「主イエスに仕えた女性たち」(花小金井キリスト教会2015年10月4日主日礼拝メッセージ)

ルカによる福音書8章1節-3節

8:1 すぐその後、イエス神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。
8:2 悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、
8:3 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。


今日は、8月に出産したHさんの赤ちゃん、Hちゃんが礼拝に来てくれました。嬉しいですね。Hちゃんが生まれる前から、教会のみんながHちゃんとあえることを楽しみにしていたんですよ。

赤ちゃんはパパとママが出会って、愛しあって、そんな出会いの結晶として、神さまが与えてくださるのですよね。

出会いと言えば、先週は福山雅治さんと吹石一恵さんの、結婚宣言が、ずいぶん騒がれましたけれども、

複雑な気持ちの方もおられるようですけれども、出会いと出来事はそれぞれ神さまからのいただきものですから、

文句や愚痴は、当人ではなく、神さまにぶつけてくださいね。


官房長官が、この結婚を機に、ママさんたちが一緒に子どもを産みたいとかいう形で、国に貢献してくれればなと、言われたそうですけれども、

命は、国のためとか、親のためとか、誰かの役に立つために生まれてくるのではなくて、

ただ、神さまに愛され、両親に愛されて生まれてくるのです。

両親が出会い、愛しあわなければ、生まれない出会いの神秘の結晶として人は、生まれてくる。

わたしたちは、みなそうやって生まれてきたわけでしょう。

人と人との出会いには不思議な力があるならば、ましてやイエスさまとの出会いには、人を新しく生まれさせる神秘な力がある。

そういうイエスさまとの出会いを経験したからこそ、わたしたちは今ここに集っています。

そして今日、また新たにイエスさまに出会うために、ここに集まってきています。


さて、今日の聖書の言葉は、そのようなわたしたちと同じような主イエスとの出会いをし、イエスさまの後についていくようになったであろう女性たちが登場する箇所です。

たった3節の短い個所です。内容もそれほどないので、つい読み飛ばしてしまうかもしれません。

ここからメッセージをするのは、それこそ生みの苦しみです。でも、実はここにはとても大切なメッセージが隠されていると思うのです。

そもそも、イエスさまの伝道旅行に、従いついてきた女性たちがいることを、はっきりと書き記すのは、この箇所だけです。

 ほかの福音書には、イエスさまと12弟子の伝道旅行に、女性たちが付き添っていたことは、書かれていません。

 今と違って、女性の立場の低い時代でした。人数を数えるときも、女性と子どもは数えないような、そういう時代だったことを考えれば、むしろルカの福音書の、女性に向けられたまなざしの温かさを感じます。ルカは、ちゃんと女性たちを見ています。

 なぜルカの福音書はここで女性たちのことを書くのでしょう。

 ある人はこんな想像をします。後の時代、この福音書を書くことになった「ルカ」は、この女性たちのことをよく知っていたのだろう。直接か人伝えにか、とにかく知っていた。そして彼女たちは最初の教会において、とても大切な女性たちだった。だから、ここに彼女たちのことを書いておいたのではないか。

 そんな想像をしています。それはあり得る話だと思います。

 ここに名前が記されている女性は3人。7つの悪霊を追い出してもらった、マグダラの女と呼ばれる「マリア」、そして、ヘロデの家来クザの妻「ヨハナ」、そして最後に「スザンナ」です。

 マグダラのマリアの名前は、このあと、十字架につけられたイエス様を見守ったり、墓に葬られたイエス様に香油を塗りにでかけ、復活の主に出会う女性として、登場するので、良くご存じでしょう。

さて、ヘロデの家来のクザの妻「ヨハナ」はどうでしょう。彼女はもう一カ所、イエス様の十字架のあと、葬られた墓に香油をぬるために出かけた女性の中の一人として、登場します。彼女もずっとイエス様に従って伝道旅行をしていた女性でした。

 ところが彼女は、ヘロデの家来の奥さんだったのです。

ヘロデとは、ガリラヤ地方を収めていた領主。正直、イエスさまのことを快く思っていないのです。そのヘロデが、夫の上司なのに、彼女はイエス様にずっと従って、旅をしている。

夫婦の間は、いったい大丈夫だったのでしょうか。

夫のクザは、妻の「ヨハナ」が「イエス」の後についていってしまって、どう思ったことでしょう。

いや、そもそもそんなことがありえるのだろうか。このとき、夫はすでに死んでいたんじゃないか、という人もいます。

様々に想像が膨らみます。

ただ言えることは、この「ヨハナ」もイエス様に出会い、悪い霊を追い出していただいた、そんな経験があって、ついていった女性だったということです。

 最後のこの「スザンナ」という女性については、名前以外に何も分かりません。でも、ルカは彼女の名前をここにこうして書き残さずにはいられなかったわけですから、このスザンナも、ルカがいた教会に、もう、高齢になっていたけれども、いたのかもしれない。「昔、わたしはイエスさまとご一緒したんです」と、その生の話を、ルカは彼女からきいたのかもしれない。だからルカは、ここに彼女の名前を書いたのではないかという、想像をすることくらいは、許されるでしょう。

 想像ついでに考えてみたいのです。もし、花小金井教会のだれかが、後代の人々のために、教会の最初の頃の話を書くとしたなら、当然、その時代を知っている人々に、その時の話を、聞いて回るではないですか。

 そうしてかかれた書物には、牧師だけとか、男性だけが出てくるでしょうか。むしろ、目につかないところで、たくさんの素敵な女性たちが、祈っていたこと、捧げていたこと、仕えていたこと、書かないでしょうか。

 確かに、イエスさまに従ってきた、女性たちは、なにか特別なこと、大きな目立つ働きよりも、むしろ、目立たない、ごく日常的なこと、男性たちの食事や、生活のお世話をしていたのでしょう。

それは、毎日の繰り返しの働きなので、ルカは、なんども書かないで、この一カ所にまとめて書いたのでしょう。

 そのような、伝道の働きを見えないところで、きめ細かく、愛情深く支えていた、女性たちがいなければ、

 もし、男だけの集団の伝道旅行だったら、どれほど悲惨なことだったか。そもそも男だけの伝道旅行など、生活として、成りたたなかったはずです。

目に見える弟子たちの働きが、目に見えないところで、女性たちの愛の奉仕で支えられていたことは、間違いない。

 わたしが牧師として、こうしてここに立って話すことができるのは、妻が支えていてくれるからです。

 そうでなければ、今頃、髪の毛ボサボサで、説教の準備もおわらないまま、ここに立つこともままならなかったかしれません。

 そして教会には女性の方が多いわけですけれども、そのみなさんの祈り、温かい配慮、愛の言葉、交わりに支えられなければ、牧師講壇にたてるわけがないのです。

目に見える部分は、目に見えない、光の当たりにくいところにこそ、支えられています。

ルカは、そういう光の当たりにくい女性の存在に、光を当てるのです。それはイエスさまがそうなさったから。イエス様が彼女たちと出会い、招かれたから。

 先週は、「罪の女」と言われた人が、イエスさまの足を、涙で濡らした出来事を読みました。

すべてを知っていてくださるイエスさまと出会い、心を開いて、心を注いだ彼女の姿が、そこにありました。

 そして、今日の個所に登場した三人の女性も、また、悪霊を追い出していただき、病をいやされた、沢山の女性たちも、それぞれに、イエスさまとの出会いを、一人一人が体験したからこそ、イエスさまについていっているはずなのです。

 悪霊を追い出していただいた、などというと、現代に生きるわたしたちは、なにかホラー映画のような、おどろおどろしい出来事だと、感じるでしょう。

でもそれは映画のはなしなのであって、悪霊を追い出すといっても、実際は、そんなおどろおどろしい話ではなかったのではないか。

悪霊とか悪魔とは、聖書の中では、神様から人を引き離す存在であるわけだから。

 イエスさまが活動を始めた最初に、石をパンに変えよと、悪魔が誘惑したとか、わたしを拝むなら、この世の権力の全てをくれてやると、誘惑したとか、

 むしろこの世の力とか権力とか、そういうよくみえるものに、縛り付けて、神の愛がなんなのか、わからなくさせるようなことが、悪い霊の働きなのだから。

 なにか、悪霊に憑かれた女性というものを、おどろおどろしいホラー映画のゾンビのようなもののように、想像しなくていい。

そうではなく、あたりまえの日々に生活の中で、この世界の価値観にどっぷり誘惑されて、自分の価値が、わからなくなってしまう。

自分に命を与え、愛を注いでくださっている、神の愛が、神に愛されている自分であることが、分からなくなってしまう。

なにもかもむなしくなってしまう。人や、お酒や、薬に、依存しなければならなくなってしまう。自分を責め、人を責め、怒り、憎しみに、心が縛られてしまう。

そういう、神の愛から引き離し、本当の自分を見失わせてしまう、悪い霊の働きというものが、

昔も今も、たしかにあるのではないですか。

そういう自分ではどうにもならない心の闇、束縛は、心の病として現れることも、体の病気として現れてくることも、あるでしょう。

神に愛され、生まれてきた命なのに、神に愛され、またとない尊い存在であるのに、その命を、否定させ、滅ぼそうとするのが、悪い霊のすること。

そうであれば、その7つの悪霊によって、自分の命の価値を否定され、人間らしさを見失わせていた悪い霊から、主イエスが解放して下さったことが、

神に愛されている本当の自分を見いだした、そのマリアの喜びが、それほど大きいものであったのかは、きっとここに集まったわたしたち一人一人にも、共感できる話ではないですか。

女性の立場が低い時代に、さらに輪をかけ「お前など生きる価値がない」と、存在を否定する人々の声。悪い霊が、そんな人々の声を通してはたらき、彼女の心を縛りつけていたはずなのだから。

そんな彼女が「あなたは、天の父に愛されている」と告げる、主イエスの福音に出会い、もう誰が何と言おうが、わたしは神に愛されている子なのですと、自由と解放の喜びのもとに、歩みだしたのだから。

「福音」。それは、束縛からの解放の喜びの知らせ。

福音が語られるとき、悪い霊は追い出され、人々は解放と自由を得るのです。福音は、神の愛の力だから。

福音に出会い本当の自由を知った、わたしたちも、この彼女の喜びを、共感できる、仲間ではないですか。

わたしたちも、自分が価値ある存在だとは思えない、こんな自分はだめだと思わせる、日々の誘惑から、解放されるために、主イエスの言葉を求めて、集う仲間だから。

エスさまは、町や村を巡り、神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせ、心縛られていた、マグダラのマリアや、ヨハナ、スサンナ、沢山の女性たちを、悪い霊から解放してくださいました。

「あなたは神に愛されている」。「あなたの罪は赦された」

この福音宣言が、1人1人を悪い霊の束縛から解放するのです。

そして、解放された人こそが、本当の意味で、イエスさまに従う人となるのです。

この世の「名誉」、「金」、「力」に縛られていては、イエスさまに従うことは難しい。

男の弟子たちは、当初は、俺が一番お前は二番だと、そんな名誉や立場に、縛られていましたから。

だから、彼らは、最後の最後に、イエスさまを身捨てて、逃げ出した。

でも、女性たちは逃げなかった。イエスさまの十字架の下で、その死を見届け、イエスさまの葬られた墓に、捕まることを恐れず、出かけて行ったのは、彼女たちなのです。

彼女たちは、本当の意味で、解放されていたから従い抜いた。

地位や名誉か金とか、「自分が何をやった」とか、そういうことで、自分の価値を量る悪い霊の誘惑から、解放されていたから。

どんな状況であろうと、誰が何と言おうと、「わたしは神に愛されている」ということを、信じ抜いていたから。

彼女たちは自由に、イエスさまに従い抜くのです。

今日の短い聖書の最後には、こういう言葉が記されています。

「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」

 彼女たちは、自分の持ち物を出しあっています。もう、これは自分のものだ。自分のものだと、そんなことからも自由になり、分かち合っている彼女たちの姿が、そこにあります。

 これが自分を支えてくれるもの。これが自分の価値だと思わせる、悪霊の誘惑から、自由にされた女性達の、すがすがしいまでのイエスさまについていく姿が、そこにあります。

男の弟子たちが、すこしでも目立とうと頑張っている、その脇で、

だれに褒められなくても、認められなくても、そんなことからまったく自由に、活き活きと主に仕えている女性たちが、そこにいます。

主イエスがそうであったように。

持ち物も、プライドも、命も、すべて十字架の上で奪い去られ

もう、これ以上なにも失うものはないという姿のなかにさえ、神の愛を見せてくださったから。

そのどん底絶望の極みから、神は主イエスを復活させ、神の愛は決して変わることがないことを、見せてくださったから。

そのすべてを目撃したのは、男の弟子たちではなく、彼女たちだったのです。

自由に生き生きと、恐れることなくイエスさまについていった女性たち。

それは、ただただ、主イエスとの出会いによって起こる神の出来事。新しく生まれる奇跡です。

さあ主イエスと出会い、悪いものの束縛から解放された、私たちは、

この礼拝で主イエスにあらたに出会い、自由となった、私たちは、

ここからあらたに、主イエスに仕える自由人として、歩み始めていくのです。