「酒田の思い出」

shuichifujii2017-05-02


 東北の教会の仲間の集まり(東北地方連合)が、山形県酒田で行ってきたの開拓伝道の記念誌を作るそうです。

その働きの一部に加わったわたしたちにも原稿の依頼がきましたので、しばらく酒田での日々を振り返ってみました。

「酒田での思い出」藤井秀一

 私たち家族にとって、「酒田」で過ごした8年半の年月には、沢山の思い出が詰まっています。酒田で出会った、ひとりひとりとの出会いや出来事。孤独感にさいなまれた日々。冬の風雪の中で、祈り続け考え続けた日々。失望に押しつぶされそうなとき、主がそこから救い出してくださった幾度かの奇跡。そして、家族だけの家の教会に、バプテスマを受ける人を与えてくださった恵み。語り出せば長くなってしまいます。

 ただ、わたしが「酒田」に関わった8年半の間、最初から最後までひとときも忘れることがなかったのは、私たちは、東北地方連合の開拓として、主から遣わされたという立場と意識でした。その意識があったからこそ、そこにとどまれたのであり、そうでなければ、たった1年でも、厳しい「酒田」という現場にとどまることは出来なかったはずです。

 遅々として進まない酒田の現場のために、母教会の山形教会の方々は、我が子の成長を見守るように寄り添い、忍耐し、祈り支えてくださいました。歴代の連合の開拓委員の方々が、遠く仙台から酒田まで通い続けてくださいました。連合、連盟、国外の諸教会が酒田を覚え、祈り、訪ねてきてくださいました。祷援会の祈りと支援がありました。そのような繋がりに支えられた8年半。わたしの3人の子どもたちと、Hさん、Iさんがバプテスマを受けていきました。

 隔週で行っていた子ども会「のぞみキッズ」、子ども英語教室「キッズブラウン」、放課後のこどもの居場所「ピーターさんの庭」。小学生のこどもたちがいる私たち家族の賜物を生かして、子どもたちとご両親と出会うために、出来ることをしました。

 会議室を借りて毎月行った「聖書を読む会」から、家の教会の礼拝に繋がった人たち。何年も礼拝に繋がりながら、離れていってしまった方々。ある日突然礼拝にこられ、やがて教会員となり、またバプテスマを受けた方。寒くて地下街もない酒田には、ホームレスの方はおられないはずなのに、流れ流れて伝道所を訪ねてきた方を泊めたり、自転車で日本一周をしている青年が通り過ぎていったり、引きこもっていた近所の青年が、礼拝に来るようになり、英語教室を手伝うようになって、元気になって巣立っていったり、不登校の女の子とお母さんが真冬の吹雪の中でも、礼拝に来てくださったり、福島から避難してきた女性や、同じく非難してきた母子家庭の家族と出会ったり、書き出すと長くなってしまいますが、そのような弱さを抱えた方々が、しばし翼を休めるオアシスのような居場所として、主に用いられてもいました。

 そんなひとりひとりと教会で出会いながら、この「酒田」という場所で、バプテスト教会を形作るということは、どういうことなのだろうと、考えさせられ続けた日々でもありました。

 2015年3月。HさんやIさんという、クリスチャンとして生まれたばかりの人々を置いて立ち去ることは、正直心痛みました。しかしこれ以上私たちがここで頑張るのは、連合の働きを、私たち個人の事にしてしまうのではないかと思い至り、後は母教会と連合諸教会に委ねて「酒田」の地を離れました。

 私たちは、いまでも少し「酒田ロス」です。特に妻はそのようです。この短い文章を書くだけでも、ずいぶん悩み時間がかかりました。年月が経つほどに、思い出は美しくなっていくからでしょう。
 すべての出会いと出来事を与えてくださった主に感謝いたします。



「素敵な出会い」 藤井麻美
 2006年に、私たちが住み慣れた東京を離れて、酒田に移り住んだ頃は、知り合いのいない寂しさから、涙が出てきたり、なかなか進まない伝道の働きに苦しい気持ちになることもありました。しかし、8年半の歳月の中で、神さまはすてきな出会いをたくさん与えて下さり、何より主と出会う方々が与えられたことは、嬉しいことでした。

伝道所のあるあたりは、昔ながらの風習が色濃く残る地域でしたが、「のぞみ教会」が、子ども達やその親御さんたちと関わったり、日曜日には数人が訪れ、賛美歌が聞こえてきたり、また、たびたび山形、仙台、東北各地や関東、はたまたアメリカなどから、応援部隊がやってきて楽しそうに子ども達と遊んだり、音楽会のようなものをしていたり・・・。そんな姿を遠巻きに見たり、うわさを聞いたりして、少しずつ、地域の方々に受け入れられてきたように思います。
ですから、私たちが酒田を離れると聞いて、意外な方々が声をかけて下さり、嬉しいような、もっと早く言って欲しかったような、何だか複雑な気持ちでした。
「じゃあ、教会はどうなっちゃうの?」
「私も何か手伝いたいと思ってたんだよ。」
「いい働きしてたよね。」
「まみさんだけ残れないの?」(それって・・・。)
「もともと酒田の人だと思ってたのに。」
「なくなるなんて、ひどいよーーーー」(これは、のぞみキッズの子どもからでした。)

 伝道所では多くのプログラムはなかったので、訪ねて来られた方々からゆっくりとお話を伺うことがありました。それぞれの方のご家庭や仕事、人間関係の悩みを伺い、時には食事を共にし、祈り合う。それは、私たちがこの地でさせていただいた大切な奉仕だったと思います。
エス様はこのようなことを言われました。
「そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。』 」マルコによる福音書 9章36・37節 
話を聞くことが、その人を受け入れるということになるならば、伝道所に来られたお一人お一人のお話を伺い、祈り合えたことは、私自身がイエス様を受け入れることにつながっていたのだと改めて思わされています。

また、私にとっては、酒田を離れるまでの5年間続けることのできた子ども英語教室は試行錯誤の連続でしたが、楽しい思い出が詰まっています。英語教室がきっかけで、のぞみキッズに来るようになった子がたくさんいて、イエス様のことを伝えることができたのは嬉しいことでした。今は、教会に行くことができていなくても、彼らがいつか、あの楽しかった「のぞみキッズ」を思い出し、教会に行ってみよう、聖書を読んでみようと思い、イエスさまにもう一度出会えますようにと祈り続けています。

英語教室の最後のレッスンの日には子ども達やお母さん方とのお別れに互いに涙を流し、また、のぞみキッズに来る子ども達との別れにも涙、一緒に祈り合った信仰の友との別れに涙・・・。心と心がつながり合うよう出会いが与えられ、別れの涙を流すことになるとは8年半前には想像もできないことでした。

酒田は、豊かな自然に囲まれ、お米も野菜も肉も魚も(日本酒も!)おいしいものがたくさんある食材の宝庫です。人との良好なつながりを持つことができて、安定した職に就いている人々にとっては、まさにカナンの地と思えるほど恵まれた土地です。しかし産業も少なく、職を求めて酒田から出て行く人も多いので、人口は年々減っています。全国上位の自死率の高さが示しているように、人との関係を上手く築けなかったり、経済的な困難さを抱えたり、さまざまな依存症に苦しんでいる方々にとっては、けっして暮らしやすい土地とは言えないでしょう。

酒田を離れて2年が経った今でも、毎日のように、酒田で出会った人々やさまざまな出来事がふと思い出されます。これからも祈り続けていたい、つながり続けていたいと思うすてきな出会いを与えて下さった神さまに感謝しています。