「一緒に神の国で宴会」(2016年7月31日花小金井キリスト教会主日礼拝メッセージ)

ルカによる福音書13章22節〜30節
 今月から、教会のロビーにコミュニケーションカードというものを置きました。初めて教会に来た方も、何十年教会に来ている方でも遠慮なく、書いていただければと思っていますけれども、礼拝の感想でも、意見でも、お祈りしてほしいことでも、なにか牧師に伝えたいことがあったら、心の中にしまっておかないで、自由に書いてほしいんですね。

 こんなこと書いてもいいのかなって思うことでもいいし、クレームでもいいんですよ。牧師の説教がわからないとか、つまらないとか、質問もどしどしお寄せ下さい。
なんでもかまいませんから、さびしがっている牧師のためだとおもって、自由に書いてあげて下さいますか。

 数人で集まって、わたしが聖書のお話をしたりしている集会なら、お話の後に、集まった人が、自由に自分の思いを分かち合えるじゃないですか。そもそも、400年ほど前に始まった、バプテスト教会の、最初の礼拝は、そういう礼拝だったそうです。

聖書の御言葉を聞いたお互いから、あふれる想いを分かち合うことで、神様の御言葉を、より深く味わうこともできるわけですね。
朝の時間の教会学校は、それをしているわけです。あの時間も神様を礼拝する時間であるし、今この時も、そう。

でも、さすがに60人も集まるとそれはむつかしい。教会によっては、礼拝の後に、小グループに分かれて、礼拝の分かち合いをするという工夫をしている教会もあるそうですね。いいアイデアだなと思います。

 福音書をよんでいくと、イエス様は沢山の人々が集まっているところでメッセージを語るだけではなくて、そのあと個別に質問をうけることもしておられるのです。アフターケアーをしておられるわけですね。

今日のみことばは、まさにその個別な質問を受けることから始まった出来事なのです。

エス様が町や村をめぐって御言葉を教えて歩いておられた。そのイエスさまお話を聞き、おそらくイエス様のあとについてきたある人が、このような質問をしたところからお話は始まります。

23節ですね。
「主よ、救われる者はすくないのでしょうか」

さて、この質問をしたひとがどういう人なのかは、書かれていないので、わかりません。

ただ、イエス様に向かって、「主よ」と呼びかけたのですから、イエス様に大いに期待していた人であることはまちがいない。

そして、この時点でイスラエルの人々から「主よ」と呼ばれる。

それは、このイエスこそ、ローマ帝国、異邦人の支配から、軍事的ちからによって、神の民イスラエルを解放してくれる、救ってくれる「メシア」「キリスト」なんじゃないかという、期待をもってついてきていた人なのだろうと、想像することができるわけです。

さて、この時、主イエスと弟子たち一行は、旅の途中だったのです。それは22節にあるように、
「町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」というわけです。

エルサレムに向かって進んでおられた」と、わざわざルカの福音書がここに書きしるすのは、意味があるのでしょう。

この主イエスの旅は、どこに向かっているのかといえば、「エルサレムに向かう旅路」なんですよ。それは福音書の後半を読めばわかるように、その行き着いたエルサレムにおいて、主イエスは十字架につけられていくという、受難に至る旅をしておられるのです。

ということを、わすれないように、福音書を読んでいる人が、ときどきに思い起こすようにと、ルカはここに「エルサレムに向かって進んでおられた」と、書いたんじゃないか。わたしはそう思っています。

福音書は長い長い物語なのです。わたしたちも、毎週の礼拝の中で、このルカの福音書を読み始めてから、もう1年3か月も経ってしまいました。

それでもまだ13章なのです。ルカの福音書は24章まであるのです。まだ道のりは長いでしょう。今いったいどういう状況なのかは、途中、途中で、確認しないとわからなくなるでしょう。この長い旅路の目的地はどこなのか、ところどころで確認しておかないと、迷ってしまう。

そういうことで、今日もまず確認したいのは、今、主イエスが向かっている旅は、エルサレムへの旅なのだということです。


それは主イエスの周りに集まってきた人々が期待していた、力づくで、ローマの圧政から解放する「メシア」「キリスト」として、エルサレムで決起するという、そういう話ではなくて、

むしろそういう期待をしていた群衆たちから、つまり、今の目の前のローマの支配から、苦しい状況から、救われたい。あの異邦人の敵を、滅ぼしてほしいと願っていた、群衆たちからは、「なんだこのイエスという男は、期待はずれだった。役に立たないじゃないかと、失望されて、みんなから「十字架につけろ」と、ののしられるなか、無力なままに、十字架の上で主イエスは死んでいかれる」

福音書を書いたルカは、当然エルサレムへの旅とは、そういう受難への旅なのだとわかって、ここに書いているわけです。

エルサレムに向かって進む旅」とは、受難に向かう旅。

ところが、実はこのルカの福音書には、続編といいますか、第二部があるわけです。ご存じだと思いますけれども、弟子たちの活躍が記されている、使徒言行録ですね。

福音書においては、人々が主イエスのことを、役に立たないと十字架につけ、捨ててしまった。

しかし、その主イエスを復活させたのだ。

そして、復活したイエスと出会った人々は、やがて、エルサレムからでていって、サマリア、そして異邦人の地まで、ローマの先まで出ていって、

エスは今も生きているのだ。これこそが救いだ、福音を信じなさいと、世界中に福音が宣べ伝えられていくことを、ルカは、第二部である、使徒言行録にまとめたわけです。


その大きなストーリ全体を見渡してみれば、今日、このルカの福音書の個所で問題になっている、「救い」ということが、どういうことなのか、わかってきますでしょう。

ローマを倒して、イスラエル民族だけが救われる、ということが、「救い」ではないことを伝えたいことは、明らかでしょう。

ですから29節には、主イエスの、こういうことばをルカは記すのです。

「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」のだと

これが、最初にあった「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という質問への、ある意味答え。

つまり、救われる人は少ないどころか、イスラエルを越えて、全世界中、東から西から、南から北から、すべての民族、国、あらゆる人々がやってきて、一緒に大喜びで大宴会を開く現場が、神の国だ。それが神の「救い」というものだ、というメッセージでしょう。


そのために、今、イエスさまは、エルサレムに向かって進んでいるのだから。その先には人間の自分勝手な価値観で、主イエスを十字架につけていく受難がまっているけれども、しかし、その先には神による逆転がある。復活がある。

神の実現する「救い」は人間が考えるようなちっぽけなものじゃない。

「救われる人は、多いんですか、少ないんですか」とか、「誰が救われるんですか」「だれが滅びるんですか」「わたしは大丈夫ですか」というような、人間が勝手に考えて、線を引いて、こっちは大丈夫だけど、あっちはだめという、狭くて、小さい、ちっぽけな「救い」じゃないのだ。

あなたが思いもしなかった人々が、「東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」んだよ。あなたはその宴会の席で一緒に喜べるの。大丈夫、という話なのです。

すべての人々を、神の国へと招く「救い」でなければ、神の「救い」にはならないではないですか。

ですから、そもそも「救われるものは少ないのでしょうか」と、問わずにいられない、人間のエゴ、差別意識、罪の本質に気づきたいのです。


「救われるものは少ないのでしょうか」といったこの人は、もちろんイスラエルの民だけが救われるべきだと思うから、こういうことをいったわけです。さらにいえば、イスラエルの中でも、ちゃんと律法をまもっている、熱心な人だけが、救われるのでしょう。それは少ないのでしょうと、考えていたのではないですか。

そうでなければ、「救われるものは少ないのでしょうか」という質問は生まれないでしょう。

イスラエルだけが救われる」というだけでも狭い話ですが、それどころか、「イスラエルの人々のなかでも、さらに、救われるものは少ないのですか」という質問なのだから。まさに、宗教的なエリートだけが救われるという話。

これは時代を越えて、よく聞く話です。こうして教会に来ていても、神は救ってくれないんじゃないか。さらになにか熱心に頑張らなければ、救われないんじゃないか。

そういう考えをもっている人は、こういう質問をするでしょう。

「主よ、救われるものはすくないのですか」と


でも、この質問は裏を返せば、「あのだめな人たちは、当然滅びでしょう。」といっていることになりませんか。

そのように、人間がかってに線をひいて、わたしたちは大丈夫だが、あの人たちはだめだといいつのる。

今、わたしたちは、こういう質問が抱えている恐ろしさを、知らされているではないですか。あの相模原の事件で。

人間が勝手に決め付けた価値観で、救われるべき命と、すくわれない命を決めて、それを実行することが、正義だと思いこむ恐ろしさを、

あの障害者施設における事件で、わたしたちは心底知らされました。

でも、あれはあの人だけの罪の問題ですか。わたしたちは無関係でしょうか。

実は、あの事件を受けて、「日本障害者協議会」の代表を務める「藤井かつのり」さんが、インタビューに答えているのを聞いて、考えさせられたのです。

藤井さんはこういうことを言っていました。障害者として、今、危機感を持っていると。

これは、今に始まったわけではなく、時代の今の風潮を反映しているのだと。

1億総活躍とか、自分を磨いて、能力を磨いて、生産性をあげて、もっと価値を高めましょうという風潮。自分磨きや能力開発ということが、なにかよいことのように語られていく中で、その裏側のメッセージとして、生産性が低いものはだめだ、価値がないという考え方や、価値観という、今の社会には下地があったのではないかといわれます。ナチスドイツが、ユダヤ人虐殺のまえに、T4作戦といって、障害者をまずガス室におくっていったことを、忘れるわけにはいかないのです。

ある人たちが、あるグループが、他のグループには、価値がないと否定する。

生きる価値がないということ。


それはつまり、あの人たちは、救われないのですか、滅びるのですかという、質問の根底にある、差別意識でしょう。

「救われる者は少ないのでしょうか」と問うた人は、自分ではわかっていなかったかもしれない。でも、知らず知らずに、人をわけ隔てしたのです。

救われる人、滅びてもいい人と、わけ隔てしたのです。

そしてそれは、わたしたちも無縁ではない、意識なのではないですか。

わたしもまた、自分の考えで、この今の価値観で、あの人は素晴らしい、この人はだめだと、人をわけ隔てしていませんか。

一緒にいたい人、いたくない人を、わけ隔てしていませんか。

主イエスの時代のイスラエルの民は、まさに、自分たちこそが神に救われるべきグループであり、

神を知らないローマ、異邦人は滅びるべきグループなのだと、わけ隔てていました。

そして、自分たちこそ神の国に入る。異邦人は滅びるという価値観を、当時のイスラエルのほとんどの人々は持っていた。

でも、これをわたしたちは笑えない。わたしたちも、いや人間がすべて知らず知らずに抱えている、罪の問題なのだから。

神の御心ではなく、神の愛のまなざしではなく、

自分の考えを、自分の思いこみを、偏見を、絶対化していく。

これがいわば、広い戸口からはいることだとすれば、

主イエスはそうではなく、狭い戸口から入るのだと言われるのです。

自分が思っていること、願っている価値観を、実現しようとする、人間の国ではなく、

人がかってに、救われる人を決め、滅びる人を決める、人間の国ではなく、

すべての人に命を与え、愛しておられる、神こそが、王である国こそ神の国なのだから。

神こその、この世界という家の、主人。この家の主人の愛によって、集められた人々の集まりのなかに入る。

それが、「神の国に入る」ということなのだから。

そのためには、自分の思い、自分の考え、自分のエゴをすてなければ、入れないでしょう。

日本の伝統的な「茶室」は戸口が狭いではなくですか。それは、どんなに偉い人でも、殿様でも、頭を下げて、小さくならなければ、ならないという意味があるのだそうです。

狭い戸口から入るように努めなさいとは、つまり、自分の願い、自分の考え、自分の価値観を脱ぎ捨てて、

神の国という家の主人である、神の願いを、神の御心こそを、

つまり、東から西から南から北から人々を集めずにはいられない、神の愛の思いを、価値観をこそ、あなたの思いにしなさいということでしょう。

人をわけ隔てなどなさらない、神の愛の心を知ろうとしないで、

あの敵を、ローマを倒すキリストだと、思いこんで、

そういう自分の思い、願い、エゴをすてないまま、

いくら主イエスに向かって「「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場で教えを受けたのです」といってみても、反対に、主イエスからこう言われてしまうでしょう。

「おまえたちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」

神の国」とは、神の価値観、神の愛の御心、支配が満ち溢れる、国なのだから。

自分の国、自分たちだけの国。他の者はいれないぞ。「救われるものは少ないのだ」我々だけが入れるるのだという、エゴイズムの国ではないのです。

そんな、「自分たちだけ」「自分たちこそ」がという、エゴこそが、神の国にはいって、一緒に喜べないで、外に投げ出されて、歯ぎしりするしかない、原因なのだから。

28節

アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする」

アブラハムもイサクもヤコブも、自分たちイスラエルだけが救われる、などと考えた人たちではないのです。

ただただ、小さな自分たちを愛し、導き、祝福して下さった、神様を信頼して、従った人々でしょう。

そして、そういう神様へのまっすぐな信頼は、だんだん広がっていって、やがて東から西から、南から北から集められた、世界中の人々が、共に宴会を開いて喜び合うような、愛しあい、支え合う世界となる。神の国はやってくる。

障害があるとか、ないとか、高齢であるとか、病気であるとか、外国人であるとか、宗教がどうであるとか、そういう人間のわけ隔てを越えて、

神が真ん中にいてくださって、互いに「敵だ」「見方だ」と言わず愛し合いなさいよと、集めてくださった人々と、共に喜びを分かち合う祝宴が始まる。

今、わたしたちがここでしていることも、その神の国の祝宴の一つではないですか。

でもそうわかっていても、どうしても、人をわけ隔てしてしまう罪、そのエゴを、わたしたちは、なんどもなんども悔いあらため、

毎週毎週、主の十字架の赦しを求め、感謝しするために、共に集っています。

そうやって、神様といつもコミュニケーションをとりつづけ、交わりをもちつづけ、

神様の愛の神様の御心を、自分の心にするという、

狭い戸口から入るように努める、わたしたちは仲間なのです。