「ハレルヤ 神を礼拝せよ」(2016年5月15日花小金井キリスト教会 夕礼拝)

黙示録19章1節〜10節

夕礼拝では、朝の教会学校と同じ聖書個所からメッセージしていますけれども、黙示録もいよいよ大詰めです。

ここに至るまで、さまざまな災いが地上にもたらされていく描写が続いてきて、いよいよ18章で大バビロンとたとえられている、強大なローマ帝国が、倒れるのだという預言に至ります。

実際には、ローマ帝国が滅びていくのは、この黙示録が記されたあと、約200年後であるわけですから、これを記したヨハネも、当時の教会も、実際にはこの、自分たちを迫害し、苦しめている大バビロンと表現した、ローマ帝国の崩壊を、見定めることもなく、迫害の中死んでいくのです。

目の前の現実は、いまだ暗闇の中にある。希望は見えない。この強大で悪魔的な力が、このまま世界を飲み込んでいってしまうのではないかと、絶望させられる。

しかし、そういう人間の限られた時間軸や、認識能力を越えて、歴史の主である神様からの幻を見せていただいているヨハネは、この暗闇のような現実が、たしかに上からの光に照らされていることを

今確かに、勝利に至る道筋を、わたしたちは歩んでいることを、感動をもって語っているように、わたしには読めるのです。


そして、今日の19章1節

「その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。」

ヨハネは、天で響く、大群衆の賛美を聞いたのです。

「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの」

ハレルヤ ハレルー 賛美せよ。 ヤ ヤハウエを

神を賛美せよ。このもともとヘブライ語のハレルヤという言葉は、旧約聖書にはたくさん出てきますが、ギリシャ語で書かれた新約聖書には、この黙示録の19章に4回出てくるのみなんです。

新約聖書しか読んだことのない人は、ここに来て初めて、ハレルヤという言葉に遭遇する。意外といえば意外です。

待ちに待った、ハレルヤ賛美 ヘンデルのオラトリオ「メサイヤ」は、全曲を聞くと2時間くらいになりますか。

昔、常盤台教会の会員だった時、常盤台教会では、年に一度「メサイア」をほぼ全曲、演奏するのですけれども、

聖歌隊で歌ったことが何度かありますけれども、2時間近い最後のほうで、やっと「ハレルヤ」を歌う。

それは、マラソンでいえば、長い道のりを走ってきたランナーが、最後に競技場に入ってきた感じでしょうね。

あと、競技場を何週かすれば、ゴール。もう、勝利は確実というところで、鳴り響いている、大歓声のような。

そういう意味で、ヘンデルの「ハレルヤコーラス」は、いきなりうたうよりも、やっぱり、そこに至る長いプロセスを経て歌うと、感動もひとしおであるわけです。

6節の賛美

「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた」

この「ハレルヤコーラス」の喜びを、わたしたちもやがて、地上の人生を歩みぬいて、天に招かれていくからこそ、味わえるのでしょう。

聖書が伝えている物語は、最初アダムとイブが置かれた楽園。エデンの園から始まって、そこから追い出されなければならない罪の悲しみ、苦しみを経て、

やがて主イエスの十字架と復活の救いをへて、再度、楽園へと、この世が回復していくストーリー。

その楽園は、初めの楽園と同じではなくて、苦しみを経て、そこから救われるプロセスを経ていたる、新しい天と新しい地。

最初の楽園よりも、さらに高い次元の楽園。今の喜びも悲しみもすべてが生かされ、ついに至る、新しい天と地という楽園。

今日、教会のある高齢の女性の方と話していて、その方は、一人暮らしなので、やはりさびしいという。

ご主人は、小さな箱に入ってしまったし。日曜日に教会に来ることだけが、楽しみだという。

わたしは、いいました。やがて天にいったら、本当にすばらしいですよ。先に行ったご主人も、元気にしていますよ。

あっちが本番なんだから。今、わたしたちは練習中。ちょっと苦しいけれど、やがて天に行ったら、本当に素晴らしいですよ。

って、まるで、みてきたようなことを言いました。みたわけではないけれど、黙示録がそう語っているのだから、いいでしょう。

その天にいたるプロセスを、今ちゃんと生きているという希望が、今を生きる力になるはずだから。

今、まさに、わたしたちも黙示録を生きている。天に至るプロセスを生きている。だから大丈夫だ。

これが、黙示録が、今、わたしたちに与えられている理由ではないでしょうか。

やがて天にいたるプロセスとしての、今を生きている。

その天において、わたしたちは、主イエスキリストの花嫁になるという、メタファー、隠喩も語られています。

主イエスと、永遠に共にある、愛の交わりの楽園というメタファーですね。

7節

19:7 わたしたちは喜び、大いに喜び、/神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、/花嫁は用意を整えた。
19:8 花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、/聖なる者たちの正しい行いである。」

この花嫁が着る、麻の衣が、「聖なるものたちの正しい行いである」とありますね。

もちろん、「正しい行い」によって、人間が人間を救う話じゃない。あくまでも神がわたしたちを救う。主イエスの十字架と復活は、神の救いのしるし。

ただ、救われて、それで終わりという話ではなくて、そこから具体的に、主イエスに従うという生き方へと導かれていくでしょう。

例えば、わたしたちのバプテスト連盟の仲間たちには、さまざまな社会的な働き、差別との戦い、平和を実現していこうとする、具体的な行動へと、連帯していったり、行動していったり、また個人として、自分が置かれている現場で、小さな愛の行動をしていくことは、素敵なことです。

その「正しい行い」は、やがて天に招かれ、キリストと結婚する、神の民の花嫁を飾る、「花嫁衣装」としての麻の衣となるわけわけだから。

正しい行いが、人を救うわけでも、この世界を救うわけでもないけれども、その生き方や語ったことば、愛の行いは、やがて天で、キリストの花嫁の身を飾る、美しい着物になるというイメージが、ここで語られている。

これは素敵なことです。別に、正しい行いをしなければならないということではない。大丈夫。そのままであなたは救われる。

でも、ちょっとだけでも、その救われたところから、美しい花嫁衣装を用意しはじめませんか。

ささやかでいいんですよ。チョットひと言、やさしい声をかけてあげるとか。親切にしてあげるとか、ちょっとだけ我慢してあげるとか、ゆるしてあげるとか、

このちょっとだけっていう感覚が大切。無理をすればいいということではないから。

どんなに無理をして、正しい行いをしても、この世界を救うことはできないし、人は、自分の行いで、自分一人救えない、限界ある存在。

でも、ちゃんと神は救ってくださる。そこに信頼して、その安心感をベースにして、神に救われた喜びから、ちょっと正しい行いをしてみる。

その一人の「ちょっと良いこと」が、大群衆の「ちょっと良いこと」となるなら、実に美しい。

わたしは、平日に教会にいるでしょう。そうすると、入れ替わり立ち替わり、人がやってきて、ある人は、ちょこっと掃除をして、ある人は、ちょこっと礼拝のお花を飾って、ある人は、ちょこっと事務のお手伝いをしたり、奏楽の練習をしたり、話し合いをしたり、ある人は、ちょこっとお昼の準備をしてくれたりするんです。

これは教会にいつもいる特権だと思いますけれども、ある意味、神様の視点からみることができるんですね。お一人ひとりは、ご自分がしていることしか、わからないでしょう。でも、わたしは、あの人、この人、たくさんの人が、ちょこっとずつ、美しい花嫁衣装を作っている姿を、みさせていただけるわけです。

ですから、大丈夫です。美しい花嫁衣装が、天において、待っていますよ。楽しみにしていてください。

さて、最後に10節には、面白いことが書かれていますね。

19:10 わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこう言った。「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」

ヨハネは、この幻に圧倒されたのか、思わず神の言葉を語った天使を、拝もうとしたというわけです。

こういう感覚は、わからなくはない。神を拝むべきであるのに、神の言葉を伝える者を拝んでしまうという感覚。

宗教の指導者を、崇拝する信者のような、関係性ですね。本当は、その指導者が指示している、神を見なければならないのに、その神を妨げるようにして、指導者を見てしまう。

宗教指導者が神の立場に立たされて、神聖化されるということがあるでしょう。ありがたいことに、うちの教会は、牧師を大切にしてくれますけれど、神聖化はしないでくださるので、助かります。

神聖化されたら、悪いことができなくなってしまいますから・・・。それは冗談ですけれども、人は神ではないのだから、失敗もすれば、罪も犯す。

牧師も一人の人間にすぎません。

ただ、ただ、イエス様の証を守っている一人の人。神様に仕えさせていただいている、小さなもの。

ゆえに「神を礼拝せよ」 そう天使の言うとおりなのです。

上からの神の言葉。預言のことば。預言の霊であるところの、聖霊

あのペンテコステの日に、地上に注がれた、聖霊によって、主イエスの証は、全世界に告げ広められ始めました。

その主イエスにおいて、わたしたちは、神をこそ、礼拝します。

この場所で、牧師であろうと、だれであろうと、「預言の霊」「聖霊」によって、主イエスの証が語られるとき、

わたしたちは、神を礼拝しているのです。

ですからどうぞみなさん、預言の霊に導かれ、主イエスの証を語りましょう。信徒説教をしましょう。

また、教会の外でも、職場でも、学校でも、インターネットでも、ホームページ、フェイスブックでも、なんでもつかって、どんどん、主イエスの証を語りましょう。

天にハレルヤの賛美が響く、その日を夢見て