め」であったのです。
ユダヤ人にとって、聖書の神を拝まない異邦人、外国人、また病の人、罪人と呼ばれる人。そういう汚れた人々が、さわったものに、自分もさわったかもしれない。
そのままの手で、食事をしたら、汚れが自分の中に入ってしまうので、食事の前に、身を清めたのでした。
わたしたちは、毎週の礼拝のなかで、挨拶をして、握手もするでしょう。笑顔でにこにこと、「おはようございます」と。
でも、心の中で、実は、ああ、あの人にさわっちゃった。食事の前に、念入りに手を洗わないと、汚れがうつっちゃうわ、と思われていたら、どうでしょう。
失礼でしょう。そんなに汚れたくないなら、そもそも、山の中で、閉じこもって生活していたほうがいい。
実は、福音書には登場しませんけれども、当時のユダヤ教のグループの中に、「エッセネ派」というグループがあって、この人たちは非常に厳格な人々で、本当に、清くあろうとして、自分たちだけで山にこもってしまった人たちもいたのです。
一方で、同じユダヤ教のグループでも、この「ファリサイ派」の人たちは、そこまで極端ではありませんでした。律法を守って、清くあろうと願いながら、同時に、民衆のなかで生きていたし、なかには、農民であったり商人であったり、そういう一般の仕事をしつつ、律法を守ることに熱心な人々もいた。
そんなファリサイ派のなかで、特に律法の知識の深い人々が、福音書にでてくる、律法の専門家とか、律法学者という人々です。ユダヤの地方ごとに、もうけられた集会所、シナゴーグで宗教指導をしていたのは、ファリサイ派の人たち。
そういう意味では、ファリサイ派と呼ばれる人々は、民衆のごく身近に生きていた、宗教熱心で、律法を守ること、また教えることに、とても熱心でまじめな人たち。人々からも尊敬される立場だったようです。
福音書を読むと、イエス様がとても厳しいことばで、ファリサイ派の人々を批判するので、ともすると、非常に悪い人々のような、イメージを抱いてしまうのですけれども、
むしろ、その逆に「あの人は立派だ」「まじめで、誠実だ」「聖書をよく学び、そして実践している」と、尊敬され、人々から、そういう評価を受けている人たちだった。
わたしたちも、信仰生活の中で、あの人の、祈りはすばらしいとか、聖書をよくまなんでおられるとか、愛の実践をしておられるとか、
そういう目に見えるところ、耳に聞こえるところで、人を評価することがあるでしょう。
しかし、それはやがて、そのような評価をしてほしくて、人の目を気にして、外側を飾っていく動機にも、なっていくのです。
神の目よりも、人の目を気にしていく。
律法を守ること、律法を生きることは、神への愛であったはずなのに、いつのまにか、人からの評価を得る手段に、落ちていってしまった。
偽善。
そういう状態に陥っていたことを、主イエスは見通しておられたからこそ、ファリサイ派の人々に、ここまで厳しいことを言うことができたのでしょう。
39節
「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」
これは実に厳しい言葉なのです。
これは、人が人に向かって言うことはできないことば、いってはならない言葉です。
なぜなら、人は、だれも相手の心の内側を、見通すことなどできないのですから。
限界ある人間は、いってはならない言葉。批判。
ただ、人間の内側も外側もお作りになった、神の御心をしっている、主イエスだからこそ、主イエスだけが、語ることのできた言葉。そう信じます。
そうであれば、これはファリサイ派の人たちだけの話ではなく、人間の外側も、内側も作られた神様のまえに、すべての人が、聞かなければならない言葉であるはずです。
人間の外側も、内側も作られ、すべてを知っておられるお方を前にして、本当にそれでいいのかと、今、わたしたちにも問うてくる、主イエスの言葉。
しかし、ファリサイ派の人々は、あなた方の内側は、「強欲」と「悪意」に満ちているという、主イエスの言葉を、まっすぐに聞くことができませんでした。
なぜ、そこまでいわれなければならないのか。
ファリサイ派の人々はそう思ったのでしょう。
この先、53節まで進みすすむと、彼らは主イエスに対し、激しい敵意を抱いたと、記されています。
まさに、主イエスが言われたとおり、彼らの内側から「敵意」が「悪意」が沸き上がってきたのです。主イエスがいわれたとおりでした。
人々から尊敬され、正しい行い、生活に生きていたファリサイ派の人々。しかしそれゆえに、自分たちを批判する主イエスに、「敵意」が吹き出してきた。
それは、ファリサイ派の人たちだけの特別な問題でしょうか。わたしたちも、すべてを見通しておられるお方、私たちの内側を、そのどろどろとした内側を、すべて知っておられるお方の、その指摘に、まっすぐに耳を傾けることができるでしょうか。
そういう都合の悪い言葉は、握りつぶしてしまいたい。
そんな敵意を、御言葉に対して、抱いてしまうかもしれません。
神様を愛し、神様を見上げて生きているつもりで、いつのまにか、人からどうみられるか。できればよく見られたい。人から評価されたい。
良いことをするなら、人が見ていないところではなくて、みているところで、したほうが、自分にとって得なこと。
そういう欲望。そういう動機で、動いてしまう、わたしたちの内側を、
すべて見通しておられる主イエスは、「強欲」だといわれます。
わたしも、強欲です。人からどう見られるか、ということから、自由になっていないからです。アロハシャツを着てメッセージをしたら、人からなんと言われるかと、恐れるからです。
人から、「牧師らしい」と思われるように、振る舞ったほうがいいんじゃないか、と、内側でささやいている思いがあることに、気づいているからです。
そして、人の外側も内側も造られた神様は、そのすべてを見通しておられる。それはある意味恐ろしいことです。神様には隠せない。
都知事が、いったい税金をどのように使ったのか。人にいえないことに使ったのか。人には隠したくても、隠れている心の内側を、神はすべて見通しておられるでしょう。
神は知っておられる。人には隠せても、神は知っておられる。
神を信じて生きるということは、この、自分の内側をすべて知っておられるお方の前に、生きるということだから。
42節で主イエスは、こう言われます。
「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷やウンコウやあらゆる野菜の十分の一は捧げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ」
自分が手に入れたものの10分の一を、きっちりと取り分けて、捧げ物にする。それはお金も、収穫された農作物さえも、きっちり10分の1。
それは神に捧げている生活。まわりの人は、そう評価してくれたでしょう。その、すきのなさを、だれも批判できなかったでしょう。
ただ、主イエスのほかには・・・。
すべてを見通しておられる、主イエスは言われます。
「しかし、正義の実行と神への愛はおろそかにしているのだ」と
正義の実行。それは、自分の正義ではなく、神の義。
人の内側を、心を、すべて知っておられる神の義。
そして神への愛が、おろそかにされている。
旧約聖書のホセアで、預言者ホセアは、こう語りました。
「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく
神を知ることであって
焼きつくす捧げ物ではない」
主なる神が喜ぶのは愛であって、いけにえでも犠牲でもない。
神の愛を知っているのなら。
すでに、神に愛されていることを知っているのなら、
自分の内側に、自分は、神に愛されている。愛されているという、平安があるのなら、
汚れることを恐れて、「自分を守るのだ」と食事のたびに、身をきよめる必要など、ないのだから。
それは、神の愛を知らないまま、内側に不安を抱えている表れだから。
会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むのも、そうしてもらわなければ、そうやって、認めてもらわなければ、
どうにもおさまらない不安を、自分の内側に抱えているからでしょう。
それを、主イエスは、人目につかない墓のようだと言います。
内側から湧き上がる命。神に愛されている喜びに、生かされることのない、死んだ墓のよう。
そう主イエスは言われるのです。それは、彼らを裁くために、滅ぼすために、言っておられるのでしょうか。
そうではないはずです。主イエスは、ファリサイ派の人の、食事の招きに応えてくださったのですから。
裁くためでも、滅ぼすためでもない。そうではなく、ファリサイ派の彼が、本当の自分に向き合い、
気付けなかった、自分の内側に気付くようにとの、神の憐れみのことば。
ハーバード大学をやめて、知的障害を負った人々と、生活を共にした、ヘンリ・ナウエンの証をご紹介して、メッセージを終わります。
「憐れみを生きる生活は、ときに、あまり受け取りたくないものを与えてくれることがあります。それは、真の自分に直面するという贈り物です。
ペルーの貧しい人々と過ごした時、わたしは自分の内の忍耐のなさ、すなわち、効率を求め、人を支配したいという根深い欲求があることに直面させられました。
知的障害者との生活でも、人から拒否されることへの恐れ、自分を認めてほしいという渇き、決して減ることのない愛を探し求めている自分というものに、直面し続けています。
あるとき、こうした自分と対決したときのことを鮮明に覚えています。テキサスに講演旅行に行った際、私の住んでいるコミュニティーのメンバーで知的障害を負ったレイモンドのために、カウボーイハットをお土産として買いました。わたしは家に帰って彼にそのお土産をわたすことを楽しみにしていました。
レイモンドはわたしと同じように、人の注意と愛情を、限りなく求める人です。彼はわたしのお土産を見て、こう叫びました。
「そんなお土産はいらないよ。僕はたくさん贈り物をもっている。部屋にはもう置く場所がない。壁もいっぱいだ。それは君が持っていて。僕はいらない」
彼のことばは、私の心に深い傷となって残りました。わたしは彼の友になりたいと思っていたけれど、時間を共に過ごすかわりに、高価な贈り物をすればよいと思っていたことに気付かされました。レイモンドがカウボーイハットに向けた怒りは、私のいたらなさ、彼と人格的な関係を結び、真の友情を築くことのできない自分というものを、わたしに突き付けました。
そのカウボーイハットは、友情のしるしではなく、その代用品と受け取られたのです。
レイモンドの爆発で私の目に涙があふれたとき、私はこの涙の原因のほとんどが、自分の内側が壊れていることを痛む涙だと気付きました。
このように、自分の真の姿に直面することも、憐れみの生き方がもたらす贈り物です。それは、受け取ることのとてもむつかしい贈り物ですが、私たちの人間としての健やかさと、聖さを追い求める上で、たくさんのことを教え、助けてくれる贈り物です。」
主イエスは、このファリサイ派の人々への言葉によって、憎まれ、結果的に、十字架につけられることになっていきます。しかしそうなろうとも、彼らに、そして今を生きるわたしたちに、この「真の自分に向き合うように」という贈り物を・・
主の憐れみという贈り物を、主イエスは与えずにはおれなかったのです。